自動運転を例にあげてブログを書くことのメリットを考えてみる

自分のためになるブログ


今年も早くも3月を迎えるが、この3月が終わると2015年度が終了し、2016年度が始まる。その区切りはちょうど私が本格的にブログを開始した時期(2008年4月)に重なるので、いつも年度末が近くなってくると自分のその年度のブログ記事を振り返り、総括しておきたい気持ちになってくる。


2008年4月から数えると、2016年4月から9年目に突入ということになる。われながらよくぞ続いたものだと思う。その間、興味深い反応や反響もあって面白かったことはもちろんだが、それ以上に自分にとって大変ためになったと思うことも沢山ある。その一つとして、最近特にしみじみ感じるのは、個々の記事を書いた時には気づかなかった、記事相互の関連性と、その背後にある潮流(より大局の概念)に気づくようになったことだ。おかげで、従来より市場や社会の構造を全体として理解/把握できるようになったように思う。少々大仰な言い方をすれば、自分の書いたブログ記事を通じて、『世界』の全体像や背後にあるロジックが垣間見えるようになってきたと言ってもいい。



狭義のビジネス知識だけでは足りない


2008年4月当時、私はいわゆる『ビジネス・ブログ』を始めたつもりだったし、それは基本的には今も変わっていないと考えている。だが、そんな自分の思いはどうあれ、客観的には、最近の私が書く記事のうち、狭義のビジネス記事は2〜3割かそれ以下だ。それでも、繰り返すけれど、自分としては基本的には今でも『ビジネス・ブログ』を書いているつもりなのだ。どうしてそんなことになるのかと言えば、昨今の市場環境を見ていると、もはや個々の市場の狭い領域の表面的な出来事だけでは語り尽くせないことがあまりに多いと感じるからだ。より広範な社会の変化、世界の変化の胎動等との関係の中で理解しなければ、何であれ有益な知見を得ることができなくなっている。そんな中、自分の知識が不足しているが、重要かつ欠かすことのできないことも次々に見つかってくるわけだが、それはしばし家族制度の変遷であったり、海外の政治動向だったり、一見特定の市場情報とは関係がないように見える内容であることも多かったりする。



近視眼のリスク


現代では、どんな業界でも、統御された条件の中で、限られた構成要素の相互関係だけに注目していても、すぐにその環境自体が覆えされてしまう。競合相手を特定したつもりでも、まったく予想もしなかった参入者がいきなり現れ、市場を席巻してしまうようなことも日常茶飯事だ。もちろん国境もハードルとしては機能しなくなりつつある。しかも、市場全体、社会全体に大変動の兆しがあり、その兆しをどう読むか、どう理解するかということ自体が、ビジネスを語るにあたっても最大の留意点とならざるをえない。そうなると、ますます個々の現象の背後にある、力学、潮流等の変化を把握し、理解しないことには、話にならなくなっている。個々の市場のユーザー分析等が無駄だという気は毛頭ないし、競合他社の攻勢にはとりあえず対処しないといけないだろう。だが、目先の現象にとらわれて、そこで近視眼的になり過ぎてしまうと、時代に取り残され、時代の遺物になってしまうリスクが大変大きい。


一つ一つの記事は早い時代の流れの中で陳腐化してしまったとしても、そこで考えていたことのエッセンスや思考の骨組みは残っているから、なぜ陳腐化したのかを振り返り、それを最新の現実に置き換えるとどうなるのか、というような思考実験もできる。そして、その上で、他の記事で扱った内容との関係性を読み取るための資とすることができる。しかも、他人ではなく、自分自身で骨身を削って書いているだけに、気づきは大きく深い。これこそ、私がブログを書くことをおすすめしたい最大の理由の一つといっていい。



