情報強者に向けて直走る中国をどう考えておけば良いのか

 

◾️情報が石油以上の資源となる時代

 

日本で「情報爆発」という用語が巷にあふれるようになったのは、いつのころからなのだろうか?Googleトレンドで遡れるのが2004年の1月からなので、それ以前の状況はわからないが、どうやら最も盛んにこの用語が使われたのは、2005年から2008年頃だったようだ。*1それ以降は、むしろ抑制気味にさえ見える。ところが面白いことに、米調査会社IDCによれば、実際のデジタルデータの量の推移は、2000年には62億ギガバイトだったのが、2013年には4.4兆ギガバイトと13年で約700倍に膨れ上がっており、近年では、スマートフォンの普及や、モノどうしが情報を交換し合うIoTの進展もあって、2020年には、さらにこの10倍の44兆ギガバイトまで膨らむと予想されている。実際には、今まさに加速度を上げて爆発的に情報が増えているのだが、人の(日本人の)思考がすでにそれこそオーバーフローして、このトレンドの凄まじさに追いつけないでいる様子が浮き彫りになっているとも言える。技術や環境の変化が人の意識とは必ずしもシンクロしない一例を見る思いがする。

 

普通の人々の認識がどうあれ、実際にこの期間に起きたことは、この情報環境を最適利用できた企業(フェイスブックGoogle、アマゾン等)が圧倒的な力をつけて、市場を席巻し、旧来のビジネスモデルを破壊し、そこに追随できない企業を退場させ、置き去りにしてきた。そして、今、さらなる量の情報が蓄積し、分析のためのCPUパワーも加速度的に向上している上に、フィードした情報でスマートになっていく第三世代の人工知能が実用域に入ったことで、大量の情報を持つことの意味が根底から変貌しようとしている。それゆえ、情報は「石油」以上に価値のある資源とさえみなされるようになって来ていることはご存じの通りだ。だから、このことに気づいている企業は、様々な形でさらなる情報の確保に邁進し、国家単位でも戦略として取り組まれるようになってきた。



◾️最前線に躍り出る中国

 

この過程で、従来はほとんど蚊帳の外にいたはずの中国が、世界の競争の最前線に躍り出てきた。国内の大手IT企業が急速に力をつけて、収集した大量の情報を経済価値に変え始めただけではなく、国家単位で情報の蓄積/分析/利用に本格的に着手するようになり、しかも、欧米のような個人主義を基礎とした民主主義社会であれば強い社会的要請のあるプライバシー保護の制約が緩いことが(是非は別として)この局面では、極めて強い追い風となりつつある。

 

欧州と米国を比較すると、欧州は、人間の尊厳やデータに関わる個人の自主的判断を最優先するため、情報利用の点では制約的な環境だが、自由で公正な競争を重視する米国は競争が阻害されるような規制を設けることには概して否定的で、従来は、欧米は別種の二極を構成していた。ただ、昨今のフェイスブックに関わる情報漏えい騒動を見ているとわかる通り、プライバシー侵害のリスクがあらためて認識されるようになると、フェイスブックのような自由競争の先頭に立つ企業に対しても、制約強化の社会的な要請が強くなることが予想される。先に述べたように、実際に起きていることと普通の人の認識のギャップはこの分野(ITC関連)では特に大きい。米国でのフェイスブック公聴会のやりとりなどその典型例を見る思いだ。だが、一般人の不安感が煽られたときの政治的な逆風を甘く見ることはできない。当面、フェイスブックに限らず、情報戦略で勝ち上がってきた企業(Google、アマゾン等)には全般に逆風が強くなると考えられる。


