人間と機械の共生・合体について考える/人間理解が粗雑すぎる

 

◾️ 進化する義足

 

最新の技術の成果として、素直に喜び、また今後の明るい展望を信じることができる(と思える)案件に、義手や義足の進化がある。中でも思考制御型という、人間の思考で動く義足の話が最初に出て来たときには、正直そんなものが本当にできるのだろうかと率直に驚いた記憶がある。初の思考制御型ロボット義足が発表されたのは、2013年なので今から4年前のことだ。時間の感じ方の問題もあるが、それほど昔、というわけでもない。しかしながら、その後の進化はそれこそ目を見張るものがある。以下の動画をみればわかるが、実に自然な動きが可能で、通常の生活で利用するには、ほとんど問題ないように見える。

 


昨今では、人間だけではなく、ネコの義足についても大変な話題となったことは記憶に新しい。『義足』と言ったが、もちろん義手も同様に進化しており、最近ではより微妙な動きが必要とされる義指についても、開発が進んでいるようだ。

 

2020年には、オリンピックとパラリンピックが開催されるが、この分では、オリンピックの記録より、パラリンピックでの記録のほうが上回る可能性も十分にありそうだ。(すでに、トップの義足の選手の短距離走の記録はオリンピックの記録と遜色がない。)

パラリンピックの記録がスゴい。オリンピックを超える障害者スポーツの世界 | ケアラー

 

それどころか、オリンピックの陸上競技自体に義手の選手の参加も認められる方向となると、オリンピックの記録自体が義足の選手の独占となりかねない。 すでに、人間の手足に似せなくとも(ダチョウの脚をモチーフにする等)機能自体を追求する試みも出てきているが、この方向が今後エスカレートすると、そして、記録を出すことが第一優先でそのための前提条件に制限がないとすると、オリンピックもパラリンピックも一種のサイボーグの見本市になりかねない。だが、さすがにそれには違和感を持つ人が多く、批判も多い。

 

 そもそもパラリンピックの趣旨は、身体に障害を持つ人でも競技者として活躍できて、夢を追いかけることができるような機会を提供することにあったはずだ。そうして競技者を頂点にリクリエーションスポーツとして広がれば、心身ともに傷害を持つ人が健全にすごすことができると考えられる。だが、記録に焦点が当たりすぎ、記録を出すために、健常者が健康な体を機械に置き換えるような、いわばサイボーグ化にまでエスカレートするとなると、意味はまったく違ってくる。

 

 

◾️ 人間拡張工学

 

だが、人間の生身の体を機械に取り替えてしまうようなことではなく、あくまで『機能拡張』を前提として、それを『超人化』と呼び、ポジティブな可能性として定義しなおしてスポーツ自体の意味を革新しようという『超人スポーツ』という取組もあり、偏見を捨ててこの活動を公平に評価すると、確かに様々な『明るい未来』を見出すことができそうだ。

超人スポーツとは | ABOUT | 超人スポーツ協会

 

このコンセプトの考案者で、超人スポーツ協会の共同代表である、東京大学大学院の稲見昌彦教授は、人間とテクノロジーの一体化をもっと広義にとらえる『人間拡張工学』を提唱している。技術についても、特定の技術分野ではなく、あらゆる可能性のあるものを取り込んでいこうとしている。よって、バーチャルリアリティ、拡張現実感、ウエアラブル技術、ロボット技術、テレイグジスタンス(遠隔臨場感)など、身体にフォーカスするという観点から横断的にさまざまな研究分野にまたがっている。稲見教授はこの『人間拡張工学』のもたらす恩恵として、『自在化』という概念について述べている。

 

