電機メーカーが消えても日本人の創造のスピリットは死なない

 

■ 日本の電機産業の終焉?

 

東芝がいよいよ本当に倒産(法的整理)するかもしれない。2~3年前にこのように書いたら、釣り記事(釣りタイトル)と揶揄されて炎上したかもしれないが、もはやさほど違和感はないのではないか。実際、特に今年に入ってから、『東芝倒産』をタイトルに掲げた記事が激増した。もうそれは既定事実で、秒読みに入っていることも誰もが当然視していて、後はそれがいつ、どんなきっかけで起きるのかということに関心が移ってしまっているようにさえ思える。

 

 幾つかの記事を、比較して読み込んでみると、元日経新聞の記者である、ジャーナリストの大西康之氏の記事が情報量も多く、歴史的な経緯や構造をよくまとめてあって一番わかりやすい。さらに、その大西氏の近著『東芝解体 電機メーカーが消える日*1を併せて読むと、東芝の問題が一人東芝だけの問題ではなく、広く日本の電機産業全体の終焉の象徴、あるいは終わりの始まりであることが理解できる。

 

斯く言う私も、ゼロ年代以降は、IT・電機業界を、その端の方からとはいえ、内側から見ることができる立場にあり、この業界が一旦は世界の頂点に立ちながら、その頂点から転げ落ちる、凋落の有様を見せつけられることになった。2008年より描き始めたこのブログにも何度もその関連の記事を書いてきた。但し、私の場合、電機業界の中でもいわゆる『弱電』(電気の利用方法として、通信・制御・情報に関する分野)に関心の中心を置いてきたから、いわゆる『重電』(電気機械のうち特に大型のものを指す。発電施設や工業施設、商業施設などで用いられる設備等)については、あまり触れておらず、そういう意味では、業界全体の構造問題にまでは十分には分析が及んでいなかったことを認めざるを得ない。

 

 その点、大西氏の近著はその両方にまたがって電機メーカー全体(具体的には8社)を俯瞰しており、極端に言えば、この国の『電機産業衰亡史』として、あるいは『電機産業の失敗の本質』として読むことが可能だ。(歴史家のギボンの『ローマ帝国衰亡史』や経営学者の野中郁次郎氏らによる名著『失敗の本質』を念頭に置いていることは言うまでもない)。まさに、一種の文明史としても、日本の戦略論/組織論の構造分析としても読むことができる。

 

 

■ 勝利条件の変化

 

日本では、経済学者の野口悠紀雄氏が『1940年体制』と命名した、官民一体となった戦争遂行のための経済体制が、戦後も連続して生き残り、これが目標がはっきりした『追いつけ追い越せ』の高度成長時代には絶妙に機能した。そこでの電機業界の勝利条件は、効率良く、高品質で、国際競争に負けない技術力を背景とした製品を提供することに限定されていたため、どのメーカーも必死にこの目標を追求した結果、世界の頂点に立つまでに成長することができた。

 

 しかしながら、どの産業も成熟してきて、価値観が多様化し、しかも発展途上国からも多数の競合相手が参入してくるようになると、従来の競争軸だけに固執していては、市場の新たな勝利条件にうまく対処できなくなった。特に近年では、インターネット本格導入、アナログからデジタルへの移行等に伴い、勝利条件は劇的に変化してきている。ところが、日本の電機メーカーは、過去の成功体験にとらわれ、技術力や品質の高さを過信して、消費者視点を忘れ、新たな競争軸を理解して全力投入してくる新手の競争相手との競争に勝てなくなってしまった。このため、消費者を相手にする家電・弱電メーカーは先んじて苦境に陥り、凋落の一途をたどるようになる。

 

 ただ、その時点でもまだ重電の領域は一見踏ん張っているように見えた。だが、実はそうではなかった。東芝をはじめとする日本の大手電機メーカーは、国内の巨大な二つのファミリー、すなわち、NTTグループを中心とした『電電ファミリー』および東京電力を中心とした『電力ファミリー』からの設備投資等に関わる優先発注等の優遇(大西氏の言う、『ミルク』供給)を受けることによって支えられてきていた。しかしながら、新規参入により価格競争が本格化するようになると、NTTグループ、電力10社とも設備投資は、ピーク時の半額以下にまで落ち込み、リーマンショックによる消費不況が追い打ちをかけると、傘下の電機メーカーは壊滅的な打撃を受けることになる。加えて、電力ファミリーにとっては、致命的とも言える衝撃が襲う。2011年3月に起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故だ。以降、国内での新規原発建設は絶望的となり、新たな販路を海外に求めざるをえなくなる。これがまさに今回の東芝の致命傷になろうとしている、米原子力企業のウエスチングハウス(WH)買収につながっていく。こうなってみると、ミルク補給を受けてきたことがかえって仇になってしまった。競争企業としての足腰(競争力)が明らかに弱ってしまっている。