そのような制約要件が緩く、国家ぐるみで情報強者を目指す中国が、数年の内に、世界で最も情報蓄積量が多く、最もスマートかつ大量の人工知能を持って産業のあらゆる面で世界に覇を唱えるという未来図は決して絵空事ではない。しかも中国一国だけではなく、他のアジア各国、中東、アフリカ等、この路線を追随する国は今後増えて行くことが予想される。情報が新たな「石油」であるとすれば、新たな経済圏として各国、あるいは各経済圏が相互に覇権を争う可能性すら予感される。欧州、米国、中国の三極、あるいは欧州と米国が小異を捨てて大同で連携する可能性もあるとするなら二極、いずれにしても、今後の世界の経済環境を分析するにあたって、非常に重要な視座となることは間違いない。しかも、中国タイプのモデルが最強となる可能性があるとすれば、現状すでに人権意識が弱い強権的な国家は言うまでもなく、欧米諸国(ないし欧米並みの民主主義を標榜する国家)にさえ大きな影響が及ぶことも考えられる。



◾️方向が定まらない日本

 

例えば、日本だが、日本の個人情報保護法は、欧州と米国の法律を両にらみで、折衷案を採用したような(失礼!)法律となっている印象があるが、最新の改正にあたっては、「利用の促進」と言う「目的」が織り込まれた。だが、最近のように中国のIT企業の台頭を目の当たりにして、そして、日本が経済的に劣勢立たされる近未来にリアリティを感じれば感じるほど、欧米流のプライバシーの概念に追随すること自体の意味がわからなくなる、というような一種の「人心の揺らぎ」が起きてきている。

 

そもそも日本では、個人情報の流失の部分にのみ、神経症的と言われるほどに敏感になってしまっており、法規制範囲外の利用に対してさえ、場合によっては炎上の憂き目を見る事例がトラウマとなって、企業は萎縮してしまっている。個人情報保護法改正により、情報の利用が進むことを目論んだ経産省など、日本企業のあまりの萎縮ぶりに呆然としてしまっている。「笛吹けども踊らず」とはまさにこのことだろう。

 

一方で、EUの一般データ保護規則(GDPR)の対応準備に振り回されている法務の担当でさえ、この規則の思想的バックグラウンドである人権概念には疎い者が多いのが実情だ。企業単位で見ると、ただでさえ、炎上が怖くて萎縮気味なのに、GDPRを参考にしてこれ以上規制を上増しするようなことは勘弁して欲しい、といった感じの非常に率直な意見が普通に出てくる。その気持ちは充分理解できるし、実際、意味もなく制約的な法律が少なくないのも確かだが、原理原則が曖昧で、矛盾だらけで、真剣に議論すべき問題にスポットライトがあたっていない日本の現状は危なっかしくて仕方がない。

 

 

◾️過剰な情報プロファイリングの恐ろしさ

 

昨今、躍進する中国企業のサービスの中でも、ビッグデータから個人の信用力をスコアリングするサービスが非常に注目されている。代表的なのは、ネットEC企業のアリババの決済サービスであるアリペイで収集されるユーザー情報に基づいて構築されている「芝麻信用」だ。アリババグループは、これをベースに融資サービスも展開しており、賃貸、企業の採用、ビザの取得等あらゆる生活の局面に影響力が及んで来ているという。日本でも、みずほ銀行ソフトバンクが共同で設立した、J.Score(ジェイスコア)が提供する個人向け融資サービスなどその先駆けで、 今後、様々な業界と提携してビッグデータの種類を増やして、金融以外のサービス拡大を計画しているという。他の企業からも注目されている。

 

だが、この個人の情報のプロファイリングが過剰になると、自分が納得のいかない評価を下され、一旦出来上がった評価は他社でも使いまわされ、人事採用、融資、保険、教育等の人生の重要な場面で重大な影響が及び、そこから抜け出せなくなる恐れがある慶應義塾大学大法務研究科の山本龍彦教授は著書「おそろしいビッグデータ 超類型化AI社会のリスク*2の中でこの現象に「バーチャル・スラム」という用語をあててその恐ろしさに警鐘を鳴らしているが、実際、このサービスの先進国、中国でもその弊害や恐ろしさについて言及されるようになってきている。(だが、中国人があまり声高にこれを述べると、自分のスコアの点数が下がってしまうことを恐れて、抑止してしまうのかもしれない。)

 