視野狭窄の例が多い自動運転の議論


昨今、自動運転について調べたり、議論したり、質問を受けたりする機会が増えているため、そこで感じたことを例にとってもう少しこのことについて語ってみよう。


自動運転については、最近では情報が各所から溢れるように出てくるため、詳細な情報を大量にインプットしている人や、最新の情報に即時にキャッチアップしている人も多くなってきた。だが、それにもかかわらず、いざ、今後の見通し等について意見交換をしてみると、驚くほど視野が狭かったり、自分の好みや立場のバイアスがかかっていたりして、結果として、当然起きてくるであろうことにさえ思慮が及んでいなかったり、奇怪な未来像を抱いていたり、あるいは、重要な、キーコンセプトに気づいていなかったりする。


私は、本件については、決して専門家といえるだけの知見があるわけではなく、この業界と市場や技術動向について人並みより少し詳しい程度だと思っているが、バリバリの専門家と話していても、こうした違和感を感じてしまうのは、いったいどういうことなのかと以前から訝っていた。彼らとの違いがあるとすると、私がブログ記事を作成する過程で、どんな問題についても、できるだけ広い視点から、多面的に考察することを自分に課していることと、記事を書く際には、以前に書いた記事との関係や記事に書いた内容の背後にある潮流や動向等を徹底的に探求することを普段から習い性としていることくらいだろう。その探求から新たな記事が生まれることもある。この繰り返しは、自分が考える以上に、自分の視野を広げることに役立っているようだ。



新しい組み合わせが未来を決める


もう少し具体的に言えば、例えば、こういうことだ。今、自動運転については、いくつかの主要なグループが参加を表明しており、それぞれが将来の市場をめぐって熾烈な競争を水面下で繰り広げている。その中心に鎮座する存在は、何と言っても、米国ITジャイアントの一角、Googleだろう。それに対抗する形で、日本の自動車メーカーのグループ、欧州の自動車メーカーのグループ、あるいは電気自動車ベンチャー企業テスラモーターズのような存在がある。その他に、アップルや中国の百度等の新規参入の噂もある。


一口に自動運転といっても、前提となる技術やシステムは各社各様だ。だから、どのグループ(会社)が勝利を収めるか、世上の注目は高まってきている。議論も徐々に盛り上がりつつある。


だが、そのような議論を聞くにつれ、どういうわけか、いつも物足りない思いにさせられることが多い。というのも、ありがちなのが、各グループが想定する自動運転のシステムをバラバラにして、それぞれの部品(人工知能、センサー、自動車の機能部品等)の優劣についての議論だったりする。その種の議論が重要ではないというつもりはないが、バラバラに分解するより以前に、もう少し自動運転技術の周辺に現れてくる機能や技術体系等との相互の関係、その未来について十分に議論して、その上で浮かび上がってくる仮説を想定しておく必要があるはずだ。少なくとも、『電気自動車へのシフト』、『カーコンピューテイングとその基本OS』を加えた三つ巴の進化を前提に自動車の将来像全体を構想することは必須と言えるはずだ。


さらに言えば、自動車が収集する情報とその利用についても、どうしても交通情報が精緻になるという程度の発想の見解が多いが、IoTの進化が示唆する将来像はそれより遥かに広範なもののはずだろう。場所と紐付いたSNSによる発信情報との関係づけもそうだし、人間がつけているウエアラブル機器の情報との関係、エンターテインメント性の強い情報など、およそありとあらゆる情報との交錯の中での、最適解をさぐる競争が始まろうとしているのだ。それこそ大量の情報の中から最適解を見つける役割としての人工知能の役割は一層重要になることは確実だ。人工知能が期待される役割は、単に運転の機能を司る部分だけではないのだ。



非連続な未来を構想することが必須


現段階では、IT 総合戦略本部等のロードマップで見る限り、日本市場では、2030年位の段階に至っても、人(ドライバー)が不要な完全な自動運転車が導入される将来図は見えてこない。ある程度見えてくるのは、高速道路等の特定の限定された道路環境における自動運転(但し、運転席から人間がいなくなるわけではない)程度だ。確かに、人(ドライバー)が不要な自動運転車や、人混みの多い一般道を含めた全域展開など、法整備を含めてそれほど簡単に対応できるとは考えられないというのが、日本の『常識』となっているせいか、本音のところ、当面はあまりシリアスにこの問題を考える必要はないと言い切る関係者(特にシニアクラス)も少なくない。


