『勉強』により『同調圧力』から抜け出ないと大変なことになる?

 

 

◾️ 千葉雅也氏の『勉強の哲学』

 

買ったまましばらく放置していたのだが、ふと読んでみると非常に面白くて、また自分自身を振り返るきっかけとなった本がある。哲学者の千葉雅也氏の『勉強の哲学 来たるべきバカのために』*1である。勉強といっても、受験勉強だとか社会人の実務的な勉強のためのノウハウ本ではない。そのような本と間違えて買うと、がっかりするか驚いてしまうと思われるのだが、もしかすると、まったく新しい人生を始めるきっかけになるかもしれない。

 

千葉氏は、まず冒頭にガツンと、こう言い放っている。

 

『勉強とは、自己破壊である』

 

多くの人(大抵の人と言っていいと思うが)にとっては、勉強とは新しい知識やスキルを付け加えるためにするものだろう。だが、千葉氏はそういうイメージを捨てろというのだ。では、勉強して何の得になるんだという当然の質問が出るわけだが、これまでの『ノリ』から自由になるためにやるのだ、という。もうすこし丁寧に言い換えると、次のようになる。

 

私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい『可能性』を開くために、深く勉強するのです。

 『勉強の哲学』より

 

この『不自由』は、ある程度意識の高い大学生なら、卒業して社会人になれば、十中八九感じると断言できる。大学生の頃の自分は大丈夫という思い込みは(もしあればだが)、大抵就職して企業に入ると砕け散ることになる。そしてその頃になってやっと、もっと学生の時分に勉強しておけば良かったと嘆くことになる。

 

 

 ◾️ 自分のことを振り返ると・・

 

私が、大学生くらいの頃にこの本に出会っていたら、どう感じただろう。きっと高く評価して、もしかすると繰り返し読んだのではないかと思う。というのも、私も大学時代に恩師のおかげで、千葉氏がいうところの『勉強』に目覚める体験をして、そういう『勉強』をすることによる自由をはっきりと感じる体験をしたからだ。今までの自分の視野の狭さに気づき、視界が広がり、そのことによって新しい友人と知り合うこともできた。少なくとも大学生でいる間は、大学生でいることの良い部分を最大限楽しむことができた。

 

だが、学生生活が終わりに近づき、家族や親戚や友人のような周囲の『環境』が人生の果実(お金、周囲からの承認等)をチラつかせて誘惑しだすと、私も人並みにその罠に落ちて、大企業に就職することになった。実際に企業に入ってみると、とたんにものすごい苦難にさいなまされることになる。千葉氏は、『勉強とは自己破壊であり、自由になるために行うものだが、同調圧力が強い場に適応が求められる環境では、能力の損失が起きる。そういう意味で勉強はむしろ損をすることであり、わざと『ノリが悪い』人になることである』と述べているが、まさにその通りの体験をすることになった。

 

日本企業の場合、どの企業でも多かれ少なかれ、この『同調圧力』は強い。もちろん、この強度には企業による違いはある。当時の印象だが、競争力があって、勢いよく伸びている企業であるほど『同調圧力』は強く、外部からの批判にも動じない傾向があった。私の場合、最初に入った企業が、この『同調圧力』という点では日本有数とでもいえそうな会社であり、勤務地の風土もそれを助長する雰囲気があった。しかも、輪をかけるように最初に配属されたのが人事部であった。この会社、当時から世界有数の企業でありながら、田舎に本社があり、その周辺に工場を集中させ、そこに全国から直接生産労働者だけでも3万人以上を集めていた。街には遊ぶ場所とてほとんどなく、仕事は昼夜二交代(当時)でものすごく厳しい。私ならずとも、ここが凄まじい場所であることはすぐに気がつき呆然としてしまうような環境だった。だが、その茫然自失した従業員を、会社の目的に整合するような思想で統御し、金銭や福利厚生である程度報い、何よりコミュニティを幾重にも作り、そこでの役割を与えて自主的にそのコミュニティにコミットするように仕向ける。そのような施策を人事部が主導していた。