この概念を理解するには、ロボスーツ(ロボットスーツ)をイメージすると分かりやすい。ロボスーツといえば、以前からアニメや映画等では様々な形で出現しているし、最近では実際に建設現場等への導入が始まっているから、その利便性についてあらためて語る必要もなさそうだ。危険な場所での作業や、生身の人間には不可能な力作業ばかりではなく、今後は人間以上に精緻な作業もできるようになることが想定されている。しかも人間は何もスーツを着込まなくても、遠隔地からこれを操作し、ロボスーツの感覚機器を通じて、その場にいるような臨場感を持たせることができるから、いわば、一種のテレポーテーションが可能となる。テレポーテーションと言えば、それをサポートする技術として、仮想、拡張、複合現実(それぞれVRARMR)技術が今本格的に開花しつつあるが、これにロボットスーツが合体することで、人間が実際に臨場感をもってその場にいるような感覚を持てるだけではなく、その場での作業/作用も可能になり、本当に人間がその場に存在するのに近い状態を実現できる。つまり、テレポーテーションが現実になるわけだ。人間はより自由で自在な存在になる。これはものすごく多様な可能性に満ちている。そして社会のパラダイムを大きく変えてしまうインパクトがある。

 

稲見教授は、ハーバード・ビジネスレビューのインタビュー記事で、その具体的な影響について幾つか語っている。例えば、製造業などこの影響を受けてもっとも大きく変わるものの一つと考えられる。今の製造業は、労働者が生産設備のあるところ(工場)に集まって行うものだが、今後は労働者は世界中に散らばっていても、作業時間になったら、遠隔ロボットスーツを着て作業することが可能となる。ロボット化という意味では、人間を完全に置き換えるロボット化ばかりが話題になるが、精緻な作業等、作業の中にはなかなかロボット化できないものがある。だからこういう作業は当面人間がやり続けることになるかもしれない。だが、それはあなたかあなたのとなりの労働者が担当する必要はなく、遠隔地にいて、賃金が安く、しかも技能も高い労働者が担当すれば済む。そのような労働者は、世界中から引っ張りだこになるだろうから、世界中の工場の仕事を引き受けて、マルチな活躍をすることも当然考えられる(外科医が遠隔地の手術を行うのに似ている)。また、稲見教授が語る『人間のメディア化』というのは、どの人の経験であれ、遠隔地でVRの機器を使って追体験したり、その体験をパッケージにして送ったりすることを言うようだが、確かにこれも工夫次第で、ビジネスであれ、レジャーであれ様々な用途が考えられる。

“人機一体”で人間はどう変わるのか「人間拡張工学」がもたらす新しい世界 | Going Digital インタビュー|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー

 

 製造業に本格的に『人間拡張工学』が導入されるようになると、ロボットが人間の仕事に置き換わるだけではなく、人間に残った仕事も、必ずしも高度な技術が必要な仕事でなくても(通常のライン作業等)、世界中の労働者が国を出ることなく参加できるようになることを意味するから、賃金相場は世界の最低賃金のレベルに下落していくだろう。これには良い面と困った面の両面あるが、いずれにしても社会は大きく変わらざるをえない。

 

 

◾️ 機械と人間の共生/ポジティブとネガティブ

 

それでも、ここで語られる『機械と人間の共生』は比較的ポジティブで楽観的といっていいだろう。どうしてそう感じられるかと言えば、このコンセプトのコアの部分にある思想が、人間の『存在』や『身体』を毀損しないことを前提としているように思えるからだ。実際にはVR等、人間の感覚が一種の錯覚に置き換わることが前提とされていて、そのことを問題とする向きもあるが、それを言えば、メガネ、双眼鏡、顕微鏡なども問題ということになる。先に述べたような、人間の身体を機械に置き換えるような方向にエスカレートする危険もないとは言えないが、そこに一定の歯止めがあれば、概ね人間の倫理観を損ねることもなさそうに見える。

 

どのような形であれ、今後はこの共生はもっと様々な形を持ってこの世界に現れてくる。だから、その限界ラインを知り、見極める努力が否応なく必要になる。その努力次第で、『機械と人間の共生』が人類に明るい未来をもたらすこともあれば、大変な混乱、場合によっては破壊的な影響を及ぼす可能性もある。

 

