田中真知氏の『孤独な鳥はやさしくうたう』を手にして

私は旅人ではない


私は旅人ではない。それなりに世界の色々なところに行ったし、色々な国の人と話す機会もあった。でも、そのほとんどは仕事がらみで、現地に長くいる時は、にわか冒険家となって出かけられる限り出かけたものだが、たかが知れている。でも、旅人には憧れてきた。それは自分が生きることが出来なかった半身とでも言うか、光に対する影というべきなのか。表の職業人としての自分が旅人ではない生き方をすればするほど、裏の影が濃くなって行くことはわかるのだが、かといって何ができるわけでもない。


田中真知氏は、正真正銘の旅人だ。彼の新しい本、『孤独な鳥はやさしくうたう』を手にとって、第一章を読み始めてすぐにわかった。

孤独な鳥はやさしくうたう

孤独な鳥はやさしくうたう

でも、ただの旅人ではない。彼は一体何を見ているのか。何故あれほどの旅ができるのか。そして、少しわかって来た事がある。いや、今わかったのではない。うすうす気がついていたのだ。どうして自分が旅人になれなかったのかを。



昭和人にはわからない人生のあり方

日本? 日本の話なんかしたくないな。あの国では、ふつうに暮らしているだけで、数え切れない脅迫にさらされている気がしてくるんだ。事故にあったらどうする? 病気になったらどうする? 子供の教育は? 仕事は? 老後の備えは? 要するに、あの国では、自分がいまここに在るというだけでは、存在していることにならないんだな。いまここにない非現実的な危険や困難を想定して、おびただしい予防線を張らないと安心できないんだ。ばかげた幻想さ。だって、いまここに生きていることがリアルでなくって、実態のない不安や恐怖のほうがリアルだなんて、変だと思わないかい? 『孤独な鳥はやさしくうたう』P60


そう、私は『実態のない不安や恐怖のほうがリアル』と感じて生きて来た。でも、それはみんなそうじゃないのか? 

オレがマトンゲが好きなのは、やつらがいまだけを生きているからなんだ。今が与えてくれる蜜を、すべての感覚を総動員し、官能を鳴り響かせて、味わい、むさぼりつくす。喜びも怒りも嘆きも、人生のはらんでいるあらゆる振幅を味わい、飲み下す。それはかならずしもだれもが望む生き方ではないかもしれないけど、生きるってのは、そういうことじゃないかってオレは思うんだがな。 『孤独な鳥はやさしくうたう』P60

田中氏はモモなのか?


今気づいた。田中氏は、ミヒャエル・エンデ*1の小説、『モモ』に出てくるモモと同じなんだなと。モモは特に目立つ事もない、何でもない、ただの女の子。但し、人の話を聞くのが上手。でも、モモと話をしたものはみんな幸福になる。モモは自分から話をするわけではないのに、みんな自分自身の何かに気づいて行く。 


ある日街に灰色の男たちがやってきて、街の人たちが如何に時間を無駄に使っているかを上手に説明しだす。そんなにだらだらと、無駄な話をしたりして時間を使うのはもったいない。無駄を切り詰めてその分仕事をすれば、すごく大きな成果がでる。お金持ちになれる。街のみんなは灰色の男たちに説得されて、一生懸命無駄な時間を削って働きだす。もちろん、モモと話をするような無駄なことをする者はいなくなる。でも、それでみんな幸せになったのだろうか?


思えば、彼は実に不思議な人だ。昭和時代に育ったものは、ほとんどが、灰色の男たちの言う通りにしていたはずなのに。特に、学歴社会の勝ち組の中の勝ち組にいた彼(彼は慶応大学経済学部出身だ)が、いったいどうやって灰色の男たちの手から逃れることができたのだろう。私? もちろん、ちゃんと灰色の男たちの言う通り、頑張って来た。ただ、普通の人より早くその恐ろしさに気づいて、リハビリを始めた。でも、子供のころから刷り込まれた洗脳はそんなに簡単に洗い流せるものじゃない。まだ時々悪い夢を見る。



昭和人の悲哀


でも、私たちの仲間も、自己嫌悪に襲われなかったわけじゃない。何かがおかしいとは思ったのだ。そして、ゆとり教育をやろうと言い出した。ああ、しかしなんと業深きことか。彼らにそんなに悪気はなかったのだ。でも、こころに巣くう、『実態のない不安や恐怖』から自由になったわけじゃなかった。『努力と根性』を『ゆとり』という何かに置き換えて、子供たちの将来、という非現実的な危険や困難を乗り越えるための予防線にしようとした


そんなことはもちろん機能しない。その自己嫌悪から自由になりたければ、自分たちの子供たちを自由にしてやりたければ、『いまここに生きているリアル』『いまここに生きている充実』もっと言えば、『いまここに共に生きることの充実』を知るしかないのだから。(秋葉原無差別殺傷事件の犯人の話を読んでいると、彼のご両親もたぶん昭和に育った我々と同じ灰色の男たちに支配されて育ったんだなと思う。彼が友達もなく孤独でも、学歴社会の勝ち組になれさえすれば将来の不安を乗り切れると思ったのだろう。でも、本当は友達がいる事のほうがもっと重要だった。これは同じく、昭和時代に育った宮台真司氏の見解でもある。)



いまを生きる人たち


しかし、そんな程度の読みでは、田中氏の旅の、というより、田中氏の本当のメッセージを掴んだ事にはならないんだろう。


田中氏が遭遇している人物は、みんな普通じゃない。いや、普通なんだろうけど、田中氏にの前に現れる時の彼らは普通ではない。まるで異界から現れ、異界へ去って行くようだ。生きているか死んでいるかもわからない。そもそもそんな人はこの世にはいなかったのかもしれない。そんな彼の手にかかると、サン=テグジュベリ*2やモーリス・ラヴェル*3でさえ異界からやってきたんだなと、納得できる気がしてくる。


だが、その実、みんなリアルだ。いまここを生きている。まさにすべての感覚を総動員して、全身で生きている。彼らは、現在の時間を未来のために犠牲にするような生き方はしない。だから彼らが通り去った後は物悲しくも鮮烈だ。彼らの生きた時間は死んでいない。生きている。そして、それを知る田中真知氏がひとつひとつすくい取って語る時、それはまるで蛍の光が灯って空中に舞いだすようなおもむきがある。明日はもういないかもしれないのだが、今日は確かに生きている。


最後まで読み切ってみると、これは彼の自伝でもあることがわかる。彼は旅を通して自分をつくり、奥様と知り合い、お父さんの本当の姿を知る。心の旅、というより精神の旅の記録だ。そこには自分を一瞬たりとも見逃さない覚悟を決めたものの目線がある。そして、いま、彼の旅は外側と内側が大円団を迎えつつあるようだ。


私が彼のこの本にいまの時期にめぐりあったのは、偶然だろうか。きっとそうではあるまい。私にとって表の生き方がずっと抑圧してきた半身が、とうとう形をとってこの本を引き寄せ、私に手に取らせている違いないのだから。