自分が背負う文化の影響とビジネス

インディ・ジョーンズの不可解なワンシーン


先日、文化系トークラジオLife*1podcastで聞いていたら、『方法としての体育会系』というタイトルで、出演者が考えるところの体育会系の定義や文化系との違いなどに話がおよび、非常に興味深かった。中でも自分がすっかり忘れていた、ある映画でのエピソードに話がおよんで、釘付けになった。


この夏、スティーヴン・スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演のハリウッド映画、『インディ・ジョーンズ』の最新作(クリスタル・スカルの王国*2が19年ぶりに封切りになったが、この第一作目、『失われたアーク』*3でのワンシーンでのことだ。インディ・ジョーンズが今ではすっかりおなじみになった、フェドーラ帽に革のジャケット、長いムチという姿で、悪党と戦っている最中、目の前に雲をつくような大男が現れる。当然ムチで倒すのだろうと思いきや、突然銃を取り出して、にこっと笑って『バン!』と撃って倒してしまう。正直なところ、当時の私は、これをどうしてもうまく咀嚼できなかった。



体育会系でも文化系でもない中途半端な自分


私自身は、学生時代はスポーツ全般は比較的得意で、大学時代には極真空手をやっていたのだが、所謂体育会の独特の雰囲気にはなじめず、大学所属の体育会空手部から何度か勧誘されたものだが、結局入らなかった。一方、特に文化系のクラブに所属したわけでもないため、『文化系トークラジオ』で語られるような文化体験は、組織的には経験した事がない。ただ、幸い、大学のゼミの仲間が『文化系』的なカルチャーを濃厚に持っていたため、彼らとゼミの活動をしたり、交遊するようになったおかげで、『文化系』の意味するところもかろうじてわかる。


当時は、体育会系に限らず、文化系のサークルでも、体育会的な厳しい運営をしていたところも沢山あったので、当時の日本(今はどうなのだろうか)の持つ、一種の学生カルチャー(それはその後、日本の企業カルチャーそのものであることがわかるのだが)と言ったほうが適切なのかもしれない。自分がどうしても違和感を感じていたのは、有無を言わさぬ組織優位の考え方や、考えるより行動を重視するというあり方で、内心反発さえ感じていたものだ。組織に自我を安易に明け渡すことは、仮に一種のゲームのようなものであったとしても、居心地の悪さを感じてしまうし、ましてそれを強制されるような事には疑問を感じていた。(まあ、今にして思えば、余裕がなくて若かったという気もする。)



中途半端な自分が憧れたインディ・ジョーンズ


そんな自分が憧れたあり方は、『独立独歩』、『自分一人で行動できる強さを持った人』であった。実は、この『インディ・ジョーンズ』こそ、そういう人であると何となく感じていたものだった。普段はスーツとメガネが似合う大学教授、それが冒険に出かけるときは、フェドーラ帽に革のジャケット、長いムチ、というオン・オフの区別の鮮やかさもとても格好がよくて好きだった。体育系、文化系ともに使い分けることができて、固定的なイメージにとらわれず、どんどん自分の世界を広げて行くあり方とでもいうのだろうか。


そんな私が、銃で『バン!』だけは、ずっと意味がわからなかった。



徒手空拳の潔さ


当時徒手空拳の潔さというのは、空手家にとっては大事な価値として尊重されていたと思う。銃のような武器を手にすれば、普段、どんな生活をしているのか、体や精神を鍛えているかどうかということとは何の関係もなく、喧嘩にも勝つ事ができる。一方、それを徒手空拳で迎えうとうと思えば、厳しい鍛錬が必要だ。それに耐える事ができたものだけが、肉体の持つ能力の限界という制約を乗り越えた自由を手にする事ができる。人間性が下劣なのに、自分の努力とは無関係に(親、お金等)力を持って人を屈服させようと言うやからに対しても、超然としている事ができる、というわけだ。


