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家族制度の行く末をどう考えておくべきか

 前回残した課題:家族制度はどうなっていくのか


前回のブログエントリーで、社会学者の見田宗介氏の現代思想(2016年1付き臨時増刊号)*1における論考を参照して、1973年以降の日本人の意識の最も大きな変化は、近代家父長制家族(人間の生の全領域の生産主義的な手段化、という仕方での合理主義)の解体であった、という一文を引用して、結婚も出産も『制度』から『選択』の問題になったことを指摘したのだが、本題のSMAPのスキャンダル問題以上に、この点について、記事を読んでいただいた方からの反応が多くて少々驚いた。


どうやら、この問題を持ち出したのであればもう少し語り切っておく必要があったようだ。すなわち、家族制度がこの先どうなっていくのか(それは良い方向なのか、悪い方向なのか)という点をもう少し語っておかないと、読者の欲求不満が残ってしまうようだ。近代家父長制家族も、および近代家父長制的マインドも、衰退は誰の目にも明らかだ。そして、それに代わるものがはっきりしない今、家族は存続の理由が曖昧になりつつある。今後家族制度はどうなっていくのか、どうなっていくべきなのか。様々な意見が交錯するものの、納得のいく回答を得ることが極めて困難な難題といえる。



『ホモマゾ社会』と『立場主義社会』


前回のエントリーを書いた後、古い友人が大変興味深い記事を紹介してくれた。
結婚という「制度」は本当に必要ですか? 女性装の東大教授が見つけた「新しい家族」のカタチ(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)


このURLをたどって出てきた写真にびっくりしてしまうかもしれないが、この女性装の中年男性は、れっきとした東京大学の教授である。しかも気鋭の経済学者として高い評価を受けているという。(この人の著作を私自身以前自分のブログで紹介したこともある。)この驚くべき東大教授、安冨歩氏のご両親は、どうやら戦後の教育パパ・ママの走りともいうべき夫婦で、厳しいエリート教育を子どもに課していたようだ。その結果、安冨氏は見事京都大学に合格し、一旦住友銀行に就職した後に退職して京都大学の修士課程に戻るという回り道はあったものの、最終的には東京大学の教授にまで上り詰める。親の期待通りの華々しいエリートといえる。ところが、両親から受けた心の重圧により、大人になっても始終自殺衝動がわき起こり、持病の頭痛に悩み続けたのだという。


安冨氏は、戦争は終わっても、日本人の戦時中の気質は受け継がれ、戦後社会は、軍隊流の『ホモマゾ社会』が残ると同時に、自分の立場を守るために命をかけよという強いプレッシャーを国民に強いる『立場主義社会』となり、日本の男性は抑圧され苦しみ続けることになったという。



 安冨氏のイメージする家族


安冨氏は、家族についても言及している。

「日本の“家”制度なんて、とっくの昔に崩壊しているんだよ。明治維新で構築した徴兵制がその最大の原因。家単位の動員を否定して、個人単位にしてしまったから。さらに、高度経済成長で家制度は息の根を止められた。それなのに、実際はとっくに機能しなくなってるシステムを、みんなで理想化し、守ろうと躍起になっているでしょ。できないことをやろうとするから混乱する。ここから生じる関係性のひずみが、虐待や引きこもり、果ては家族同士で殺し合うような事態にまで帰結する」


「今の日本人の考える家族像って、単なる幻想。半世紀前に崩壊した『家』という括りを異様に重んじて、囚われて、苦しんでる。ただの“腐れ縁”なのに“家族だから”って言われると、罪悪感にとらわれてしまい、抜け出せない。だから不幸になる」

結婚という「制度」は本当に必要ですか? 女性装の東大教授が見つけた「新しい家族」のカタチ(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)


私自身にもう少し馴染みのある言い方(というより、私なりの解釈)をすると、第二次世界大戦後、旧来の家族制度は解体され、そのメンバーを高度経済成長に必要な工場労働者として提供し、会社が家族に代わる擬似コミュニティとなり、『立場主義』は社会システムとして定着するが、世界経済の構造変化とともにそれも維持できなくなった。しかしながら、人が生きるためには何らかのコミュニティが必要であり、それを年長世代は旧来の『家』に求め、幻影を追い求めているが、それはもはや倒錯的で、無理強いをすると皆を不幸にするだけ、ということだろう。