 

ここで一番楽になる方法は、できるだけ早くここの『ノリ』を理解し、コミュニティに積極的に参加して(飲み会や、運動会のようなイベントに積極的に参加する等)、『自分の苦しみこそ日本経済を支えている』『仲間と共に生き残るため』、というような、会社に与えられた『大きな物語』や『信念』を受け入れ、それを仲間内で確認し合うことだ。さらに良いのは、そのような思想を強固にする言説を組み上げ、日常の仕事や人間関係の中で語って見せることだ。しかしながら、なまじ千葉氏の言う意味で、『勉強』の道に踏み出していた私は、これになじむことがどうしてもできず、ある意味いらぬ苦労を背負いこみ、何年にも渡ってもがき苦しむことになった。今なら、そんな会社すぐに辞めればいいだろう、ということになるし、確かに後年辞めるのだが、当時は転職マーケットなどほとんど整備されておらず、しかもなまじ名の売れた会社からの転職は、親や親戚の顔を思い起こすととてもではないが口にできたものではなかった。

 

この会社と当時の友人たちの名誉のために言っておけば、ここでの勤労哲学、滅私奉公の精神、仲間との絆等、いずれも一方で非常に論理的かつ強固な思想的な背景があり、日本の古い思想に繋がる歴史性も併せ持ち、正面から論争を挑んだところで簡単には論破できない備えができていた。そうであればこそ、この会社の人的な凝集力は凄まじく、世界一とも言える高品質を誇り、世界市場でもトップを争うような企業に成長することができたとも言える。

 

だが、少なくとも当時の自分にとっては、どうしても違和感を払拭することはできなかった。しかも、ここに集まった『エリート』たちの少なからぬメンバーは、この場の思想を自分の頭で解読する努力をすることなく当然のものとして盲目的に受け入れ、あろうことか自分の部下や周囲の従業員に盲目的に服従することを強いていた。これが何よりきつかった。仮にこの労働哲学の根幹を理解し、その優越性を学問の領域として順々に説くことができるような上司や先輩に恵まれていれば、自分の思想とは相いれないとしても、稀有な学びの場と認識して、切磋琢磨することに意義を見出していた可能性は高い。だが、実際には、少し議論をしてみれば、すぐに底の浅さの馬脚を現してしまうような人が多く、逆にそのような議論をしたことで、普通以上に苛められたりつらく当たって来るようなケースが多かった。(逆にこの場で真剣に議論できた友人や先輩たちは、終生の友人になったし、忙しくて会えずとも今でも心から尊敬している)。

 

当時の私は、この環境にあって、『同調するふり』を学びはしたが、一方では、自分の浅学さを痛感して、歴史と哲学を基礎からもう一度じっくりと勉強した。そのため、この会社にある強固な思想の何が問題で、どうすればいいのか説明するための『言葉』を持つことができるようになった。何もない安楽な環境にいるより、自分の学びを深くすることができたのだと思う。しかも、その後、海外商品企画や海外マーケティング、海外プロジェクト等の仕事にかわると、ここでの学びは大きく生きることになり、様々な価値観が混在する場(海外市場)での仕事を乗り切る基本が身についていることを実感することできた。

 

 

 ◾️ 納得できる人生のために

 

千葉氏は、『学ぶことはあらゆる前提やそれを構成する言葉を疑い、それによって広い境地に出ることにはなるが、無限に疑うことを追求していっても、最終目的地に到達できるわけではない』と述べており、哲学者のウィトゲンシュタインに言及している。言語は一定のゲームのルールの元に成立しているものであり、ビジネスという土俵で生きることを選択する限り、そのゲームのルールを前提とすることは避けられない。それでも言語の奥の真実を追求したければ、私見だが、言葉の構成する世界を突き抜け、宗教的な境地を目指す生き方もあるのだと思う。だが、ゲームのルールがあることを受け入れ、なお『勉強』し、ビジネスにも生かす道がありうることについて、私も長い時間をかけてだが、一定の納得できる境地があることがわかってきたように思う。もっとも、大学を卒業してからかなりの年月が流れたが、いまだに上で述べたような苦労は形を変えて何度でも襲ってくるし、他人からみると随分不器用な生き方をしているように見えるのではないかと思う。それでも、自分にとっては、大学時代に『勉強』の大事さに気づくことができたのは、かけがえのない、何にも勝る出来事だったと思う。そのおかげで、環境がどうあれ、一貫して自分に納得のできる生き方をしてこれたと本当に思っている。だから、今でも亡き恩師、その当時の友人、諸先輩方には心から感謝しているし、千葉氏の著書をきっかけに、一人でも多くの人が、私と同じ体験をして欲しいと願う。

