変貌する若者たち(後編)

前回(変貌する若者たち(前編) - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る)、前編と銘打って、変貌する若者たち、というタイトルでエントリーを書いた。 今回は、その後編ということで、一応締めくくっておきたい。


若者の変化はネガティブな方向だけではない


前回述べたように、現代の若者(10代〜20代)が、非常に行動範囲を狭めており、エネルギー小消費型とでも言えるようなライフスタイルが主流になっている、ということを書いた。そして、それは以前に書いた、若者の自動車離れの原因の一端とも言え、経済的な国際競争力という観点では、少々具体が悪いことになっている、というニュアンスのことも書いた。


ただし、多少、補足しておくと、私は若者のこの変化を必ずしもネガティブにだけ捉えるつもりはない。逆に言えば、消費の連続的拡大を経済成長のエンジンとして奨励し、そのサイクルの拡大を持ってよしとする従来の仕組み、しかも一旦まわりだすとそこから下りれなくなり、しかも昨今のように、各国の経済が過度に相互連関を持ち、一度その一部に穴があくとすぐに全体に影響がおよぶようなあり方は、やはりどこか無理があると考える。資源環境制約の問題やサブプライムローンの問題は、まさに強烈なアンチテーゼと言っていいだろう。


そもそも、満足の大きさと物的消費の多さは直接にリンクしない。今の若者の生き方は、その少し上の世代の、ブランド志向が強くて、世界中に出かけてブランドを買いあさったような行動と比較すると、むしろ洗練され、物の消費は少ないが、文化的にはレベルが高いと行って良い部分もあるのではないか。内にこもったオタクの土壌から、非常に優れたアニメ作品が生まれたような現象は、その一例だろう。国際競争力という点でも、もはや日本は製造業的な、物的な生産や消費の量で経済成長率を押し上げるような経済運営はできないし、やるべきではない。高度情報経済の勝者であろうと思えば、クリエイティビティーに溢れた個人がセンスのよいアイデアを競うというタイプでの勝者を目指す必要があり、それはエネルギー小消費型と言ってもよいはずだ。



内向きとなった理由は?


ただ、明らかに、この10年くらいに起きたことには、ある一定の方向性が見られる。前回も書いたが、日本社会全般が非常に『内向き』になって来ているし、中でも若者にその傾向が顕著だ。その中には、問題として取組んで解決したほうがよいこともあるし、特に問題としてではなく、『トレンド』として捉えて、マーケティング情報として活用するほうが利巧と思われるような現象もある。


この『内向き』というのは、どういうことなのか。


生活空間を『私的な領域』『公的な領域』に分けて考えてみると、今の日本は過度な『私的な領域』偏重になっているのではないか。 今回は、正高信男氏の『ケータイを持ったサル』*1を読んで、大変考えさせられた。この本自体は、正直なところ、若干飛躍が大きいのでは、と感じるところも多く、すべて納得できるとも言えないのだが、全体としては大変興味深い問題提起がなされていると感じた。


非常に雑駁にまとめると、こんな感じだ。


日本の戦後の家庭のあり方(男は会社、女は専業主婦)は、日本の歴史の中でも特異な例外で、子供をあたかもサルが子供を育てるときのように、過保護で、非常に長い母子密着型であった。その結果、多くの子供は『良い子』になり、安全で安心できる環境で育つことができるため、育てられ方が全く異なる海外の子供と比較しても、精神的にも安定して、幸福感も優っている。ところが、幸福な子供の時代を終えて、一人前の大人として『公』の場に出るところで、適応不全を起こしてしまう若者が激増してしまった。しかも、成人して尚、公の場に出ることができずに、うちに帰ろうとする子供を日本の親は温かく迎えようとする。それどころか、それを喜んでいるふうさえある。当然子供は安全で快適な家のなか/私的な領域に引きこもり、イギリスと日本以外に世界にも例がないと言われる、ニートが生まれる。そこまで極端ではないにせよ、公的な場でも、私的で、『私』の世界から出ようとしない。その結果、人前で、平気で化粧をしたりするような、『どこでも家のなか』的な若者で溢れることになる。そして、公的な責任をできるだけ避ける行動の帰結は、親になることの拒否となり、出生率は激減する。


