SMAPスキャンダルが呼び出した日本社会に潜む『怪物』への対処


身につまされたSMAPの謝罪


年明け早々、世を大いに騒がした、アイドルグループSMAPの解散/所属事務所からの独立スキャンダルは、1月18日に『SMAPSMAP』緊急生放送で、5人がケジメの謝罪を強いられ、それを条件に元の鞘に納まる形で決着した。日本中が固唾を飲んで見守っている感じだったから、決着したらしたで、怒涛のような反響がネットやメディアに押し寄せて来て、あっという間にその分析も出揃った感がある。


日本中誰もが、単なる興味本位の関心という以上に、憔悴しきったメンバーの姿に身につまされる思いで、自らの身に置き換えて見守っていたのではないか。(少なくとも私はそうだった。)ジャーナリストの津田大介氏が1月28日付の朝日新聞デジタル版の記事で述べているように、今回の件は、今の日本が抱える様々な社会的閉塞を象徴する出来事であって、企業のサラリーマンに限らず、およそ日本の組織に所属する者であれば誰であれ、多かれ少なかれ同じような場面に出くわした経験があるはずだ。



現れた『怪物』


しかも、まがりなりにも日本のトップアイドルグループで、人気もあるのだから、彼らなら強制をしいる組織の論理にも負けずに、見ている側の溜飲を下げるような、開き直った行動力を見せてくれるのではないかとの期待も少なからずあったと考えられる。だが、結局彼らは日本の社会(組織)が一様に持つ同調圧力/強制力に屈服させられた。その結果、謝罪会見の視聴者は溜飲を下げるどころか、鉛を飲み込んだような重ぐるしい気持ちにさせられただけだった。


今回のような日本社会の裏面がむき出しになる事件は、昨今ものすごく多い。最近で言えば、東芝の不正会計をきっかけにわかってきた東芝の社内の様子などまさにそうだし、昨年の安保法案成立の過程における自民党内の組織の締め付けなども同様だろう。しばらく前の例で言えば、懲役刑を食らったホリエモン堀江貴文氏)のケースなど、今回のSMAPの件と同様、あるいはそれ以上に典型的な日本社会の深層にある、『暗黙のルールを破った者に対する制裁』の事例であり、その『怪物』は、気の毒な犠牲者を見つけては世にそのグロテスクな姿を現わし続けている。



『怪物』も晒すべき


さらに言えば、この『怪物』が住まうのは、組織の上層部と下層、あるいは権力者と被権力者との軋轢の中に限らない。同一階層にいる者どうしでも、その組織の暗黙のルールに反した場合は、いじめにあったり、村八分にあったりと、日本的な吊るし上げ/リンチによって制裁を受けることになる。だから、SMAPの会見に不快な思いをした人がいる一方で、負けて地に落ちて晒し者になったSMAPを見て溜飲を下げ、快哉を叫ぶ輩も大量にいたはずだ。


リンチは決して日本社会だけの問題ではなく、違う国の別の社会には違うタイプのリンチがあることを意識するだけの冷静さとクールな思考は失うべきではないと思うが、同じ冷静さを持って、いかにやるせない気持ちがになろうが、目を背けたくなろうが、ここは日本社会の隠に潜む『怪物』の姿を徹底的に解明し、晒していくことが、せめて今できることで、同時に社会を良い方向に動かしていくためにどうしても必要なことに思える。その努力は短期的には成果を見ずに終わる可能性も高いが、しつこくこれを繰り返しているうちに、『怪物』からエネルギーが抜けて、幽霊が枯れすすきと化すターニングポイントは必ず来ると考える。



家父長制家族/意識の衰退


例えば、この『怪物』の表出の一形式であり、またそれを正当化し温存する温床となっていたと考えられるものの一つに、日本の家父長的家族意識(あるいは家父長的メンタリティ)があり、現政権の権力者(安倍首相)が繰り返して言及することもあり、また、近年若年僧の右傾化が取りざたされることも多いため、この家父長的メンタリティが復活してきていると語る向きもあるが、実のところ、これは1970年代以降一貫して弱まってきていることは統計からも明らかだ。