では、もう家族は作らないほうがいいのかといえば、安冨氏はそうではないという。

「それは無理だよ。だって、サルは群れを作るでしょ。人間も家族を必要とするサル。一人では生きられないから、パートナーは必要。でも、それは別に“結婚”という形を取らなくたっていい。男男でもいいし、女女でもいい。もっと言えば、男女男でも女男女でもいい。一緒に住む必要もないし、別にセックスする相手じゃなくたっていいはず。仲良くして、信頼し合って、力を合わせられたら、誰でもいい。そもそもなんでセックスする相手とだけ、家族を形成する必要があるの?」
結婚という「制度」は本当に必要ですか? 女性装の東大教授が見つけた「新しい家族」のカタチ(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(2/6)


『仲良くして、信頼しあって、力をあわせられたら、誰でもいい』ということになると、『家族』という用語にこだわる必要もないともいえる。新しい家族、というか旧来の家族に代わる何らかの親密な(新しい形の)コミュニティを模索すべきという含意があるように読める。これはすでに、特に若年層を中心に実験的とはいえ始まっているともいえる。昨今非常に話題になった『シェアハウス』での男女の共同生活などその一例といえるだろう。現在の婚姻関係と血縁関係を絶対視する家族制度にこだわる必要はないし、こだわることで現実との乖離が生じて人を不幸にする、という安冨氏の主張は今ではそれほど珍しい意見とは言えない。



 家族の消滅点


著書『ついていく父親*2で評論家の芹沢俊介氏は、かつての日本の女性にとっては、子供を産むことは、非意思的な行為であり、すべて『自分』の外に動機が置かれていたが、現在の若年女性には、『自分』が出現していて、彼女たちにとって、出産も子育ても、『自分』との関係を無視しては考えられない、意思的な行為になってきていると述べる。そして、そこには家族の消滅点が見えるという。

『自分』という動機の出現が、家族のエロスを未知の地平へと引っ張っていく。こうした動きのなかから個別ー同居型家族が誕生し、さらに『自分』を突き詰めることによって同居という家族形態の核をも分解し、個別ー別居型の家族意識へと展開していく。この『自分』という動機が指す先に家族の消滅点が見える。

いま家族の消滅点の手前で、なお新しい家族へと脱皮するための端緒をつかもうとして、あるいは脱皮の端緒をつかみかねて、もがき苦しんでいる、これが現状ではないか。

『ついていく父親』より


現状の家族の評価、および今後の展望については、『暗中模索』としか言いようがないと私も思う。その中から、せめて何らかの指針につながる端緒をつかもうとして、まさに皆、もがき苦しんでいる。



 サル化する人間社会と人間の根源的アイデンティティ


安冨氏の『サル』発言に促されて、意外な研究領域からの興味深い論考を思い出した。京都大学の総長を務める、霊長類学者でゴリラ研究の第一人者である、山極寿一氏の著作を幾つか参照すると、家族の問題を考えるにあたって、重要なのに案外見過ごされがちな観点があることがわかってくる。少なくとも家族の問題を解くための『端緒』の一つに(しかも重要な一つ)になるのではないかと思えてくる。


山極氏自身、人間社会はサル社会になり始めているのではないかと語る。家族が崩壊してしまったら、人間社会はサル社会にそっくりな形にかわるし、その変化はすでに始まっているという。そのサルが求める価値は『なるべく栄養価の高いものを食べること』と『安全であること』だけで、サル社会はそのために出来上がった効率的かつ絶対的な秩序であり、サルが集まっているのはそのほうが得だからにすぎず、集団に対する愛着はない。子殺しを含めて、仲間同士の殺し合いも少なくない。かなり殺伐とした社会だ。では、人間社会はサル社会と比較するとどこに特徴があるのか。


山極氏によれば、人間は『家族』(身内をいちばんに考えるいこひいきの集団)と『共同体』(平等あるいは互酬性が基本)の二つの集団に所属して暮らしていて、これは本来非常に複雑で不思議な現象なのだという。霊長類を含めて他の動物は人間のようなことはできない。その結果、サルと違って人間は自分の家族やコミュニティを愛し、縛られて生きてくものであり、それが人間のひとつの根源的なアイデンティティだという。


