『情報社会時代のリテラシー教育が目指すもの』の良質なメッセージ


概要


7月13日に、国際大学GlLOCOMにて行われた「情報社会時代のリテラシー教育が目指すもの」というセミナーに出席したのだが、少々個人的な事情もあり、ご報告が遅れてしまった。例によって、内容をそのままレポートする力も余裕もないので、感想等、簡単にコメントしておきたい。

開催概要は、下記の通り。

タイトル: 国際大学GLOCOM公開コロキウム「情報社会時代のリテラシー教育が目指すもの」
講師:  小寺信良氏(MIAU代表理事)、中川譲氏(MIAU理事)
日時:  2009年7月13日(月) 午後1時30分〜4時
会場:  国際大学グローバル・ コミュニケーション ・センター
      (東京都港区六本木6-15-21ハークス六本木ビル2F)



地味だが重要なテーマ


最近のMIAUは、『Tsudaる』の津田大介氏の華やかな活躍がどうしても目立ってしまうが、今回のようなセミナーに出席してお話を聞くと、地味だが重要なテーマにもコツコツと取組んでいることがよくわかり、大変好感が持てる。しかも、講師のお話を聞いていると、このテーマに取組むことは、狭義の教育論を超えて、否応なく押し寄せる高度情報時代どのように振る舞うのが一番懸命な姿勢なのか、という普遍的なテーマと正面から取組むことであることを、再認識させられる。



小野寺氏のお話


前半の小野寺氏のお話は、『リテラシー教育、MIAUがトライしたいくつかの試案』というタイトルで、MIAU作成の『”ネット”と上手く付き合うために』http://miau.jp/20081015/MIAU1.1.pdf というテキストを紹介しつつ、現実の取組みでの難しさ、問題点等が取り上げられていた。携帯電話がただの電話として認識されていた時代はともかく、インターネットへの入り口としての『ケータイ』へ進化を遂げた今、親の都合のよい情報統制、ペアレンタルコントロールは非常に難しくなった。一方、リテラシー教育といっても、本気で取組もうとすれば、途方もない勉強が必要に思える。インターネットにさほど詳しくない普通の親が本当に取組んで成果を上げることができるのか。この苛立ちが、形となって現れているのが、子どもの携帯電話所持自体を禁止しようとする動きだろう。



文明論的テーマ?


しかしながら、その便益の巨大さ、国際的な広がり、社会への深く広い浸透の実態等、どこから見ても、インターネット自体からはもう引き返す事は不可能であることは、大半の人は異論がないだろう。それは、自動車が普及することにより、交通事故の増大、環境の悪化等それまでになかった非常に大きな問題をはらみながらも、それなしでは成り立たなくなった文明には、自動車とどう折り合いをつけて行くかという方向にしか解決方法がないことに似ている。


それをすべて否定しようとするのは、文明そのものに背を向けるに等しい。私自身、あからさまな文明礼賛には加担したくはないが、背を向ける非現実性は理解できるつもりだ。むしろ積極的に折り合いをつけるべく取組むことこそが、あるべき姿勢だと思う。そういう観点から見れば、子どもにも、早くから高度情報社会を生き抜く知恵を教えて行くことが重要と言わざるを得ない。ケータイインターネットから完全遮断することの非現実性や、予想される逆効果等にも無関心ではいられないはずだ。MIAUの取組みの難しさは、今の日本社会でのこの問題の難しさの縮図だが、こうやって折り合いをつけることに正面から取組むことでしか、解決の道筋はない、と私には感じられた。



中川氏のお話


もう一人の講師、中川氏は、『携帯電話はどう「有害」になったか』というタイトルで、新聞記事データベースを援用して、携帯電話が批判されるようになった経緯を追う。そして、これを過去の様々な機器やサービス導入に伴って起きた、批判のパターンと比較しすることにより、携帯電話が特別に有害というわけではなく、むしろ新しい機器が導入された時の普遍的なパターンを踏襲しているに過ぎないことを活写してみせる。電気燈、テレビ、ポケベル、インターネット、自動車強盗等、もはや批判が強かったことを人々が忘れてしまった事例が紹介されている。携帯電話も、マスコミ報道を時系列に見れば、『明るい未来を喜ぶ』→『物理面の危険性を指摘する』→『利用による危険性を非難する』→『利用の制限の是非を問う』というように変遷してきており、本当の問題が取り扱われているのではなく、バイアスに振り回されているという。急激に普及して旧来の社会を変えてしまうような機器が導入される時の、お決まりのパターン、サブシステムを理解することで、携帯電話有害論者に冷静になることを求めている。


この文脈は、ちょうど発刊されたばかりの、荻上チキ氏の『社会的な身体』*1の第一章、『有害メディア論の歴史と社会的身体の構築』と非常に近い構成だ。さらには、特に産業革命以降の文明の利器導入と社会での摩擦の様々な歴史を見ても、同様のパターンを数限りなく見つけることができそうだ。確かに、過剰で、無意識的、かつ感情的な反発は、しばし自分が普遍的なパターンを踏襲していることを気づくだけで、収まるケースも少なくない。自分自身を客観的に見直すことの重要性は、もっと多くの人が意識すべきだと私も思う。



スピードの異様さ


ただ、従来と違うとすると、異様なまでの『スピード』だろう。普遍的パターンであることを仮に認識できたとしても、それを受容するためには、一定の時間が必要だ。過去、何度も繰り返された問題は、いずれも、特定の誰かが解決したというより時間が解決したというのが本当だろう。現代の最大の問題は、時間が解決する以上に新しい問題が発生してしまうことではないか。そして、本来時間があれば心理的に許容できたであろうことも、その余裕が許されない。このバランスが悪いと如何に頭でわかっても体が納得しない、ということになりかねない。荻上チキ氏の言葉を借りれば、社会的身体の構築が間に合わないというところだろうか。



それでもできること


だが、それでも、中川氏や荻上氏の仕事を見て感じるのは、歴史的事実を掘り起こしたり、将来へのシナリオで繰り返しシュミレーションを行ってみる等、自分や自分たちを客観的に見る作業を積み重ねることで、少しでも必要な時間を短くすることはできるかもしれない、ということだ。そういう意味では、自分でも何かできることがあるかもしれない、という気にさせられた。 あまり目立たないかもしれないが、事前の予想以上に得るところのある良質なセミナーだった。

*1:社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)