多重化するネット人格を前提とするべき


実名か匿名か


以前、佐々木俊尚氏の著書『インフォコモンズ』の書評を書いた時佐々木俊尚氏著『インフォコモンズ』を読んでみた - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るにも述べたことだが、私は、米国発のSNSであるFacebookのように、実名をベースに各自がネットワークを広げていって、人間関係のすべてがお互いに可視化されるという未来像は、感覚的にどうも違和感がある。だが、必ずしもうまく言語化できない苛立ちを正直なところ感じていた。


この違和感が係わるもう一つの問題に、SNS、ブログ、2ちゃんねるのような掲示板等に参加して意見表明するにあたって、『実名とすべきか匿名でもよいか』という議論がある。これを『言論と責任』という文脈で読めば、首尾一貫した近代的自我をしっかりと確立して、自らの意見を明確に言語化し、論理術/弁論術を駆使して社会に自らのプレゼンスを拡大していくことを是とする主張が一方にある。西洋近代、特に、20世紀の米国では、そうすることが他民族社会で生残るための必須の条件でもあり、そこに誰にも明白なルールを持ち込むことで、公正さと正義の概念が確立して行った歴史的な経緯もある。国際化の進む世界では、米国の手法がプロトタイプになるべきという意見には、原則反対しにくい。


一方、日本では、こういう言論の下の公正さ、という概念自体が浸透しているとは言えず、国際化が否応無く進む中では、言論人から危機感が表明されることも当然と言える。だから、池田信夫氏がおっしゃるように、ネット空間での匿名性=不公正/卑怯ととらえ、それが現状の日本のネット空間の空気では合意しにくいことだとしても、あえて実名制の方向に流れを持って行くべき、という意見は一定の正当性があると言える。


そして、そのためにはできるだけ社会の透明性を確保するべきで、時として感情的に受け入れることが難しいとしても、その不快をあえて抑制してでも、『プライバシー』の権利はできるだけ主張すべきではないし、そのような概念を社会の中に構築するべきではない、ということになる。



日本の現状は・・


だが、日本は伝統的にこの文脈とは別のところに文化を作り上げて来たと言っていい国であり、上記のような考え方は、理屈としては受け入れながらも、なかなか身体化はしないのが実態だ。加えて、現代の日本社会では、この『首尾一貫した単一の近代的自我』をつくりあげて行く事がますます難しくなって来ている。これを現実として認めたところから始めないと、せっかくの正論がかみ合うことなく、現実味のない理想論になりかねない。 


以前も引用した、ITベンチャーOpenPNE社長の手島氏の発言を再度ここに引用してみる。


一人の人間にはさまざまな人格がある。たとえば子供時代の友人に見せる人格と家族に見せる人格、会社の同僚に見せる人格は、それぞれ異なっている。しかし今の大手SNSでは、ひとつの人格しか表に出せない。もちろんそれもリアルの人格の投影ではあるのだが、言ってみれば、渋谷のスクランブル交差点の雑踏の中でも出せる人格みたいなもの。会議室で見せる顔や自宅のリビングルームで見せる人格などは反映できないのではないか。佐々木俊尚氏著、『インフォコモンズ』P196 


私は、これがすごく自分の実感に近いと述べた。だが、それは私よりもっと、PCやケータイによるインターネット、ゲーム、マンガ、TV等でバーチャルに囲まれて生きて来た、私より若い世代の多くの人に取って、もっと深刻な問題ではないかと思えるのだ。



ネットでの人格(キャラクター)


例えば、日常的に、メール(含ケータイメール)やmixi等のSNSを利用していると、バーチャルであるだけに、リアルと違ってものすごい勢いで、『友達』が増える。以前リアルで会っていたが、物理的な制約で普段は会うことができない友達とも、日常的にコミュニケーションを取ることができる。それが旧来の基準で言う友達関係と言えるのかどうかは別としても、新しい種類の多くの友人に囲まれているのが今の若者の普通の姿だ。リアルの人間関係をネットで可視化していくことが目的でスタートしたとしても、いつの間にか、バーチャルでだけで関係を持つ友人たちが圧倒的に多くなっている人も少なくないはずだ。


バーチャルな関係というのは、経験した事のある人ならわかると思うが、自分で情報を統御しやすいため、そこに現出する人格を理想的に統御しようとするものだ。ところが、いつしか、その場で最も有効に機能し、バーチャルな友人たちが求める人格(というよりキャラクター?)が明らかになってくると、期待に応じてその人格を演じようとし、いつしか演じていたはずのキャラクターがその場における自分の人格そのものになって行く。ところが、その人格は、違う場(ちがうSNS、掲示板、ブログ等)では、同じ人格(キャラクター)を求められるとは限らないし、当人が違う人格(キャラクター)を演じてみたいと感じる事は大いにあり得る。これは誠意とか責任感の問題ではない。