人間と機械(人工知能)の共生・共同・協働・合体(やや定義の厳密性は欠くがご容赦いただきたい)という点で、現在ポジティブに見えるものの一つに将棋がある。実際に羽生善治氏のような将棋のトッププロと人工知能の直接的な対決は実現していないとはいえ、すでに人工知能のほうが人間を上回っているだろうことは暗黙の了解というべきだろう。だが、興味深いことに、現在最強なのは、単独の人間でも人工知能でもなく、人間と人工知能が協力した場合なのだそうだ。これは相互の能力が完全に相互代替的ではなく、それぞれの特性を持って補完しあうことが可能で全体としての能力を上げていけるという非常にポジティブな事例でありメッセージと言える。このことが示唆する共生のあり方を模索することは今後何より重要になっていくと考えられる。

 

一方、一見有効に見える共同に見えながら、本質的な問題に突き当たっている最近の事例に、『レベル3の自動運転車における機械と人間の運転のスイッチ』がある。レベル3の自動運転というのは、ごく単純化して言えば、人間が運転できる既存のシステム(ハンドルやブレーキ)は装備されているものの、緊急時には車両が退避行動をとるのではなく、ドライバーに運転をスイッチすることを前提としたシステムだ。

 

だが、これは言うほど簡単ではない。緊急時にドライバーが寝ていたり、意識が完全にない場合等はどうするのか。突然運転スイッチと言われても、まさにその瞬間が最も危険ということになる。とすれば、ドライバーは常に緊急時に備えて、周辺の状況を確認しておく必要があるということになるが、それではそもそも自動運転にする意味はないことになる。緊急時にも車両が自分で退避行動をとるレベル4以上か、あるいは普段はドライバーがメインで運転していて、緊急時に車両が補助にまわるようなレベル2以下の車両のほうが、合理性がある。しかも、自動運転を使えば使うほど人間の運転能力は落ちていくと考えられる。カーナビを多用すると方向感覚まで狂ってしまうのが人間だ。緊急の回避行動を行うことができる能力は、時がたてばたつほどあてにならなくなる。いつも自分で運転して、運転の能力を維持しているか、そうでなければ、完全自動運転車に運転はお任せというのでなければ、路上は大変危ない場になってしまう。

 

また、人工知能と人間の脳の合体というコンセプトについても、昨今比較的安易に語られることが多い印象があるが、これも実は要注意だ。記憶能力や計算能力等については、現在でも機械のほうが人間の脳に勝っているのだから、この弱点を補うべく合体することが可能となれば超人間が出現するだろうという考え方だ。実際現在でも、脳の中に知識はないが、それはGoogle検索で補っている、というようなあり方は、世界規模で一般化しつつあるわけだから、いわゆる『外部脳の合体』は、すでに段階的に普及しつつあるとも言える。(もっとも、合体というのは、最終的に人工知能と人間の脳が、いわば義足が人間の神経回路に繋がるがごとく、繋がることをイメージしているので、もう一段ステージが上の概念ではある。)

 

 これは私のような記憶力に自信のない者には本来朗報以外の何物でもないし、記憶力重視の日本の教育のあり方に危惧を抱く者は我が意を得た思いかもしれない。人間の能力は本来思考能力や創造力等が一番大事で、記憶などGoogleのような外部脳に任せて、必要に応じて引き出せばよいのだ、というわけだ。これは一見大変もっともな意見に聞こえるし、一端の真実があることも確かだろう。だが、一見もっともらしいからこそ要注意だ。確かに一定以上の知識を持つ人がGoogle検索を利用することのメリットははかりしれない。その人よりちょっと(かなり)記憶力が良くて、Google検索を利用しない人に勝つことは造作もないはずだ。だが、問題なのは、圧倒的に情報の記憶量が少ない人は、Google検索があっても(それ以上に優秀な検索エンジンが出て来ても)使いこなすことはできない、ということだ。しかもそのような人は興味の範囲は狭く問題意識を持つ機会も少ないだろうから、現状の記憶もどんどん劣化させてしまう可能性が高い。そのような人はフェイクニュースや、怪しげな主張や意見にもやすやすとのせられてしまう可能性が高い。普通のビジネスマンとして見ても、能力が高いとも、伸びる余地があるとも思えない

 

