『昭和三十年代主義ーもう成長しない日本』を読んでみて


昭和三十年代主義とは


前回のエントリーで少しふれた、『スローライフ』というタームは、私としては結構気に入っていたのだが、あっというまに消えてしまった印象がある。だが、言葉自体の消長とは別に、この言葉が象徴する意識や思想はけして一時的なものではなく、もっと息の長い、本質的な変化の到来を予感させるもののようだ。それを、『昭和三十年代』に仮託して、しかし、もっと広大なパースペクティブでまとめあげられたのが、浅羽通明氏の『昭和三十年代主義ーもう成長しない日本』*1である。


確かに、ここ数年の昭和ブーム、中でもそれを代表する存在としての、映画、『Always 三丁目の夕日*2はその続編を含めて大ヒットしたのは記憶に新しい。浅羽氏が例を引くように、確かに昭和、しかも、映画で描かれるような三十年代のころの雰囲気、物などを懐かしむことは明らかにブームと言えそうだ。しかも、実際には昭和三十年代を知らない若年層まで『懐かしい』という感想を漏らすというから、それが本当なら、今の日本人の集合的な潜在意識に、昭和三十年代の持つ何かを希求するところがあるのだろう。



指摘されている問題の本質


ただ、このタイトルもそうだが、これほど誤解を招きかねないテーマもないだろう。そもそも昔を懐かしむこと自体、退嬰的で、それでなくてもすくんでしまった日本がますます衰えて行くような風潮には加担したくない考える人も多かろう。また、実際の昭和三十年代のことを知る人は、あの時代の不便さ、不潔さ、抑圧的な人間関係等、懐かしさとは裏腹なネガティブなものが多いことを忠告するかもしれない。しかも、著者の浅羽氏自身、昭和三十四年の生まれという、リアルに昭和三十年代を体験している世代だが、あの時代は嫌いだと言う。

実のところ、本書を著した私自身は、昭和三十年代への郷愁など、まるでありません。敢えて言えばあんな時代は大嫌いです。(中略)昭和ブームに批判的な論者が指摘する通り、本当に、汚く、不便で、貧しく、粗野ないじめが蔓延り、人情のしがらみが濃い鬱陶しい時代でした。同掲書P382


その本人が、それでも、昭和三十年代のあるエッセンスに多くの人が惹き付けられ、今の時代、というより、これからの時代を生きて行くためのよすがになりうる要素がある、というところが興味深い。ここで言う昭和三十年代主義というのは、リアルの昭和三十年代ではなく、生きられなかった過去、すなわち、『昭和三十年代から高度経済成長へ到る歴史のどこかにあったかもしれむ、もう一つの現在への分岐点を探す』ことが目的だという。確かに、今、日本人は日本に生きることで『幸福感』を感じることができず、抑圧と競争の果てに、かつて見ていた夢、いわゆる『坂の上の雲』を信じることはできなくなっている。『夢』や『希望』を持って前進したはずなのに、いったいどこで間違ったのかと当惑している人は本当に多い。だとすれば、本書が提示する問題を乗り越えずして、日本の明日を語ることはできない、と言ってもいいのではないか。



それはつくられた架空の昭和三十年代


前提として確認しておくべきなのは、今昭和ブームと言われているが、ブームになっている昭和と、まったく取り上げられない昭和があることだ。昭和三十年代がブームでも、加山雄三氏演じる『若大将シリーズ』が取り上げられることはない。松本清張氏のリバイバルはあっても、高度成長期のサラリーマンを肯定的に取り上げられた、源氏鶏太氏がリバイバルしたという話しは聞かない。高度成長やそれを支えたマインドが懐かしい訳ではない。