サルに比べて人間には高い共感能力があり、さらに共感力を高めて作り出したシンパシー(同情)という心理状態を持つが、これは他の霊長類には希薄で人間に特殊な情緒だと述べる。そして、その大元は『家族』だ。

同情心とは、相手の気持ちになり痛みを分かち合う心です。この心がなければ、人間社会は作れません。共感以上の同情という感情を手に入れた人間は、次第に『向社会的行動』を起こすようになります。向社会的行動とは、「相手のために何かをしてあげたい」「他人のために役立つことをしたい」という思いに基づく行動です。人類が食べ物を選び、道具の作り方を仲間に伝えたのも、火をおこして調理を工夫したのも、子どもたちに教育を施し始めたのも、すべて向社会的行動だろうと私は思います。

 『「サル化」する人間社会』*3より


そして、人間の持っている普遍的な社会性というのは、(1)見返りのない奉仕をすること (2)互酬性(何かをしてもらったら必ずお返しする) (3)帰属意識 であると述べる。


だから、人間がサル化するということは、逆に言えば上記のような人間的な社会性、向社会的行動を失うことを意味する。自分の利益のためだけに集団をつくるから効率的で自由になるが、協力も、共感も、分かち合いも、思いやりも、他人と気持ちを通じ合わせることもなくなる。


誰が見ても、これは人間社会の進化ではなく、退化というべきだろう。従って、山極氏の論考の文脈で言えば、『家族』崩壊は人間の退化につながるということになる。但し、山極氏のいう意味での『家族』の定義は通常の定義と違うのではないか、と指摘する人もあろう。



 無私・無償の愛を子供に提供できる社会


山極氏のいう『家族』は、『身内をいちばんに考えるえこひいきの集団』という定義だったが、もう少し私の解釈を付け足すと、利害関係のために身内をいちばんに考えるのではなく、エロス(異性に対する、性愛としての愛。愛欲。)、親子の情等、利害を超えた感情による繋がりが想定されているように思える。言い方を変えれば『家族のメンバーであれば、無限定で無制限に無償無私で愛する』ことがあたりまえになっているような『家族』だ。


そのような理想的な家族は古今にもそれほど例はないと言われるかもしれないが、この点でバランスを崩して、高度成長期によく見られたような、建前で教導する父親、愛で支配する母親のいる家には、子どもの居場所がなくなり、登校拒否、家庭内暴力、引きこもりが起きるようになり、極端な例でいえば、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗のような怪物を生むことになると、『ついていく父親』で芹沢氏は語る。


山極氏と芹沢氏は違った材料を使って、同主旨のことを述べているように私には思える。あまりに単純化すると誤解を招きかねないが、要は情愛、無限定の愛情等を幼い子供に提供できるようなシステム(=家族)がなければ、社会も崩壊してしまうということだろう。これは山極氏のお話ではないが、サルでも授乳を通しての『肌の触れ合い』等、母親の愛(慈しみ)によって育てられなかったサルは、情愛のない非常なサルに成長していくという。


私はこの方面の専門家ではないので、間違ったことをいっているかもしれないが、人間社会における『家族』というのは、地域や時代によってかなりのバリエーションはあるとはいえ、原則異性間のエロスと親子の情愛によって繋がって出来ていて、これには何千年もの歴史がある。今は、解体と結合の様々な実験的な取り組みが行われているが、結局ある程度の枠組みの中におさまっていくのではないかと思えてならない。


もちろん、家父長制度におけるような家族に戻ることはないだろうし、戻る必要もない。家族をつくらないという意思も尊重されるべきだとも思う。さらには、LGBTのような同性家族の存在も否定するつもりはない。だが、やはり最終的には、男女が性で結びつき子供に無償の愛情を与える場としての家族が中心にあることで社会は安定すると考えざるをえないのではないか。そして、究極的にはこの無私無償の愛情で社会全体が満たされるような社会を作ることが、人類の進化であり目的と考えるべきではないだろうか。
やや歯切れの悪い結論かもしれないが、これを持って前回残した宿題の回答としておきたい。