 

環境が激変して経営環境がいかに厳しくなろうとも、根幹にある経営能力が健在なら、企業は生き延びることは可能だ。それは、本業での競争に負けて存亡の危機に瀕しながら、経営の妙で企業再生に成功して、再び世界的な競争力を持つにいたった海外のメーカー、『ノキア』や『フィリップス』等の事例を見ればわかる。だが、ミルクに甘えて競争力、経営力を弱体化させてしまった日本の電気メーカーには、残念ながらそのような余力や反発力が残っているようには思えない。

 

大西氏による、電機メーカー8社の評価で言えば、自力で経営の構造改革を成し遂げ、今後とも生きながらえる可能性が見えてきているのは、三菱電機と最近のソニーという見立てだが、個人的な感想を言えば、まだソニーの復活には疑問符をつけざるをえない。三菱電機とて、現段階まで乗り切ってきたことは評価できるが、さらに新しい時代の競争に備えた準備ができてきているかどうか、という点になると評価は難しいところだ。いずれにしても、現状の日本の電気業界は、大西氏の近著のタイトルである、『電機メーカーが消える日』を『日本の電機メーカーがすべて消える日』と読み替えてもさほど大袈裟とはいえない段階にまで来ている。

 

大西氏は、日本の電機メーカーが消えても、そこで切磋琢磨した優秀な人材が完全に死に絶えたわけではなく、むしろ新たな環境で新たな挑戦を始めている例があることに最後に言及しつつ、日本復活の希望を託している。確かに、日本は国家として戦争に負けて東京は焼け野原になったが、若々しく進取の気性に富む若者がいなくなってしまったわけではなかった。むしろ彼らは、過去の柵が崩壊して、ゼロから始まる自由を謳歌しつつのびのびと活動することができた。それは後に、世界に名だたるソニーやホンダのような企業として結実することになる。人材さえ死なずに生き残っているのなら、中途半端に組織が生き延びるより、徹底して負けた(潰した)ほうが再生し易いということかもしれない。

 

 

■ 復活のための留意点

 

ただ、再生について言えば、今の日本には若干気になる点がある。雄々しく復活することを可能とする材料はあり、人材もいるが、それをうまく生かしていくことができるかどうかという点では、まだ高いハードルが待ち構えていると言わざるをえない。その点につき、以下に申し述べておきたい。3点ある。

 

(1)金融経済化の罠に落ちないこと

 

バブル崩壊以降のいわゆる『失われた20年』の間中、日本的経営は、あらためて批判にさらされ続けた。その中には甘んじて受けるべき貴重な意見も多く含まれてはいた。ただ、日本の市場の仕組みを米国を真似て、金融経済化する動向を良しとする傾向には、否を唱えておきたい。米国では、80年代のレーガンサッチャー革命以降、金融の徹底した自由化が進み、企業のステークホルダーとしては株主一強となり、企業経営者は、短期に収益をあげ、同時に株価時価総額を上げることばかり求められるようになった。その結果、今ではどの企業も、4半期収益を上げるために、長期投資をせず、従業員を育てようともしない。また株価時価総額を上げるために、余剰資金を投資に回さず、自社株を買い漁る。その結果、米国企業のイノベーションを起こす力は、全体で見ると、明らかに衰退してしまった。

 

 実際、今世界を席巻している米国のITジャイアントは、短期収益拡大を求める株主を押さえこめる力量のある企業ばかりだ。中でも、EC大手のアマゾンなど、徹底した顧客目線で、多額の長期投資を継続して行い、売り上げは増えても、収益は何季にも渡って赤字を続けた。Googleも株式公開にあたっては、『外部からの圧力に負けずに長期的な投資を続けるために、創業者が支配権を維持することが株主とユーザーにとっても最良と判断した』と説明し、一般株主向けの1株1議決権のクラスA株式と、経営陣が保有する1株10議決権のクラスB株式を分けた。アップルの創業者スティーブ・ジョブズに典型例が見られる通り、新しいことをやるためには、短期的(時には長期的にも)収益を気にせず、クレージーとも言える信念(世界を変える、火星に人類を移住させる等)を維持することが必要だ(維持できる体制も必要だ)。

 

 

(2)エクスポネンシャル(指数関数的)な技術の進化の本質を理解する

 

今後は、どの産業分野でも、デジタル技術の持つ特質である、エクスポネンシャル(指数関数的)な進化の意味するところ、その本質を理解できないのでは、経営の中枢を担うことはできなくなる。だが、今の日本企業の経営者にその理解が浸透しているようにはとても思えない。

 