確かに、完全な自動運転車がどの時点で出てくるのかを、正確に予想することは難しい。ムーアの法則等に裏打ちされた指数関数的な計算パワーの向上を前提とした人工知能の発展は目をみはるものがあり、そういう意味では技術的な実現は大抵の人が考えているより、もっとずっと早くやってくるであろうことは疑いえないが、法整備等の社会環境整備にはそれ以上に(そして予想以上に)時間がかかる可能性があることも否定はできず、その総合的な帰結を正確に予想してみせることはまさに至難の技だ。


だが、一つだけ言えることは、今関係者が考えておくべきことは、完全自動運転車ができるかどうか、すべてかゼロか、という問題ではないということだ。上記で書いた通り、これからの自動車は、様々な要素の総合的な、かつ、従来では予想もできなかった要素の組み合わせによって発展の行く末が決まることは必定だ。そして、仮に2030年に完全自動運転車が一般道を走行していなかったとしても、自動車が今と同じものであるとはむしろ考えにくい。最低限、圧倒的な情報ネットワークの中に置かれた多機能情報端末として大幅な進化を遂げていることは間違いない。それは完全自動運転が目がくらむような未来である以上に、目のくらむような進化となることは確実だし、そのような未来図を想像できない参加者はこの市場の競争から脱落を余儀なくされるだろう。


もちろん、一方に、ビジネスチャンスもいくらでもあることになる。人の生死に関わる完全自動運転車の社会での受容のスピードを勘案すれば(非常に時間がかかる可能性もある)、そうではない領域のほうがスピーディーに進化するであろうことは当然予想される。これからの自動車市場は、自動運転が実現するのはまだ先だからあまり考えないでおく、というような姿勢でやっていけるほど甘くはない。刻々と相貌を変える自動車という情報端末に対して、自動運転という技術が相対的にどのような位置に置かれるようになるのか、絶えずメタな、背後にある動向に気を配りつつ、非連続に変化する未来を構想し続けることが必要になっていく。


だが、これは、自動車に限らない。今後の市場競争は多かれ少なかれ、これと同様の構造になっていくことを認識しておく必要がある。また、逆に言えば、そのような競争を仕掛けていく力量のあるプレーヤーには可能性は無限ということになる。


自分の考えをまとめて発表することの重要性


そうなると、事前に将来を構想することは(情報が多すぎて)無理で、それぞれにスモールスタートをして、市場に答えを聞きながらやっていくしかない、という声も出てきそうだ。確かに、それは一つの理屈だし、昨今のIT業界の主流の経営思想といってもいい。だが、中長期的に市場でのプレゼンスを維持し続けようと思ったら、そのようなマージナルな部分での勝敗を偶然に頼って積み重ね続けることは、リスクも負担が大きすぎる。もう少し大きなトレンドを理解して、ある程度蓋然性のある仮説を持ちながら進めていかなければどこかで息切れしてしまうだろう。闇夜にはやはり灯火が必要なのだ。そのためにはブログに限らず自分の考え方を定期的にまとめて発表していくことは大変有効だ。


少々自画自賛が過ぎたようだ。そんなこともう知ってるという方も少なくないだろう。今更こんなことを述べている私こそ、遅れているのではとのご指摘をいただくことになるかもしれない。だが、現実に私の周囲にたくさんいる、昨日の延長に明日があると単純に信じている人たちに向けて、あらためてこれだけは言っておきたい。これからは近視眼は確実に身を滅ぼすと心得ておいたほうがいい。昨日の延長に明るい未来はない。明るい未来は、過去と決別した者にだけ訪れる。チャンスはそう覚悟を決めた者の前にだけ開けるのだと思う。そのためにブログを役立てることができる、ということもこの機会にあらためて考えて見ることをおすすめしたい。