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技術が示す未来だけでは生の欠落を埋めることはできない


先日(10/19)、WIRED JAPANが企画したコンファランス『FUTURE DAYS』に参加した。
10/19(水)開催! WIRED CONFERENCE 2016「FUTURE DAYS:未来は『オルタナティヴ』でなければならない」|WIRED.jp


このコンファランスは、『テクノロジーの進化によって近未来の社会の様相が劇的に変化する』という環境認識を共通のベースとしながらも、そのテクノロジーの進化が指し示す未来像に満足しきれず、オルタナティヴ(代案)を渇望している編集者の飢餓感が伝わってくるようなテーマが設定されているとの印象があり、その意味で非常に興味深く感じたので、早々と参加を決めてこの日を心待ちにしていた。


『INTRODUCTION』には次のようにある。

未来は「オルタナティヴ」でなければならない

「未来に価値があるのは、それがいまと違っているからだ」。あるヴェンチャーキャピタリストは、かつてそう語った。「未来を想う」ということは、つまり、いまとは異なった社会・世界を想うことだ。やれIoTだ、人工知能だ、ブロックチェーンだ、とテクノロジーがもたらす未来の話は賑やかだ。けれども、それらの議論では多くの場合、代わり映えのしない社会・世界がちょっとばかり「便利」になることしか語られない。そうじゃない。ぼくらは、違った景色を見たいのだ。新しいテクノロジーがもたらす、新しい可能性を語ること。いまとは決定的に異なった「未来の日々=Future Days」を夢見ること。そして、それを信じること。そう、未来は「オルタナティヴ」でなければならないのだ。


では、この開催意図は満たされたのだろうか。



◾️ 齊藤元章氏のお話しの凄まじさ


実際に始まってみると、テクノロジー進化の未来を語るテーマはやはり圧倒的に迫力と説得力があって、しかも、少し前に話を聞いたことがある人のお話でも、わずかの間に長足の進歩を遂げていることに驚いてしまう。まさに『男子三日会わざれば刮目してみよ』(出展は『三国志演義』)を地で行っている。


中でも、スーパーコンピュータのベンチャー企業、(株)PEZY Computingを率いる、齊藤元章氏のお話しは聞くたびに凄みを増していく感じだ。この人は、一番荒唐無稽に思える未来を語っているはずなのに、最も説得力を感じるという稀有な存在だ。極端に言えば、齊藤氏のお話しを聞くことができただけで、このイベントに参加した価値があったと感じた人も多かったのではないかと思う。


例えば、5年以内に完成するという、人間に構築できない次元の理論を多数生むであろう最強の問題解決エンジン(『1000倍高速な人工知能エンジン(仮説の立案)』×『1000倍高速な次世代コンピュータ(仮説の検証)』)のお話しなど、超弩級だ。人類社会の抱える、現状では解決不能な問題が次々と解決されていくという未来のビジョンがただの夢想ではなく、すでに具体的な実行計画となっていることがわかる。


かたや、現在の日本の最強のスーパーコンピュータである『京』のレベルのコンピュータが現在のコピー機程度の大きさとなって普及するというお話しなども、本当に実現すると上記の高度な問題解決エンジンを個々の企業単位で比較的安価に所有/利用することができるようになることを意味し、そうなれば企業の活動もその形態もドラスティックに変貌せざるをえないだろう。それどころか、近未来が齊藤氏の描くビジョン通りになるとすると、企業も競争も消失してしまいかねない。昨年末、雑誌WIREDによるインタビューで、齊藤氏は次のように語っていた。

まず最初に、エネルギーに関する問題が解決されるでしょう。スーパーコンピュータの圧倒的な計算能力によって熱核融合や人工光合成が実現し、世界は新しいエネルギーに満ち溢れます。そして、より高度な遺伝子組み換え技術と人類すべての食料を補って余りある生産技術が確立し、食料問題が解決します。労働は超高能率のロボットで代替され、最終的には衣食住のすべてがフリーになります。

それによって現在のような消費のシステムもなくなり、人は生きるために働く必要のない『不労』の社会を手に入れます。やがて人体のメカニズムが確信的に解明されることで、人類すべては『不老』をも手にすることになるでしょう。

雑誌『WIRED』VOL.20より


今回のプレゼンテーションは、この夢のような未来に向けてますます技術進歩の加速度が上がっていること、皆が思うよりずっと早い段階でこの未来が訪れることを強く印象付けるものになっている。


現在の人類の抱えるあらゆる問題が解決されるとすれば、これ以上何を望むことがあろうか。後は、齊藤氏のビジョンが少しでも早くやってくることを待つだけで、The End。もうこんなコンファランスも不要。お釈迦様が出家するきっかけとなった、『四門出遊』の説話で説かれる、人類すべてが避けることのできない苦しみである『老・病・死』の三苦からも、生きるための最大の労苦である労働からも解放されるとすると、もうごちゃごちゃと小難しいことを考える必要もない。特に、社会科学系の文物などこれで決定的に不要になる。宗教だってもう不要だろう・・・そんなふうに結論づける人も多いのではないか。