この概念の一端を理解するのに、適切なガイドブックと言えそうなのが、エクスポネンシャル・ジャパンの共同代表を務める斎藤和紀氏の近著『シンギュラリティ・ビジネス AI時代に勝ち残る企業と人の条件』だ。*2斎藤氏は、シンギュラリティ大学*3エグゼクティブプログラムを修了して、その経営思想を伝えるエバンジェリストとして活動している。斎藤氏の説明はいずれもわかり易く興味深いが、シンギュラリティ大学の共同創設者の一人、ピーター・ディアマンディスが提唱する『エクスポネンシャルの6D』という部分は特にわかり易い(そして恐ろしい)。

 

ディアマンディスは、物事がエクスポネンシャルに成長するとき、多くのケースで『D』の頭文字を持つ次の事象が連鎖的に起きると述べているという。

 

  1. デジタル化 (Digitalization)
  1. 潜行 (Deception)
  1. 破壊 (Disruption)
  1. 非収益化 (Demonetization)
  1. 非物質化 (Dematerialization)
  1. 大衆化 (Democratization)

 

デジタル化により、エクスポネンシャルの軌道*4に乗った場合、初期段階ではほどんど上昇しないから、直線的な成長をイメージする人にとっては期待を下回るレベルにしかならない(潜行)。今この段階にある新技術の例は多いから、少し注意していれば、多くの人の幻滅の声を沢山拾うことができる。(『ブロックチェーンなど調べてみると使えないことがわかった』『電子書籍は所詮使えず本は紙にかぎる』『スマートフォンは日本人には馴染まず売れない』『デジタルカメラはオモチャにすぎない』等)ところが、ある段階から突如、直線的な成長予想を突破する(破壊)。そして、そうなると既存の市場はあっという間に破壊される。デジタルカメラをオモチャとしか考えていなかったコダック社は市場から撤退し、ガラケーはマイナーな製品の立場に追いやられた。そして、その次の非収益化、非物質化は、スマートフォンが飲み込んだ製品やサービスの数々を見ていればその意味するところはわかるはずだ。アナログカメラフィルム、高額な長距離電話料金、音楽プレーヤー、百科事典等々、いくらでも事例を指し示すことができる。今現在でも続々と数多くのサービスや製品がこの列に並びつつある。このようなことが起きることを理解できない人にとって、最後に訪れるDはDeath (死)ということになる。だが、物事がこのようなステップで進んで行くことを理解できる人にとっては、チャンスは無限に開けている。

 

シスコシステムズは2017年6月2日、『デジタル変革に向けたビジネスモデル』と題した説明会を開催して、デジタルディスラプター(デジタル変革による破壊者)の脅威について言及し、『既存のトップ10社の4社は淘汰される。破壊が起こるまでの時間は3年だ』と述べている。対象は日本企業だけではないが、日本企業に限ってみた場合、今のままでは淘汰される側の比率はもっと高いのではないかと思えてならない。*5 

 

 

(3)日本人の真の創造性に気づく

 

今の日本人の多くは、自分たちがイノベーションを担いでベンチャー企業を立ち上げることに不向きな、改善は得意だが創造は苦手な民族であると思い込んでいる。だから、創造性が勝利条件となるこれからの世界の競争で日本人は負けていくに違いないというような、悲観的な展望を持つ人が多くなってきている。だが、本当にそうだろうか。アドビシステムズによる、クリエイティビティに関する意識調査『State of Create: 2016』は、米国、英国、ドイツ、フランス、日本の18歳以上の成人約5,000人を対象とした調査だが、それによれば、最もクリエイティブな国は日本であり、最もクリエイティブな都市は東京、という結果となっている。そして、興味深いことに調査対象国のなかで自らをクリエイティブとする回答者が41%もいるのに対して、日本人は13%と極端に低いという。世界からは評価されているのに、日本人自身が気づいていない創造性が存在するということを意味している。今回はその創造性自体の分析には立ち入らないが、このギャップを深く分析して、自らの強みを認識しておくことは非常に重要だ。日本が起死回生をはかるには不可欠の要素といっても過言ではない。*6

 

 

■ 復活は可能だ

 

日本は、敗戦によって滅びることはなかった。むしろ、敗戦によって、過去の縛らみや、旧弊が瓦解することによって得た自由こそ、再生のための重要な要因だった。『日本の電機メーカーの敗戦』の暗黙のメッセージは、負けた原因をそのままにしておいたのでは、復活はおろか、電機業界での敗戦が他の産業にも波及していく恐れが大きい、というものだろう。だが、この『失敗の原因』に学ぶことができれば、再生できる余地はある。あるどころか、大きな可能性に満ちている。そのことを深く考えてみるべき時期に来ていることはいくら強調してもしきれない。極端に悲観的になる必要もないが、虚勢に満ちた自信過剰は破滅への道に続く。冷静に現実を見て、賢い対処ができる人には道は開ける。それは私の願望でも、妄想でもなく『現実』だ。私はそう確信している。