さらに興味深いのは、企業のサラリーマンではなく、商店主や職人の生き方が注目されていることだ。現在を犠牲にしてひたすら将来の成長のためにがまんを重ねるという生き方、すなわち『生産→資本蓄積→設備投資』というような大企業の発展図式を個人にも当てはめて蟻のように頑張ることに意義を見出すこともなく、定期的に祭りで一気に使い果たす。日々の蓄積は、祭りで一気に盛り上がるためにある。(祝祭/蕩尽論で語られる社会の復活?)高度成長型のサラリーマンではなく、そんなタイプの地元密着の職人/商店主のほうが注目されているようだ。


時代の実情にあわせて


バブル崩壊を機に、右肩上がりの成長は終わったとの認識は比較的早い段階で共有されるようになったが、浅羽氏の言うところの『ナウ信仰』、すなわち新しいものを次々に持ってきて、消費と購買欲をあおり、成長を続けていくというパターンに固執し続ける企業は多い。しかしながら、結果的に見るとすでに潮目は完全に変わっていた。特に、象徴的な年とされる、1995年以降は、目に見えて市場も購買行動も変化しだした。ITバブルという若干のゆり戻しはあったものの、今やはっきりと実経済にもその痕跡があらわれるようになってきている。それを象徴するのが、若者の自動車離れだろう。95年から数えても、すでに14年の時が流れようとしているわけだが、そのほとんどは長い不況、経済の低迷だったし、低所得層の問題という、一端は高度経済成長が解決したかに見えた問題も再び俎上に上がってきている。非正規雇用の比率が高く、危機感の強い若年層が、低迷する経済の実態に、自らの生活パターンをアジャストするには長すぎる時間だったとも言えるだろう。それは、はからずも、リーマンショック以降の、おそらくはさらに『痛み』のある不況期となるかもしれない、これからの時代を迎える準備期間になっていたのかもしれない。



それでも夢と成長を志向するなら


ただ、私は、成長志向/上昇志向の薫陶を受けて来た世代ということもあるかもしれないが、あらためて夢を持つこと、成長を志向することの価値をそれ自体として再評価してみたいとむしろ考えている。もちろん、それが構成員のすべてのあるべき価値であるかのような幻想に社会全体が飲み込まれてしまうような状態はごめんこうむりたいが、振り子を反対に振り切って、成長を否定するのもバランスを失していると思う。浅羽氏も書かれているように、高度成長やナウ信仰の問題は、個人も、会社も、国家も、成長を抽象的な数字に置き換えて、個別の具体性を無くし、何を達成しているのかわからないままに、数字だけ肥大化していくようなあり方にある。ヘッジファンドが暗躍した金融などその典型と言えそうだが、組織の肥大化とともに、自分の役割を果たす充実感、個別具体的な達成感など二の次になってしまった。そのような数値への熱狂は、もういくらあおられても反応しようがない。同様に新しい事に最上の価値をおいてひたすら新奇さを競うというありかたも、ネタのばれた手品同然と言っていい。


米国を中心としたインターネットをの興隆の背景にある思想は、ヒッピー思想、最近で言えば、カリフォルニアン・イデオロギーと言われるような、産業資本主義に対するアンチテーゼ、乃至、カウンターカルチャーと言われており、確かにその姿が随所に見られるようになって来ている。日本でもエヴァンジェリスト(伝道者)と呼ばれるような人は、ここのところに旧来の社会構造を破壊的に変えて行く予兆を感じているとも言える。日本ではまだ少数派かもしれないし、米国とはまた違った姿になっていく可能性も高いが、インターネットの持つポテンシャルによって、産業化の論理で覆われて、すべてが『企業化』してしまった社会のあり方を、個人の手に取り戻し、梅田望夫氏の言う、個のエンパワーメントを実現していくような変革を夢見ることを私もまだやめたくはない。単に米国式の受け売りではない、日本発の普遍的なあり方をまとめあげて発信してみたいものだ。それが夢想といわれようとも。


*1:

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

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*2:

ALWAYS 続・三丁目の夕日[DVD通常版]

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ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

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