変貌する若者たち(前編)

若年層の変化


日本の社会構造の変化を分析するにあたって、生起する変化を最も象徴しているのは、大抵いつでも若年層だ。若者はモードをつくり、社会変革の中核となって大人世代を脅かす。大人は大人で、若者の未熟さと大人が作り上げた世界の作法を守らない無神経にいらだちながらも、そのエネルギーに徐々に席をゆずり、いつしか頼もしささえ感じるようになる。 そんな風景は自分が死ぬまで変わらないであろうと半ば信じていた。だが、現実はどうもまったく違うようだ。本当は最近気づいたのではなく、この10年くらいの間に徐々に気づいてはいた。ただ、自分が気づいたことに確信がなかったのだ。というより、簡単に説明ができるような変化ではなかったといったほうがよいかもしれない。


だが、最近、基本的に抑えておくべき、とても重要な仮説に出会った気がしている。


若年層について議論が錯綜する中、若者に『エネルギーがない』と感じている人は非常に多いし、自分でもそう感じる。ただ、それは、実は若年層だけの問題ではなく、『失われた10年』(10年ではなくて、15年、あるいは20年?)の後も、社会の将来に目標や展望が見えない日本人全体の傾向というべきであろう。特に若年層だけの問題を説明していることにはならない。それでも、若者の変化と考えられる要素を一つずつあげてみると、やはり何か構造変化が起こったとしか言いようが無い。



エネルギーの低下?


この若者の変化を知るのには、岸本裕紀子氏の著作『なぜ若者は半径1m以内で生活したがるのか?』*1がとてもわかりやすい。


かなりランダムにピックアップしても、その言わんとするところは十分に伝わってくる。

P114
考えてみれば、今どきの若い女性たちの間で流行しているもののかなりの部分は、かつて老人が楽しみとしていたものなのである。 温泉、風呂、お伊勢参りなどの国内旅行、整体やマッサージ、お弁当、和菓子、猫と遊ぶ、占い、長話(長メール)、たまに行く芝居や歌舞伎。(中略)若いのだから、温泉なんぞでゆっくりする代わりにバックパックでも背負ってインド旅行でもすればと勧めても、そんなきつそうな旅はしたくないという。(中略)今どきの若者は放浪の旅などとは無縁である。『おうちでのんびり』が大好きだ。ヒットソングの歌詞も、若いくせにやたらと過去を振り返るものが多い。『楽しかったね』『大切なことを教えてくれたね』ちか。まったりとしながら、『ちょこっと和』の暮らしを楽しんでいる。そう、大好きなおばあちゃんのように、だ。

P130
20代の海外旅行離れが進んでいる。(中略)そもそもヨーロッパになど、興味がないというのだ。(中略)若い人々にとって、パリやニューヨークは古いのではない。パリやニューヨークは関係ないのである。

P134
若者たちを見ると、『はじめから視野にはいっていないもの』がとてもたくさんあるように思う。これだけ情報が溢れている現代に、若者たちは視野を狭めて生きている。日々の精神的な安定を得るためには、視野を広げすぎないこと、若い人たちは、そんな習慣が身についているのだろうか。

P135
最近の若い男性は、かつてほど車に興味を持っていないようなのである。(中略)大都市での若者の車離れが進んでいる。

P136
若い女性、特に10代後半から20代半ばくらいの女性たちは、欧米のハイブランドにさほど興味を示さないし、お金も使わなくなってきている。

P155
若者はかつてほど都会の生活に憧れを抱かないし、都会が魅力的だとも感じていない。それよりは自分が生まれ育った街が一番だと考える。

P159
周囲と同じでありたい、多様な価値観を受け入れる、という日本人の国民性が、ゲームコンテンツの多様化の中で、競争や時間制限というゲーム性に深く関わる要素を省きました。他ではありえない進化です。他のアジアの国、特に中国や韓国では、相手をやっつけて武器を奪い、それを売って、みたいなものが圧倒的に主流です。


どうだろうか。


おばあちゃんのような女性。 海外旅行、車、ブランド離れ。地元でまったりほんわか過ごす若者像が見えてくる。確かにエネルギーがないと言われても仕方がない感じだ。



『ケータイ』と『コンビニ』


では、そんな若者がこだわっているのは何か。 『ケータイ』『コンビニ』だ。

P140
特にケータイメールへの依存は深刻である。(中略)若者のほとんどは、ケータイのない生活など想像もできないと断言している。(中略)大切なのは、常にメールを通じてつながっている相手が複数いること、その安心感だ。

P141
コンビニはもはや、単なる商店というよりは、若者の生活に密着した空間になっている。彼らは、精神の安定と生活の便利さはケータイで得て、日々の物質的な欲求と消費の楽しさはコンビニで満たしている。


そして、それは岸本氏の本のタイトルにあるように、半径1mにまで狭めてみせる空間、すなわち自分の身の回りだけですごす若者像に繋がって行くわけだ。引きこもり、ニート、パラサイトシングル等の存在とも底流で繋がっている。


ケータイやコンビニへのこだわり、特にケータイへのこだわりには大変なエネルギーを感じる。PCやケータイを通じたネットの世界を見れば、そこにオタクや引きこもりを言われる若者たちが、如何にここで大変なエネルギーを投入しているかわかる。社会的には表に出ることを忌避する、『オタク』や『腐女子』はそれぞれ秋葉原東池袋でエネルギーを発散しまくっている。若者にエネルギーがないなんて、一体何の話? という感じだ。


確かに、世界に冒険旅行に出かけたり、世界の市場を切り開いたりというような、外向的なエネルギーはすっかり影を潜めたが、内向的なエネルギーはむしろ上がっているように見える。つまり、エネルギー量が減ったというより、エネルギーは一定だが、変化したというほうがあたっているのではないだろうか。では、表面の変化の背後にある理屈は何なのか、いったいどうしてこんなことが起こったのかという点については、同書にはほとんど説明がない。


その問題のヒントは、『公的空間』から『私的空間』への大幅なシフトが起きていることにある。これは、後編でお話したい。

*1:

なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? (講談社+α新書)

なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? (講談社+α新書)