佐々木俊尚氏著『インフォコモンズ』を読んでみた

著作を読んだ第一印象


佐々木俊尚氏の著作を読んでいつも感じるのは、この人が本当に生真面目な人だということだ。どんな論考もきちんと積み上げて、誰でも議論に入って行く入り口をつくってくれる。そのおかげで、初めて佐々木氏の本を読む人でも、注意深く階段を上るように読んで行くと、うっすらとかもしれないが、佐々木氏が何を問題とし、どのような考察を与え、どのような結論と展望を持っているのかを把握することができる。最新の著作である、『インフォコモンズ』もやはりそのようにきちんと構築された佐々木ワールドである。

インフォコモンズ (講談社BIZ)

インフォコモンズ (講談社BIZ)


但し、今回は議題の本質的な難しさ、ことによると哲学的な困難さを伴う議題ということもあり、途中からいつものペースでついて行く事が難しく感じることになった。その私が感じた難しさを、他の読者がどのように感じ、評価するのだろうか。すでにそんなことに次の興味を感じてしまう。しかも、これからの課題を解くための専門領域が、従前とは違ってくるのではないかと思われ、新しいステージ、新しい専門家の登場が予感させられる。



佐々木氏の取組む中核的な問題


佐々木氏のこの1〜2年くらいの著作や、ネットメディアでの論文を拝見していると、Web2.0の限界をどのように誰が超えて行くのか、ということが主題の一つだ。それはネット関係者が巻き込まれる中核的な問題であるだけでなく、広く個人や企業を巻き込んで社会全体を揺さぶっている。


非常に雑駁に言えば、インターネットの進化の過程の中で、必然とも言える情報洪水に最もクレバーな回答を与え、ビジネスのモデルを含めてシステム化に成功したのはWeb2.0の覇者googleであることは、今や、およそインターネットをかじっている人なら誰でも認めるところだ。(覇者たち、という言い方をすれば、Yahoo!mixiはてな等も入ってくるのだろう。)


しかしながら、特に従来は受信者でしかなかった人々が、インフラ整備とともに急激に情報発信を行うようになり、発信される情報洪水の加速度が上がり、 googleのモデル自体にもほころびが出始めた。キーワードに係わる各個人のコンテキストは当然人によって違うし、それを正確にふるいにかけるには、あまりに情報の量が多くなりすぎてしまっている。同様にアマゾンで有名な協調フィルタリングでも、たまたま購入したり、検索したりする状況が一時的に特殊だったりすると、ジャストフィットなレコメンドを期待するのは難しくなる。また、『はてなイナゴ』問題として一時期話題になった、はてなブックマークの、多数決で選び出される『注目エントリー』が、参加するブックマーカーの裾野が広がるにつれてレベルダウンしている問題も、ほぼ構造的に同根で、過剰な情報量による『多数決モデル』の破綻、およびそもそも多数決では解決しない問題の存在が背景にある。



googleを超えるモデル だが、一歩間違うと・・


では、googleモデルを超えるものは何か、というのが佐々木氏が中心課題として取り上げてきた問題だ。そして、その一番近いところにいるのは、 SNSソーシャル・ネットワーク・サービス)であるというのが世間の定説でもあり、ロボットとアルゴリズムに頼るモデルを超えて行くのは、共同体による情報共有と人間のネットワーク化から派生する可能性ということだった。よって、その最先端にいるMy SpaceFacebookgoogleを超えて行く可能性のある存在として、大変注目を浴びたものだ。だが、ここで、従来から繰り返し起きてくる問題、人間の側の『プライバシー意識の高まり』が再燃した。私自身も、ソーシャルグラフ、すなわちSNSを通じて、すべての人間関係が可視化されていくというコンセプトには、ユートピアというよりは、よく言えば、ブラックユーモア、悪く言えば生きの詰まるような管理社会を感じて気持ちが悪くなったものだ。


google自体が非難のやり玉に上がるときも、決まって出てくるのは、小説『1984』*1旧ソ連スターリン時代に範を取る管理社会の恐怖だが、それ以前に、自分が所属するいくつかの小グループで個性を使い分けることによる安心感というようなものが、なくなっていくことの居心地の悪さを感じてしまったものだ。個人と社会、他者との関係は、明示的で機械的な処理に簡単になじむとはどうしても考えられない。これは、今回の佐々木氏の著作にもITベンチャーOpenPNE社長の手島氏の発言として、取り上げられている。

一人の人間にはさまざまな人格がある。たとえば子供時代の友人に見せる人格と家族に見せる人格、会社の同僚に見せる人格は、それぞれ異なっている。しかし今の大手SNSでは、ひとつの人格しか表に出せない。もちろんそれもリアルの人格の投影ではあるのだが、言ってみれば、渋谷のスクランブル交差点の雑踏の中でも出せる人格みたいなもの。会議室で見せる顔や自宅のリビングルームで見せる人格などは反映できないのではないか。

人間の側の複雑さ


個人的には、全く賛成である。以前にも一度書いたことがあるが、携帯電話による通話はテクノロジーが進化してもテレビ電話への進化は望まれなかったし、今どちらかというと、通話よりメールコミュニケーションが好まれる傾向さえ見られる。人間の関係には明示化を好む人たちと領域があるのは確かだが、隠しておきたい部分を多かれ少なかれ誰でも持っているということもまた確かだ。人間は他人にすべてを見せる事ができるような美しいものだけで出来ているわけではないし、人格もそれぞれ使い分けることによるストレスの解消や満足というのも明らかにある。しかも、個人が持つ自分自身の物語というのは、しばし薄暗いところにあって明滅しているもので、すべてを明るみに出してしまっては幻滅するだけということが多いものだ。



ではどうすればよいのか


しかしながら、それでも尚、SNSの将来性と潜在力は大きく、プライバシー意識の問題を解決した暁には、web2.0を超えるweb3.0の方向は必ず見えてくるはずだというのが、佐々木氏が通常のSNS論を今回の著作で前進させているところだ。そして、その条件として、以下の4つを上げている。

  • 暗黙ウェブである
  • 信頼関係に基づいた情報アクセスである
  • 情報共有権が可視化されている
  • 情報アクセスの非対称性を取り込んでいる


そして、現段階では、この4つを完全に実現できているサービスはない、としている。つまり、過渡期にあるということだ。しかし、よくぞここまで、大変難しい議論を前に押し進めものだ。さすがに佐々木氏の仕事の質の高さにはあらためて感嘆する。(言葉の詳細をブログで説明する余裕がないので、これは是非著作を読んで各自確かめてもらいたい。いずれも今後を占う非常に重要なキーワードだと思う。)


それでも、実際にはここに、運営する側のマネタイズという問題、公共性の問題、解消し切れないプライバシー意識の問題等複雑な影響が及んでくると思われ、現段階ではサービスの完成形イメージを明確にすることは誰しも難しいだろう。しかも、共同体を語るべきコンテキストは、単にgoogleを超える存在、というだけではない多義性がある。だから、佐々木氏の今回の著作は、前段ではいつもの整然とした語り口なのが、後段では共同体哲学というか、思想の領域にわけいった印象があり、構想は大きいが焦点がやや曖昧になったように感じる。それでも、この領域の問題に取組むものが必ず突き当たる問題が実に整然とまとめられている。


今回の著作でも、また問題の核心に近いところまで連れて来てもらっている自分を感じる。後は自分で考えよ、と厳しく突き放されてはいるが、それでもこれだけの分析ツールとしてのキーワードを知る事ができるのは本当にすばらしい。佐々木氏という巨人の肩の上から始められるありがたさに、心から感謝したいと思う。

*1:

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)