Googleと鉄腕アトム:年頭に掲げる重い課題

明けまして、おめでとうございます。今年も「風観羽」を宜しくお願い申し上げます。今年は従前より多少取り扱う範囲を広げながらも、本当に自分が感じていること、問題意識等を多面的に取り上げてみたいと思います。ご意見ご感想等、お待ち申し上げております。



2010年のビッグプレーヤー


2009年の世界のインターネットを振り返ると、twitterFacebook が話題の中心であったことは異論のないところだろう。世界中で勢力を拡大しているFacebookも、今のままでは日本に浸透していくことは望めない情勢になりつつあるが、「ソーシャルゲーム」を軸に、mixiGree、モバゲー等が活況だったことを見れば、そのエッセンスは日本でも多大な影響力を持つことは、これまたあまり異論のないところだと思う。この2者に、AppleGoogleを加えると、2010年も世界をリードするビッグプレーヤー四天王であろうことは、こんなことを書くこと自体恥ずかしいくらい自明のことに思える。



Facebookが先頭ランナー?


その中でも最も注目すべきなのは、ということになると、下記の記事にもあるとおり、twitterFacebook、中でもFacebookがその候補の筆頭に上がることが多く、今年もインターネットに係わる者は、「ソーシャル」と格闘することからは逃れられそうもない。ここではこのトピックには深入りしないが、「FacebookGoogleを超えていく」と述べ、その理由として、「データを集めることは、人びとを結びつけることに比べて価値が低いからだ。」とするSean Parker氏の見解はそれ自体非常に興味深い。

明日のWebを支配するのはTwitterとFacebookだ, Googleではないという説 | TechCrunch Japan

http://jp.blogherald.com/2009/12/21/why-Facebook-not-twitter-will-become-the-pulse-of-the-planet/



Googleの世界に与える多大なインパク


だが、狭義のインターネットシーンだけでなく、「世界に最もインパクトを与えるプレーヤー」となるとどうだろう。異論はあろうが、少なくとも当面、Google抜きでは語れないと思える。Googleは近年、インターネット/webを超えて、リアル世界との接点を大きく広げ、ポジティブな意味で驚きと効用と期待感を人々にもたらすと同時に、非常に深刻なコンフリクトや不安感を与えてきた。


ブックサーチでは世界中の著作者や出版社を震撼させ、無料カーナビでは既存のカーナビメーカー(TomTom GO等)の株価を急落させ、アンドロイドで携帯電話/フマートフォン業界に大きな波紋をもたらしたばかりか、今度は自らが携帯電話ハード(Nexus One)を発売するという。クロームOSではマイクロソフト帝国の本陣に揺さぶりをかける。さらには、今後急速に進むことが予想される電気自動車の浸透に合わせて注目されるスマートグリッド*1にも名乗りを上げ、ことによると次代のエネルギー関連業界はGoogleなしには語れなくなる可能性も匂わせる。もはや、Googleは、インターネット企業の枠を大きく超えて、既存ビジネスのセンターラインに大きく躍り出て来ている。世界の中心にいる、というのは誇張でも何でもない。



本質的な問題を喚起する両義的な存在


Googleは世界をワクワクする場所に変えてきたことは間違いない。だが、その一方であまりの影響力の大きさに、 Googleがevilになるのかならないのか」というようなテーマは、この数年さまざまな議論を呼んできた。だが、そのような抽象的な議論をしている間に、事態はもっと大きく先に進みつつある。Googleに権益を侵害される既存の事業者にとって、Googleは破壊者そのものだ。倫理的な問題を問うている余裕など無い。世界を進化させようとするがゆえに世界を破壊もする。おそらくそれは、Googleの経営者の意図とか善意とか言うようなものも超越している。インターネットがその本質に持っていた「破壊神」のエッセンスがインターネット先頭を走るGoogleの体をかりて現れてきたとさえ言えるのではないか


それは、「破壊神」と「創造神」の両方の要素を持つ両義的存在、だから、インターネットを迎え入れた世界は、この巨大な善悪を併呑する「本質」を乗り越えることなく、その先に進むことはできない。そういう大きな課題と本格的に取り組むことを余儀なくされているのだと思う。国や文化によって、その現象は非常に違った形で現出することになると思うが、少なくとも日本においても、看過できない課題/問題であることは言うまでもない。


実はそれはすでに人類に投げかけられた本質的な問いに似ている。いわゆる、「核」ないし「核兵器」の問題だ。



鉄腕アトムを連想させるGoogle


実は、Googleの活動をウオッチするようになって以来、私は、Google鉄腕アトムに似ていないか、という連想に何度かとらわれたものだ。あまりに突拍子もないため、誰にも語ったことはなかったが、先頃、中沢新一氏の著書、「ミクロコスモス1」*2の中の一説を読んで大変驚いた。中沢新一氏も、鉄腕アトムに関して同種の感想を抱いておられたことがわかったからだ。

私は子供のころ、岡本太郎のこの言葉を聞くたびに、「鉄腕アトム」を連想しました。アトムは明るい少年ですが、胸に原子炉をもって空を飛んでいます。悪者たちと戦い、しばしば大けがをして空中から落下します。もしもアトムが墜落したらどうなるのだろうと不安で不安でしかたがありませんでした。 同掲書P110

手塚さんは、人間の良心と科学技術は両立するのだろうか、という問題を追究されていました。なにより鉄腕アトムの身体構造そのものが、この矛盾をあらわしていました。つまり、アトムは、この世界に平和と幸福をもたらすためのロボットですが、胸には原子炉をもち、いつ爆発するかわからない危険を抱えているのです。「芸術は爆発だ」という岡本太郎の言葉は、この鉄腕アトムがはらんでいる矛盾と、そう離れているものではないと思います。 同掲書P110


創造と破壊は対極にあるのではなく、恐ろしい破壊的な力も、時にそれは人間を解放し、新しい創造を生む、というわけだ。その象徴的な存在が実は「鉄腕アトム」ということになる。それはまた、Googleの持つ宿命に似ているのではないか。



破壊から目を背けてはいけない


今の日本では、特にこのことをよく考えてみる必要があると思う。(最近の私のメインテーマのひとつでもある。) 現状維持という意味での安心安全を最上として、変革と直面することをなにより嫌い恐れる。だから、Googleを恐れ、グローバリズムを嫌悪し、小泉改革を蛇蝎のように忌み嫌う。それは、創造を生まないばかりか、本格的な破壊に思わず知らず身をゆだねることになりはしないか。逆説的ではあるが、この死と破壊に直面しない姿勢こそ、人間の心の奥に潜む、人間を解放するためのエネルギー=破壊力を破滅的な形で現出することにつながるのではないかと、しばし本心から懸念する。目を伏せていると、直面するよりもっと悲惨なことになりかねないと思うのだ。


2010年という、象徴的な年を迎えるにあたり、この2010年を失われた10年(または悲惨な崩壊)の始まりにしないためにも、是非このことに一人でも多くの人が思いを馳せることを願いたい。自分自身、年頭にこれを書き記し、しばしば思い起こし、また時々思うところを書き足して行こうと思う。

*1:スマートグリッド - Wikipedia

*2:

ミクロコスモス I

ミクロコスモス I