これは、日本であまり議論にならないこと自体が不思議なほど、非常に恐ろしい社会の現出に道を開く可能性がある問題だ。欧米では、ジョージ・オーウェルの小説「1984」がそのディストピア的な類比的イメージとして持ち出されることが多いが、日本で言えば、自分のスコアが上がるように(下がらないように)、昨今の流行語である「忖度」を生活のあらゆる部分で働かせねばならず、それでも、何らかの誤解でスコアが下がったりすれば、そんな自分と交流する人も、自分のスコアが下がる恐れがあるから、皆自分の周囲から潮が引くように去って行く、そんな感じだろうか。あるいは、今の100倍も空気を読むことを強いられる社会、とでも言うべきだろうか。いずれにしても、そう聞けば、誰でもそんな社会には住みたくないと思うのではないか。一方で、この種のサービスを推進することのメリットはもちろん大きく、それを無視して全面禁止しろというような乱暴な議論は不毛だが、少なくとも危険性を熟知した上で、対処できる仕組みを社会に装備しておくことは不可欠だ。

 

◾️究極のジレンマ

 

その点、欧州は、少なくとも思想のレベルでは先進的であることを認めざるをえない。山本氏が同書で指摘していることでもあるのだが、GDPRではこの問題にも先回りして、プロファイリングに対して異議を唱える権利を認めており、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイリングを中止しなければいけない。また、プロファイリングを含むコンピューターの自動処理のみに基づいて、自身に法的効果を及ぼす、またはそれと同じ程度自身に重要な影響を与える決定を下されない権利も認められている。もちろん、GDPRの運用が実際に始まってみないとわからない部分も多いが、いわゆる「人権」に関して、中国と欧州に明確な違いがあることはわかるだろう。

 

だから、情報から最大価値を引き出すことを第一優先として、国家ぐるみで情報強者を目指す路線に追随する国が今後増えてくるとすれば、欧米の人権思想の観点からいえば、世界が「前近代」に逆戻りしかねないことを意味しており、大変由々しい事態と言える。だが、人権を守ることが出来ても、経済的には従属的な立場に追いやられる恐れがある。しかも情報強者となることが、経済だけではなく、科学技術、軍事、金融等、非常に多くの領域での優位性の源泉となる可能性もあるとなれば、深刻なジレンマに苛まされることになる。もちろん、日本もこのジレンマから逃れることは容易ではない。

 


◾️変貌する中国社会と人間像

 

ただ、この問題を考えるにあたって、非常に重要な視点がもう一つあると私は考えている。中国の社会とそこに生きる人間の問題だ。『中国では欧米流の人権概念がなく、政府が強権的だからやりたい放題だ』というのが、普通の日本人のあからさまな感想ではあるのだが、本当にそれで済むのだろうか。中国は、鄧小平の改革解放後、経済的には完全な競争社会で、米国流グローバリズムとの相性も(少なくとも日本よりずっと)良いと言われて来た。昨今、競争は一層エスカレートしている。グローバリズムというのは、各国・各地域の土着の社会システムを破壊する側面があり、大量の負け組を輩出する仕組みでもあるため、そのような負け組を何らかの形で包摂する装置(コミュニティ等)がなければ、社会が崩壊してしまうとされる。欧米ではキリスト教コミュニティが該当するとされてきた。(昨今の米国のようにそれでも手に余るようになると、トランプ大統領のような既存のシステムの破壊者を大統領に選んでしまうようなバランスの取り方も大きな意味ではシステム内の調整機能とも言える。)では、競争が激化する中国ではどうなのか。

 

著書『中国化する日本』*3で注目された歴史学者の與那覇 潤氏によれば、中国は宋の時代に一君万民(皇帝のみに権利があり君主を除く人々はみな平等であること)の完全な競争社会を作り上げ、その苛烈な競争社会では、振り落とされる者が大量に出てくるから、それを補填する、「宗族」という父兄血縁のネットワーク(同族間の相互扶助の仕組み)も宋代に完成したと述べる。この「宗族」は共産中国では否定され、一旦は破壊されたが、鄧小平の改革開放政策が始まって以降、台湾が近い、中国南部を皮切りに復活し始めたと聞く。国家が意図的に規制するようなことがなければ、今後とも(形を変えながらであれ)復活していくのではないか。とすると、中国社会は、グローバリズムの旗頭の下、全員が参加する無期限の競争社会という額面とはかなり違った様相となってくるとは考えられないだろうか。かつての中国では、宗族の中の秀才がとことん競争できるよう、一族をあげて応援し、彼がめでたく科挙に合格すれば、一族にその権限を使ってお返しする、という仕組みが機能していた。歴史に沈潜した社会の遺伝子は意外と根強いのではないか。