 

 

◾️ 渡部昇一氏の『知的生活の方法』との比較

 

ちなみに、自分の場合、大学時代に、千葉氏の著作に相当する何かはなかったのかと問われれば、最近亡くなられた上智大学名誉教授の渡部昇一氏の著書『知的生活の方法』*2がそれに該当するのだと思う。この本は累計120万部近く売れているベストセラーであり、私が大学生の頃には、読んでいるかどうかは別として、こんな本があるということは誰でも知っていたという印象がある。この本の基本的なメッセージは、『手段としての(大学入試、昇給等)勉強ではなく、勉強の本当の面白さを知って、どんな環境においてもそれを追求し続けることの素晴らしさを知って欲しい』というものだと私は理解した。当時、『勉強』に目覚めていた私はこのメッセージに深い感動を覚えた。

 

両著書とも、『手段としての勉強』は重視せず、あくまで勉強自体への取り組みの重要性を説いているが、それぞれの底流にあるメタ・メッセージにはかなりの違いがある。千葉氏は自分の推奨する『勉強』を『ラディカル(過激な、急進的な)・スタディ』と呼んでいる通り、その底流に流れるメッセージはかなり過激だ。勉強をして、自らの環境の根拠を問い、その虚構性を知ることで、そこに執着せず、同調圧力にも屈せず、そうすることで『自由』を得ることができると説く。この方向を突き詰めると、普通なら自分の今いる組織(会社)を飛び出すか、組織の改革を求めるか、あるいは、環境から切り離された『身体なき言語』自体を享楽の対象として生きるか選択を迫られるような切迫感に襲われるのではないか。いずれにしても勉強することの満足感を得ることはすごく大変なことに思えてしまう。それに比べると、渡部氏のほうはかなりマイルドだ。自らの環境は環境として受け入れ、自分の精神の自由は自分の内側で得ることを初めから前提としていて、いたずらに組織を飛び出したり、組織を変革することは薦めない。そして何より、勉強すること自体の満足を強調する。

 

渡部氏の学生時代は、まさに極貧状態であったというが、氏はこのように述べている。

 

こういう生活をして何が楽しいかと、はた目には見えたであろう。ところが心の中は、なかなか豊かなものであった。まず語学では外人の英語の授業が聞き取れ、また、答案でもレポートでも論文でも、そのまますらすら英語で書けるようになった。(中略)英語だけではなく、日本やシナの古典を読む時間があった。『古事記』も『伊勢物語』も『源氏物語』も、また唐詩も孔孟も読めた。(中略)これは式子内親王の歌であるが、この内親王の歌が好きになったのも、すきっ腹を抱えて、人気のない学生寮にいたころの話であった。千年以上もへだてている上に、相手は女性でしかも皇女であり、新古今の代表的歌人として感受性の洗練の極致にあった人である。その人の歌が東北の田舎から出てきた貧乏学生にひしひしとわかるとはなにごとだろうか。その当時は別に不思議に思わなかったが、これがまさに知的生活の本質なのである。さきに言ったように、知的生活の流れは、貧富、身分、性別、時代のすべてのワクを越えて、それを理解するものだけのあいだを、外からは見えないで、あたかも雪の下水のごとくひそやかに流れてくるのである。

 『知的生活の方法』より

 

 