このような親子関係は、正高氏によれば、サルにそっくりなのだそうだ。サルはほとんど群れを出ること(人間で言えば公的世界に出ること)はしない。群れの仲間とはしょっちゅう繋がっていることを鳴き声で確認し合うという。鳴き声の中身に意味は無く、連絡しあって繋がっていることを確認しないと不安でしかたがない。まるで、ケータイを肌身離さず持ち歩き、膨大な数のメル友と、内容はほとんどないメールを四六時中送り合い、ただ、繋がっていることを確認し合っている若者とそっくり、というわけだ。


実際の文章は、コミカルな印象さえ感じる名調子なので、印象的な部分を以下、少し引用してみる。

P124
常にケータイを持ち歩き、厖大な数のメル友と四六時中交信し、靴のかかとを踏みつぶし、あるいはルーズソックスをはいて、電車内でも平気で化粧をしたりする一連の行動には、実は一貫した原理が背後に存在する。それを、この本では「家のなか主義」と命名したのだった。公の世界を拒否して、私の世界の内部だけで生きようとするあまり、そうした行動は極端にサルに類似してしまう。その姿勢は、昨今の「ことばの乱れ」に端的に象徴されている。公共性を持った他者との交渉をしようとしない。仲間とのあいだに安定した信頼関係を築こうとせず、「万人が万人を敵とみなす」ような、かつての啓蒙主義者が自然状態と想定したようなつき合い方をする。いや、そのようにしか振舞えないのかもしれない。公共性ということをかなぐり捨てたライフスタイルを、現代日本の若者は取るようになってきている。

P170
(前略)今の日本の若者の行動の特徴を簡単に要約するならば、「家のなか主義」すなわち公的状況へ出ることへの拒絶である。だが、過去の日本の家族のあり方を振り返ってみると、その前兆は少なくとも半世紀前にすでに存在していたことがわかるのだ。すなわち、専業主婦の誕生そのものがその萌芽と言えなくもないのだ。それまでは男も女も外へ出て労働に従事するのがふつうであったのが、女には「奥さん」になる可能性が開けた。「奥さん」とは有閑階級であり、まさに「家のなか」でもっぱら暮らすことのはじまりであった。しかも、その「奥さん」が子育てをもっぱら単独で担当するようになり、かつ子どもが奥さんの自己実現の対象と化するにいたり、後継の世代の「家のなか」化は飛躍的に程度を高めた。そして今や、そういう新世代が親たる成人層の過半数を占めようとしているのである。では新世紀のこれからの特徴は何だろう。一言で言うなら、「親になることの拒否」であろうと私は思う。

無視できない仮説


ここで書かれていることを、鵜呑みにするつもりはないが、『公』と『私』に関わる仮説については、自分でもよく吟味してみたいと思った。確かに、今の日本は、少々『私』の方向にバランスが崩れすぎていないだろうか。おそらくこれを嘆く大人世代は、武士道に帰れ、というようなことを言いたくなるのだろう。確かに、江戸期の武士というのは、いわば、生産活動から離れて、抽象的な道徳観念を練り上げることを商売にしていた人たちだ。その結果として、日本もノブレス・オブリージュの概念を持つことができていた。ただ、その武士は人口比率で言えば、わずか10%未満だ。でもそれくらいの割合のいわばエリートが存在することはけして悪いことではない。今はその頃と比較すると、大人の側にも節操がない。社会の子供化と同時に、大人の無責任化の相乗効果が様々な問題を引き起こしているのだと思う。


また、若者のエネルギーレベルが下がって見えるのも、必ずしもエネルギー総量の問題ではなく、公的な場での活動が減り、外からは見えにくい私的なところでエネルギーを使っているということではないか。


もちろん、若者の変化のすべてを、この正高氏の説で語り尽くせるわけでもない。上にも書いた、クレバーな若者の中に見られる、『虚飾を排した洗練』等については、また別の場で分析してみたい。


では、どうするのか。それは、今回の正高氏の著作には書いてない。私達自身が考えて答えを出して行く必要がある。

*1:

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)