せっかくだから『派遣切り』問題を基にできるだけ深く考えてみる

迷走する派遣切り問題に関する議論


いわゆる『派遣切り』問題は、今では日本の最大の政治課題の一つになった感があるが、自動車各社を始め軒並み一層の人員整理を宣言する会社が相次いでおり、年度末にかけてさらに深刻な問題になることが確実な情勢だ。昨今はブログ等のインターネット系メディアだけでなく、TVや新聞等の既存のメディアも盛んに取り上げ、議論も沸騰している。ただ、沸騰するのはよいのだが、どうも明らかに的外れな議論も多くなっていることはやはり気になる。


昨今は、『行き過ぎた資本主義の問題』『グローバリズムの弊害』等に、安易に原因を押し付けようとする傾向も顕著だが、確かにそれは遠因ではあろうが、やや議論が荒っぽ過ぎる。さほど事態は単純ではない。そもそも、それでどうやって具体策を導き出すのか。大方、非常に抽象度の高い精神論か、教育批判になるのがせいぜいではないか。中には、高度成長を支えた日本的経営の再評価とか、世界に名を馳せた日本のまじめさや勤勉さを取り戻せというような、場合によっては問題をさらに複雑化しかねないような、迷走した意見も少なくない。


私自身も、経営者の『道徳』や『社会的責任』について1月7日付けのエントリー*1で取り上げたりもした。したのだが、同時に、道徳を取り戻すキャンペーンをやっても、学校で道徳教育を促進しても、それだけで問題が解決することはないと考えている。例えば、共産中国や旧ソ連は過去何度も『道徳教育』や『精神改革キャンペーン』のたぐいを実行して共産主義の徹底をはかり、人々の怠け心を矯正しようとしてきたが、成果が上がったという話はついぞ聞いたことがない。



最も適切な理解と対処とは


派遣切りに先立つ、最近の日本の労働問題全般について言えることだが、山岸俊男氏が、『日本の「安心」はなぜ消えたのか』*2で取り上げているように、高度成長期を支えた日本企業の村落共同体的なシステムが、維持できなくなってたことによる軋轢、とする把握の仕方が最も正鵠をえていると思う。とすれば、ここは冷静にシステムの問題として対処するのが一番合理的で、混乱も少ないと言える。


ちょうど、池田信夫氏のブログの1月21日のエントリーに、ほぼ同主旨の意見が取り上げられている。

雇用問題の本質は「市場原理主義」でも「階級闘争」でもない。戦後しばらく日本社会の中核的な中間集団だった企業の求心力が弱まり、社会がモナド的個人に分解されていることだ。(中略)

ハイエクは、世間の「保守派」というイメージとは逆に、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名だとし、そうした部族社会の道徳を批判した。彼が近代社会をGreat Societyと呼んだのは、ローカルな部族社会の道徳とは異なる普遍的な法の支配の成立する「大きな社会」という意味である。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/412ebde80d54a027aaf3431de4363563


日本も部族社会から大きな社会への不可避の移行が起こっており、部族社会の道徳から普遍的な法による支配への移行を推進せざるをえない。(なぜ不可避なのか、という疑問を感じる人は、是非山岸氏の著作を読んでみて欲しい。)そして、分断された個人のコミュニケーションの回路や解体された部族社会的セフティーネットを一刻も早く構築することが重要で、このような理解に基づくシステマティックな対処をしなければ、混乱はむしろ拡大しかねない。



あえてさらにその先を考える


ただ、私としては、あえて、もう一度、道徳の問題を持ち出したい衝動にかられる。社会のセフティーネット構築は一義的には道徳の問題と切り離すべきシステムの問題だと思うが、文化に内在する公共性、精神性の高さ、モラルの高さ、相互扶助の精神等の存在はモナド的に分解され放り出された個人の包容性を高めるにあたっては不可欠の要素だと思うからだ。


トリクルダウン理論というのがある。富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという経済理論(あるいは経済思想)である。格差が拡大しても富める者が意欲を出して経済が活性化して、全体のパイを大きくすれば、余録は下層にも及ぶから、分配の公平性とか格差の解消とかにあまり配慮をはかる必要も無いだろうという考え方だ。(政治的な対立も少なくて済む) 逆にパイが縮小すれば、分配論、格差解消論がいやが上にも盛り上がる。(まさに今の日本だ。)レーガンサッチャー改革の中核思想と言っていいし、小泉改革を支えた理論でもある。(最近では、分配が公正に進まない等の批判もあり、必ずしも万能には見えなくなって来たが、それでも、この考え方は(十分条件ではないとしても)必要条件として今後もなくならないだろう。)


トリクルダウン理論が背景にあると、何よりまず経済の拡大が優先で、どうしてもその他の要素を軽視しがちになる。一方で、共産主義社会主義の挫折は、同時に社会改革の理想の挫折感をもたらして、その挫折感はそのまま居座ってしまった。その結果、経済への価値一元化(=拝金主義)と社会改革全般に対する挫折感/ニヒリズムが広がってしまっているのだと思う。この状況でなお社会の精神性の高さをどう担保していくべきなのか、というのは、やはり残された重要な課題であることに変わりはない。



社会三層化論を再利用できないだろうか


今回このようにあらためて考えてみると、社会は経済だけで成り立っている訳ではなく、最低限、『経済』『法の執行/政治/利害調整』『精神活動/芸術や道徳の追求/宗教』のレイヤー(層)があり、ある程度相互に独立して不可侵の領域があることを前提にしたほうがよいのではないかと思えるマルクスの主張するように、経済を下部構造として他の要素はその上に乗っかると考えるのでもなく、宗教や道徳が政治や経済を支配することもよしとしない。どれかの要素が他の要素を支配し始めると、あまり良い方向に行かないのは、歴史が証明しているように思える。資本主義的な競争概念を教育に持ち込むのもその例の一つかもしれない。


マザー・テレサのような超越的で奇跡のような個性が、経済とも政治ともほとんど関わりを持たず、黙々と活動する姿はそれ自体感動的で、大変な影響力もあり、それを受け入れる社会は豊穣になる。しかし、マザー・テレサの遺骸を奪取して、言行録を聖書とし、軍隊組織を作って有無を言わさず布教してまわれば、いかにもグロテスクだろう。


実は、これは、シュタイナー教育で有名な、ルドルフ・シュタイナー*3の『社会三層化論』*4の考え方と近い。社会三層化論自体は、そのままでは現代社会に適用するのが難しく感じられるのだが、そのエッセンスをうまく引出せれば、21世紀の社会運営に生かせるコンセプトとてして蘇るのではないか。ここのところはもう少し煮詰めてから、あらためてご披露したい。