ちょうど、雑誌『現代思想』の2016年1月臨時増刊号*1が手元にある。これに社会学者の見田宗介氏の特集が組まれていて、近代家父長制家族の解体についても語られている。これはNHK放送文化研究所によって、1973年以降5年ごとに2008年に至るまで行われてきた『日本人の意識』調査データの丹念な分析に基づいた研究成果であり、その35年間の意識の推移に見出される最も大きな変化は、近代家父長制家族(人間の生の全領域の生産主義的な手段化、という仕方での合理主義)の解体であったという。日本の場合、戦争中もそうだが、戦後で言えば『高度成長期』の社会はまさに生の全域の生産主義的な手段化=合理化が貫徹され、それを支える思想/メンタリティが非常に強固に個人の自由を抑圧していた。だが、これは急速に解体され、近代的な意識の型は、脱近代的な意識の型へと移行した。



コンサマトリー


見田氏の分析によれば、戦後の日本人は、生産のために自己も家族も合理的であることを強いて、個の欲望や自由を抑圧し、人生の現在ではなく、将来の生産の向上にすべてを捧げていたのが、人生の現在を享受し、合理的であることがすべてとしていた意識を、合理的であることを重視しながらも、合理のかなたにあることにも意識を広げていくような生き方に変わってきた、という。これは、アメリカの社会学タルコット・パーソンズの造語、コンサマトリー化(道具やシステムが本来の目的から解放され、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的(ときに刹那的)にその自由を享受する姿勢もしくはそれを積極的に促す状況)とほぼ相通じる現象の解釈と言える。


かつては結婚も出産も『制度』であり、それから逃れることは原則できなかったのが、今では両方とも選択の問題になった。昨今では、これは少子化の根本原因としてネガティブに語られることも少なくないのだが、日本の家父長制が『女性』や『子供』という『弱者』の抑圧を前提として成立していたことを勘案すれば、社会の成熟の証としてポジティブに解釈することもできる。しかも、『幸福度調査』のようなものが行われると決まってこの『コンサマトリー化』し、それを受け入れている国や社会のほうが幸福度が高いとの結果が出ることから、日本の『コンサマトリー化』をポジティブに評価した上で新しい家族像や社会像を再構築するべき、という意見は昨今非常に強くなってきている。このごとく、日本人の意識は劇的に変わって来ているし、それは概ねポジティブに評価されている(と思う)。



法的な取り組み


日本社会、特に企業に潜む『怪物』への対処、という点では、近年、法的な整備と取り締まりの強化という形で取り組まれてきた。これについては、独占禁止法の強化、セクハラやパワハラ問題としての取り組み、優越的地位の濫用の抑止等、幾つも例をあげることができるし、ある程度の成果を上げてきているのも確かだ。日本が法化社会になってしまったがゆえの副作用はそれなりに深刻ではあるが、一方で雇用者の権利や地位の向上が実現されてきている面まで完全に否定してしまうのは不公平と言わざるをえない。



夜明け前が一番暗い


残念ながら、SMAPビートルズではなく、ホリエモンスティーブ・ジョブズではなかった。旧来の組織を圧倒して解体してしまうほどの強い『個』にはなりきれなかった。東芝の経営者を刑事告訴できるかどうかはわからないし、犯罪の温床となった組織が解体されるところまではいかないかもしれない。だが、すべてが良い方向かどうかは別として、社会の意識は確実にシフトしてきている。確かに今の世相はとても暗い。もうだめだ、と言ってしまいたくなる。だが、夜明け前が一番暗いということもある。今が踏ん張りどころ、と覚悟を決めてあえて前に進むべきだと思う。少なくとも今自分にはそう言い聞かせている。