この点については、『クラウド時代の思考術』*1という書籍に、現在の米国の若年層が知識を持つことを軽視して、特に一般常識や教養等が上の年代と比べても圧倒的に劣る傾向にあり、その結果、玉石混交の中から、玉を見つけることがどんどん難しくなっている事例を数多くあげている。しかも、知識の量と収入についても、統計的に優位な差がある(知識が多いほうが収入も多い)と主張する。このような事例は自分の周囲にも沢山見られるようになってきている印象がある。おそらく、あなたの周りも同様の事例で溢れているのではないか。

 

 人間の思考能力はもちろん思考することによって練磨されるが、その材料は過去に蓄積した情報である。また、創造力というが、基本的に創造力というのは、まず第一に既存のものを真似たり、様々に組み合わせるところから始まる。すなわち、情報の多寡が創造力にも大いに関係している。脳に蓄積すべき情報は、できるだけ過去に歴史や科学、あるいは傑出した頭脳による検証を経たものであることが好ましいし、そのような情報を一旦受け入れた上で、その真偽を自分でも確かめ、思索することを繰り返して不断に精度を上げていく必要がある。そのような努力の結果蓄積した情報こそ、真に役立つ情報であり、そういう情報のベースがあってこそ、Google検索から最大価値を引き出せるのであり、その逆ではない

 

 

◾️『人間であること』とは

 

以前に私自身ブログにも書いたことだが、情報過剰時代の現代では、MAX24時間しかない人間の注意をめぐって可能時間を広告宣伝、ニュース、SNS等ありとあらゆる情報が争奪合戦を繰り広げている。そして、その背後には広告宣伝等のロジックが常に働いていて、人は何を買うか、何をするか、SNSでどの友人の情報を見るか、選挙で誰に投票するか、すべてアルゴリズムによって決められているといってもいいくらいだ。人間の脳の側にしっかりとした判断基準があれば、溢れるように入ってくる情報や誘導についても、自分で見極めることもできるが(それでも情報の量に圧倒されてしまいかねないが)、そうでなければ、しまいには判断するのは自分の脳ではなく、すべて外部脳ということになってしまう

 

哲学者のカントは『純粋理性批判』で、人間には、人間の五感で受容した感覚データを取りまとめる『超越論的統覚』があり、それがなければ、受容した情報がバラバラとなり、同じ物体なのに別の物体があると勘違いしてしまうと述べているが、脳に蓄積した情報がすべてアルゴリズムでもたらされた怪しげな断片情報ばかりで、しかも24時間そのジャンクのような情報にさらされて、自分で統合し真偽を検証するべく思索する時間がない、というのは、(少なくとも現段階では)人間だけが持つ、人工知能と人間を明確に別つ能力といえる『統覚』を手放すことに等しい。これはまさに、最悪の形で人工知能が人間の脳の置き換わること、とも言えるかもしれない。


先に、人間の身体を機械に置き換えることの違和感について触れたが、物理的な機能はともかく、人間の身体の感覚というのは、少なくとも現段階では、簡単に機械に置き換えられるほど単純にはできていない。人間の感覚は一般には五つ(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)あるといわれるが、健全な常識が教えるところでも、それだけでは収まりきれない。シュタイナー教育で知られる哲学者のルドルフ・シュタイナーは、(以下の通り)人間は12の感覚を持つと述べている。

 

意志と深い関わりを持つ下位感覚『触覚』『生命感覚』『運動感覚』『平衡感覚』

感情と深い関わりを持つ中位感覚『嗅覚』『味覚』『視覚』『熱感覚』

思考と深い関わりを持つ上位感覚『聴覚』『言語感覚』『思考感覚』『自我感覚』

 

これを『統覚』によって統合しているのが人間だとすると、人間は脳だけ残して、あとは機械に置き換えればよい、というような議論が如何に乱暴な議論なのかご理解いただけるだろう

 

機械/人工知能の進歩がめざましいことを認めることはやぶさかではないし、今後の可能性についても非常に大きなものがあることを私自身確信しているが、同時に、人間の側の解明がまだあまりに進んでいないことも忘れず、人間の可能性の大きさを過小評価しないことは戒めとしておく必要があると思う。

*1:

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―