これは、当時、極真空手*4イデオロギーを支えた梶原一騎*5の思想の最もポジティブな部分でもあると今にして思う。そして、いざという時、誇りを失うくらいなら生に執着せずにあっさりと死んでみせる、という武士道精神と合体して、当時の若者を惹き付ける熱気もそれなりに持っていたと思う。だから、上記のような状況におかれたら、空手を捨てて、銃を取って勝っても、意味が無いと考えるのである。


予断だが、今日の若年層のキーワードの一つに、『自分探し』があるが、その根本願望が、現在の自分に満足できず、もっと輝いた本来の自分のあり方を見つけたいためなのだとすると、ある意味で空手家に代表される人種が目指したものも、自分の弱さに絶望し、それを乗り越えることで見えてくるかもしれない自分のあり方を、空手という格闘技の修行を通じて見つけることができるのではないか、と感じたわけだから、案外共通点があるように思われる。手法、周囲の評価等にまぎれてわかりにくくなっているが、意外と近いところに接点があるのではないかと思う。(これはまたあらためてまとめて書いてみたい。)


個としての自由を大事にするあり方という意味では、当時の空手家も、インディ・ジョーンズも、かなり近い存在に見える部分もあるのだが、何が違うのだろうか。



ルールを自分で創りだす柔軟さ


文化系トークラジオでの説明は、あのシーンは、インディ・ジョーンズが格闘のルールにこだわらずに、ルール自体を変える自由で柔軟な発想を持っていたことをあらわしていると言うのである。そういうあり方のウイットを、スティーヴン・スピルバーグ監督やジョージ・ルーカス氏はちゃんとわかっていて、ワンシーンとして織り込んだと考える。言わばこれは、今のシリコンバレーを支える精神、つまり、既存のルールに縛られず、ルールはどんどん自分で創って行く柔軟さを大事にする思想に通じるのだという。確かに、シリコンバレーを代表する企業である、googleのアップルもそのような思想を体現する企業だ。


確かにそう言われてみて、長い間納得できなかったことがすべて解決したように感じた。ただ、あえて言えば、あそこで銃で敵を殺してしまうからいけないのだ。銃を出したなら、それでロープを切って相手を動けなくするなどにとどめておいて欲しかった。如何にルールを自分で創ると言っても、相手を死に追いやるようなやり方は、シリコンバレーというよりハイエナ・ファンドのそれに近い。自分を剣で殺しに来た相手に、銃を持ち出すことで闘いのルールを変えて、落とし穴等にはめて(殺さずに)、にこっと笑いながら去る、というシーンこそがふさわしかったし、それなら、当時の自分でも理解できたように思う。幸い、スピルバーグ監督映画作品全般で見ても、私の知る限りこのシーンだけ(本当はまだあるかもしれないが)のようだ。



日本人は・・


日本人は、相撲にも見られるように、厳格なしきたりや様式美およびルールに制約された中での、わかりやすく、潔い勝負を好む傾向があると思う。勝負の勝敗そのものより、如何に美しく勝負にのぞみ、如何に美しく死ぬかということを大事にする。だから、判官贔屓のように、美しく潔く負けた敗者の方が人気が出たりする。海外の会社との交渉をやるとしばし感じる事だが、もめた交渉では、全体で負けても一つでも二つでも好条件を勝ち取るということは非常に重要なのだが、日本の交渉しか経験したことのない上層部だと、そういう時には潔く玉砕してこい! と本気で指示がでたりする。それは、交渉においては時として、最低最悪の結果を招く。自分が知らない間に背負ってしまっていて、しばし無意識に出てくる文化現象とでも言うようなものを知っておく事が今本当に重要になって来ている。



大事なヒント


私のように、20年くらいかかってしまうのもどうかと思うが、こういう、自分が感じた違和感は大事にして、自分がどうして違和感を感じるのかということを掴んで引きづり出してみると、意外に根深い、根本的な問題に通じていることに気づくことがある。それは、どんなことでも、嫌でもグローバルになってしまう今日の競争の勝敗を分ける貴重な要素にもなるし、新しい自分や会社のあり方を決める時の重要なヒントにもなりうると思う。