コンファランスのINTRODUCTIONの一節を思い出して欲しい。『やれIoTだ、人工知能だ、ブロックチェーンだ、とテクノロジーがもたらす未来の話は賑やかだ。けれどもそれらの議論では多くの場合、代わり映えのしない社会・世界がちょっとばかり「便利」になることしか語られない。そうじゃない。ぼくらは、違った景色を見たいのだ。新しいテクノロジーがもたらす、新しい可能性を語ること。いまとは決定的に違った「未来の日々=Future Days」を夢見ること。』


ちょっとばかり『便利』どころか、『人類すべての苦しみ』が払拭されると言われているのだ。これが『違った景色』であり、『新しい可能性』であり、『決定的に違った未来の日々』でなくて何だろう。



◾️ 超弩級の大波にも流されない能楽師のお話し


では、他の講演者のお話しは齊藤氏のいう『プレ・シンギュラリティ』*1という大波が来る前の小波程度の賑やかしで、遠からずすべて押し流されて無意味になってしまうのだろうか。確かに興味深い講話はたくさんあったが、それでも齊藤氏の超弩級の前には、霞んでしまうようなお話も少なくなかった。しかしながら、あくまで私の見立てだが、超弩級の大波が来ても流されることも揺らぐこともないお話しを語った人が一人いた。能楽師の安田登氏である。


安田氏はテクノロジーを語ったわけではない。彼が語ったのは、650年以上の歴史を持つ日本の古典芸能である『能』の世界、およびそれを産んだ古い日本人の人間観、自然観である。驚くべきことに、それは西洋近代の常識の枠組みを大きく超えている。


例えば、齊藤氏が『老』をネガティブなものとして、テクノロジーにより克服できることを嬉々として語る一方で、『能』は、『老』なくしては成らず、『老』を尊ぶという。また『能』で使用される楽器(笛)である、能管(のうかん)は、見た所ただの横笛だが、中に『のど』という厚さ2mmほどの竹管が挿入されていて、これが狭隘部となり、共鳴の成立が妨げられ、西洋音楽の音階をたどることは至難の技で、独特の音階を持つというが、これも年を経て『老』に至って初めて妙味のある音を出すことができるようになるのだという。


さらには、人間と人間と、人間と動物、人間と自然の境界は曖昧となり、どこからが自分かどこからが相手かわからなくなる。外と内、現界と異界の境目も曖昧で、はっきりした境界もなく混ざり合い、時間も過去から未来に直線的に流れているわけではなく、過去・現在・未来を自由に行き来する。これに一番近いのは夢の中ということになろうが、まさに夢と現が混ざり合う世界といえる。もちろんこれは安田氏自身の夢や妄想ではなく、650年以上続く日本の古典芸能の世界の話しであり、古来日本人はそのような世界に入って深い感動を味わい、生の意味を感じ、安心立命を得てきた。



◾️  実証科学の問題点


哲学者のフッサールは、近代科学が、実証主義に偏して客観性を求めるあまり、没価値的になり、世界を直接に経験している主体の場所を排除し、人間にとっての自由や自立、生死の問題などの根源的なことがらの問いに答えることができなくなってしまっていることを批判した。そして、科学的な知識が,人間の生の意義と有機的に結びついていないという事実を指摘した。フッサールの問題意識は今に至るも解消されていないどころか、科学的な知識と人間の生の意義の乖離は、むしろその巾が広がってしまっているように思える。


『科学的』であることを目指した経済学も、市場には本来、贈与やシェアのような、価値や意味が豊穣な取引が盛んに行われる場であったはずなのに、貨幣交換という量的で計算可能な概念だけを残して後はすべて捨象してしまった結果、量的にはとんでもなく拡大したが、逆に排除してしまった意味や価値から今、非常に大きな逆襲を受けているとも言える。グローバリズムやテロの問題などもその象徴と考えるべきだろう。



◾️ オルタナティヴが必須であること


プレ・シンギュラリティを主張する齊藤氏の未来像は確かに素晴らしい。だが、人間の生の価値、死の意味、自然と人間のあるべき関係等は何も語られていない(だからといって齊藤氏を批判しているのではない)。これほど究極の科学技術の未来像を見せつけられれば見せつけられるほど、そこに大きな欠落があることを感じずにはいられない。なんだか心から喜ぶ気になれない。何かが欠落しているとの違和感が払拭できない。ところが、古典芸能の世界の話を聞くと、経済的な利便性や利得といった価値があまりに世界を覆い尽くしてしまった結果、見失ってしまった価値や意味が今も厳然と存在し、しかも、それが非常に大きな可能性を秘めていることを教えられる。これこそ、本当の『オルタナティヴ』というべきだろう。少なくとも私は今回のイベントで、そのきっかけを掴むことができたと感じている。


科学技術の進化は止まらないし、無闇に止めるべきでもない(もちろん、中には止めるべきものもある)。だが、そうであれば余計、生のバランスを取るために(プレ・シンギュラリテシを目前にしているからこそ)、『オルタナティヴ』を真剣に探求しておく必要があることは私もあらためて強調しておきたい。