 

また、中国人像も特に若年層を中心に、急速に変化して来ているようだ。一昔前の、「人前で平気で唾を吐き、列に並ぶこともない」という中国人イメージは、昨今の礼儀正しく、スマートな若年層には当てはまらない。また、「中国人は日本人よりお金に執着し、アグレッシブだ」というイメージも、徐々にではあるが、崩れ始めているのではないか。昨年来、中国で「仏系青年」という用語が大流行しているという。これは、1990年代生まれの、競争と距離を置き、「低欲望」で、自分の世界に閉じこもる若者のことを言うとされる。なんだか日本の草食系男子と似ているなと思ったら、なんと由来は、2014年に、日本の女性ファッション誌が使った「仏男子」という用語にあるという。「仏男子」は「草食男子を通り越し、草も食べない一人が好きな男子」のことらしいから、日本と中国の「仏」の意味するところの相違はありそうだが、系統は近いとは言えそうだ。人民日報は2017年12月13日の記事で、仏系青年を「こだわりもやる気もない。何か聞くと『何でもいい』と答える若者たち」と説明し、現代の速すぎる生活リズムや激しい競争、プレッシャーで疲弊した1990年代生まれの、社会に対する一つの対処法と分析している*4私の周辺でも、競争が苛烈過ぎる中国より、清潔で穏やかな日本社会のほうが良いと述べる日本在住の中国人は少なくない。

 

また、日本との類比どころか、中国人なのに、「心理的に自らを日本人とみなす若い中国人」が出現していて、これを「精日(精神日本人)」というのだそうだ。*5水面下で増えているという情報もある。親日が増えるのは結構なことだが、『中国など滅んでしまえ』だの『中国人などいなくなってしまえ』とまで考えているというから穏やかではない。中には、南京大虐殺が起きたとされる場所で、中国人男性二人が日本の武士の格好をして問題になったケースもあったというから、こうなると完全に贔屓の引き倒しというべきだろう。ただ、断片的にであれ、中国社会からこのような若年層が出現しつつあるというのは、要注目だ。中国人といっても、新しい(若い)中国人は、ますます激化する競争社会化を是として、唯々諾々と従っているわけではなさそうだ。

 


◾️中国の全体像を知ることの重要性

 

日本としても、中国の産業政策の側面ばかりではなく、中国の社会や、若年層のマインド等の心理や意識に関わる部分にも注目して、動向を把握しておく必要があるはずだ。全体としての中国はどこへ向かうのか、それは産業政策だけ見ていてはわからないし、中国を参考にするにしても片手落ちということになりかねない。しかも、どうやら一定数の中国の若年層は、日本に対する良いイメージ(実態とは違うかもしれないが)を自分の在りたい姿に投影しているようだ。そうだとそれば、人権よりも産業政策というような中国よりの政策を日本企業が無節操に選択してしまうようでは(決して産業政策を全面否定しているわけではないが)、せっかくの良き萌芽が摘まれてしまうことになりかねない。逆に、日本人のほうこそ、本当の意味での成熟を目指して、世界にメッセージを発信出来るくらいになれば、それこそ良い意味での、精神的な国際連帯が出来て行くことが期待できる

 

昨年来、誰よりも、中国の台頭に脅威を感じ、今後の世界は、人権vs経済成長という困った構図になるのではないかと述べたのは私自身ではあるのだが、上記で述べたような別軸の視点とそれに基づく新たなシナリオはありうると考える。私自身が中国の専門家というわけではないので、もっと識者や中国の人たちに意見を聞く必要があるが、このような議論が少しでも深まることを期待したい。