また、TVに関して従来から言われていたことだが、TVの出演者(アイドル、芸能人等)はTVで最も際立つキャラクターをつくり、そのキャラクターであることを演じている。限られた時間の中で、他者との違いを明確に視聴者にアピールして、強烈な印象を残すキャラクター、それは明らかに日常を生きる人格とは似て非なるものだ。それは、従来はTV出演者という非常に限られた一部の人たちにだけ当てはまる限定的な出来事だった。ところが、誰もがネットメディアを通じて自分を現出する時代には、メディア向けの人格=キャラクターを構築していかないと、認めてもらうことができない。気づいてもらうことさえかなわない。逆にメディアに最適化された人格=キャラクターを構築できると、メディアの力をレバレッジにして、リアルではありえないほどのプレゼンスを示すことも可能となる。物心ついたときからバーチャルに住む若年層はこのことを直感的に理解している。


自分の人格=キャラクターは自分で統御できそうなものだが、コミュニティーの内部における人格=キャラクターは自分で決めるものではなく、人や環境が決めるものになりがちだ。その場のコンテキストが違えば求められるものは違う。そうして、最初は統一のリアルな人格が演じているだけのはずだったネット人格も、いつしかその唯一の人格自体を揺さぶり始め、誰もが多重人格者として生きることを余儀なくされ、場合によっては、そのいくつもの人格を統御できなくなる人も出てくる。



香山リカ氏の見解を参考にして考えると


精神科医香山リカ氏の著書、『生きづらい<私>たち』*1には、このあたりの状況が生々しく書かれている。


このまったく新しいコミュニケーションツールは、人と人との関係を革新的に変え、その結果として、人の心のあり方そのものを大きく変容させたことは確かだと思います。P83

ある広告会社が2002年にインターネットユーザー四千三百四十五人に行ったアンケートによると、「ネット上で仮名(ハンドルネーム)を使っている」という人の割合は九割に上がり、そのうち「二つ以上の仮名を使っている」という人も全体の半数に及んだ、ということです。P83


「普段の自分とネット上の自分に違いがあるか」という質問には、「やや違いがある」が十五・九%、「かなり違いがある」が一・九%。大ざっぱに言えば、五人にひとりは「ネットだと別人格」と認識しているわけです。その「別人格」についての質問では、「陽気になる」「大胆になる」「社交的になる」など、より外向的に開放的に、という回答が多く、その理由としては「理想の自分を演じていると幸せを感じる」『別人格のほうが本音を語れる』などとさまざまな答えがあげられました。P84


香山氏のこの本では、1990年以前にはほとんど症例の無かった、解離性障害(心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う神経症の一種。自分が誰か理解不能であったり、複数の自己を持ったりする。)がものすごい勢いで増えていること(町のクリニックの3〜5割は解離性障害?)、若者の間に、障害とは言えないまでも、乖離的な問題を持つ人が急増していることが、報告されているが、インターネットとの因果関係の有無については判断保留の立場のようだ。確かに、科学的な解明が進んでいるとは言えないし、その議論が一人歩きすること自体の問題もある。ただ、現象として実際に、自己そのものに解離が起きている状況で、自己責任、自己決定を強要することの危うさについて懸念を表明されている。


『自己責任』『自己決定』というときの『自己』そのものに解離が起き、さっき考えたことと今考えたことが違ったり、一週間前に何かを決めたということさえ忘れてしまったり、という事態が、障害や疾患と判定はされないようなレベルの人でも、ごくあたりまえに起きているのです。そういう状態で、『あなたが自己責任で決めたことなんだから、あとはどうなろうとあなたの責任だ』と丸投げすることはできるでしょうか。P60


若者の多くがこのような状況にあるとすれば、ますます、『近代的自我の確立と自己責任の徹底』という価値観を社会に徹底していくのは至難の技と言える。そして、グローバル化と自己責任を強調すればするだけ、『生きづらい』若者を決定的に追いつめてしまうことになりかねない。



ポジティブであることが大前提


精神科医のご意見なので、ショッキングな印象が強くなってしまうかもしれないが、歴史的に見ても、社会の構造が大きく変わる時は、往々にしてその新しい動向について行けない人たちの心の問題が大きくなるのは避けられない。そういう意味ではまだまだこのような問題が顕在化するのも、これからが本番だろう。だが、もはやこの流れ(=インターネット化)を押し戻す事は不可能であることを所与として受け入れないことには議論は始められない。


しかも、一方では、従来には考えられなかったような創造性の拡大、コミュニケーションの新しい可能性、社会の固定的な偏見や因習の排除等、非常にポジティブな要素の顕現こそ期待できるわけで、現状を後ろ向きに嘆くより、ポジティブな要素を最大限実現していくことを前提としてすべての問題に対処していくのが21世紀の日本を生きる大前提だと考える。そういう態度でいてこそ、今起きている問題を本当に理解することも可能となろうというものだ。


このように、佐々木氏や池田氏が提起された問題に正しく対処するためにも、急速に起きて来ている社会の変化を正しく把握していくことがどうしても必要なことだと思う。

*1:

生きづらい<私>たち (講談社現代新書)

生きづらい<私>たち (講談社現代新書)