この一節に感動した私は、古今の哲学者の著作をあさり、ほんの少しでも理解できたと感じた瞬間が訪れた時は、自分なりに驚くほどの満足を感じ、それを感じている自分にまた感動したものだ。

 

千葉氏と渡部氏の言説には背景にある思想に明確に違いがある。千葉氏は、本書で語ることの根拠には、フランス現代思想があることを明言し、巻末には詳細に彼が述べていることに対する、フランス現代思想家の思想を明示している。では、渡部氏のほうなどうなのだろう。それはおそらく『ストア哲学』だろう。実際、渡部氏自身、この『ストア哲学』のことは別の著書で何度も引用しているし、若いころの渡部氏は特にこの思想を生きていると自覚していたのだと私には思える(どこかで言及されているのかもしれない)。では、その『ストア哲学』とは何なのか。Yahoo!知恵袋にある回答が比較的わかりやすい説明となっているので引用させていただく。

 

「ストア」はストイック、の語源でもあります。この名から分かるように、基本的には、欲望を厳しく節制して人格の完成と心の平穏を追及した思想です。言いかえれば、自制心により人間としての内面を充実させることで、知的、道徳的な賢者になることを目指した思想です。また、運命論的でもあり、不幸が起きるのはコントロール出来ないから、あくせくと外の世界の事象に心をくだくよりは、この世で何があっても動じない心(アタラクシア)という真の宝を得るんだ!という考えでもありました。

哲学のストア派について、どんな思想なのか、簡単に教えてください。 - ... - Yahoo!知恵袋

 

さらに、次のエピソードのほうが、ストア哲学の核心の一端が理解できるかもしれない。解放奴隷でありながらストア哲学者であった、エピクテトスの有名な逸話である。

 

ある日、主人がエピクテトスを虐待して脛をねじったので、エピクテトスは物柔らかに「そのようにしては私の脛は折れてしまいましょう」と言ったところ、主人は聴くことなくして更にねじったので遂に折れてしまった。

これにエピクテトスは従容として「だから私は脛が折れると言ったではないですか」と述べたという。

エピクテトスとは - 語彙

 

環境とは自分ではなく、自分ではないものには価値を置かない。自分の身体でさえ、自分の『意志』とも『幸福』とも関係ない、と平然としていられる境地に至っているということを強烈に示すエピソードだ。これに比べれば、企業でひどい目にあうことなどたいした問題ではない。『勉強』によって至る境地を何ら妨げるものではない、ということになる。

 

かつての日本企業は同調圧力が強かったと言っても、この当時の奴隷の身分に比べれば、天国のようなものだろう。そんなものはほっておいて『勉強』に邁進せよ、というメッセージが渡部氏の著作の節々に流れているように私には思えた。

 

 

◾️ 奈落の底に引きづり込まれかねない

 

今の日本企業、あるいは日本の労働環境は、私の若いころとはまったく違っている。いわば革命前夜のようなものだ。日本企業の多くは昨今の例で言えば東芝のように、かつては盤石だったのが、今では崩壊寸前だ。渡部氏の思想以上に、千葉氏の思想がなじみの良い時代になっているようにも思える。

 

もっとも、両者の思想は特に相矛盾するものではなく、その両方の良いとこ取りは可能だろう。一番危ういのは、『勉強』を選択せずに『同調圧力』に安易に身を任せることだ。かつての日本企業、特に私が最初に入った企業であれば、それは一定期間、ある程度の安楽な生活を保障してくれたことは確かだ。だが、どうやらこれからは期待薄と言わざるをえない。同調圧力』に屈したままでは、近い将来、奈落へ引きづり込まれる可能性が非常に高い。千葉氏が『自己破壊』とまでいう『勉強』のほうが安全いうのも皮肉なものだが、時代がそうなっているからとしか言いようがない。平時の思想は乱世には通用しない。いずれにしても、私の言うことを鵜呑みにするのではなく、両著書とも自分で読んで自分で答えを出して欲しい。それが『勉強』の世界に参入する第一歩なのだから。

 

*1:

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

*2:

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)