佐々木俊尚氏の『21世紀の自由論』を読んで政治について考えてみる

混乱の極みの政治


元々政治に疎く、ずっと長いこと政治に期待を感じられずにきた私だが、昨今の政治状況が一段と行き詰っていて、来るところまで来ていることくらいはわかる。最近では選挙があるたびに、投票したくなる候補とてなく、脱力感にさいなまされる。ただ、どうやら私一人感覚が歪んでいるということでもないようだ。誰に聞いても、判で押したように同じような感想が返ってくる。ここ数年は、疎いとばかりも言っていられないため、自分なりに日本だけではなく、国際政治についても多少は勉強してみたつもりだが、知れば知るほど混乱の極みにあることがわかってくる。自分なりの政治思想というか、政治スタンスを確立しようと試みるのだが、確立どころか、一層深い霧の中に迷い込んで行く気がする。



頭を整理できるガイドブック


今私と同じように感じている人は、ジャーナリストの佐々木俊尚の新著、『21世紀の自由論「優しいリアリズム」の時代へ 』*1を読んでみることをお勧めする。世界的な政治の錯綜し、矛盾し、混乱している状況を理解するために、佐々木氏の苦闘の跡をトレースし、共に考えることができる。現状の日本のリベラルとされる政治家を名指しで切って捨て、日本の政治史を概観し、さらには欧米の政治史から政治思想史まで分析が及ぶ。私には中立的に読めるが、中には佐々木氏の政治的な立ち位置に素直には賛同できない人もいるかもしれない。だが、少なくとも、政治について考えておくにあたって、不可欠な問題点や論点をカバーし、非常にコンパクトにまとめてあるので、賛意を感じる人にも反発を感じる人にも、参考にできるガイドブックになっていると思う。


この本によって、絶対的な解決策や安心立命が得られるというわけにはいかないかもしれないが、少なくとも、自分の思考のどこが矛盾していて、どこに問題があるかを見つけるための参考図書にはなるはずだ。そして、それが何より重要な出発点だ。自分の思考が混乱し、しかもその混乱に自分で気づいていなければ、今後、何を読んでも何を聞いても、霧は深くなるだけだからだ。



選択肢がない


戦後、日本が順調に成長・発展していた時分には、右から左まで幅広い派閥を内包し、現実的な政治運営に徹する政権政党としての自民党と、政権担当能力はないが、自民党があまりに極端に傾いた時のバランサー/反対勢力の役割に特化した野党(社会党共産党等)という図式にさほど問題はなかった。だが、冷戦構造の崩壊など、世界の情勢がその頃とはすっかり変わってしまった現実に対応できず、まず自民党が国民の信頼を失い、『反対勢力』を寄せ集めたような民主党が政権を取ることになる。ところが、そんな民主党には政権担当能力がまったくないことを曝け出した上に、東日本大震災やそれに続く福島第一原発の事故という未曾有の災害の勃発という不幸も重なり、あっけなく崩壊してしまう。敵失で政権が転がり込んだ形の自民党は、『反対勢力』よりは政治の実務に慣れているという一点で返り咲いたはずだったが、国民の『反対勢力』に対する失望感の大きさも手伝って、気がつくと大勢力になった。


だが、佐々木氏が指摘するように、米国追従で米国流のグローバリズムを受け入れる態度をとりながら、一方で、グローバリズムが進めば、最も影響を受けて解体を余儀なくされるはずの保守勢力(農村等)や明治期を思わせるような家父長制を前提とした『家族』制度の護持を主張するような矛盾を抱えたままだ。海外に範を取るべく、政治思想や政治家、政党を参照してみても、参考にはなっても、そのままで日本の現実に当てはめることができるものなど存在しない。



グローバル化はせざるをえないが・・


それでも、経済のグローバル化は、各国のルールの違いによる障壁を無くして、共通の市場で競争を促すことで効率を最大限良くして、世界全体の富を(分配は別として)最大化しようという試みであり、今や世界中の経済が緊密に連携しあっている現実を勘案すれば、そこから離脱して孤立することは、立ち枯れて死滅することと同義と言わざるを得ない。ここには最低限のコンセンサスは成り立つはずだった。


ところが、このグローバル化についても、旧来の考え方のままでは立ち行かなくなってきている。、GoogleApple、アマゾン等の『主要IT企業』が典型例だが、彼らのビジネスがいくら成功しても、中国等の第三国の雇用は増えても本国の米国の雇用はあまり増えない。しかも、今猛烈な勢いでロボットや人工知能が開発されていて、今後中国等での仕事(雇用)も、今ある米国等の本国の仕事(雇用)も縮小していくことは確実だ。加えてグローバルに展開しているこのタイプの企業は、税金が最も安い国に本社機能を置いて税金をセーブしようとする傾向がある。全体の富は拡大しても、所得の格差が広がるだけではなく、国民国家の衰亡を招く恐れがある。さらには、今後、成功する企業はどんどん『主要IT企業的』になっていくだろうから、国民国家の持つ分配、弱者扶助機能が失われ、生活様式、慣習、文化等、経済効率を妨げる要素はどんどん削られ、画一化を迫られるようになる恐れもある。当然、各国に根付くコミュニティも崩壊の憂き目を見ることになるだろう。日本でもそうなりつつある。グローバル化国民国家が共存するためには、何よりバランスが大事なのだが、どのレベルでバランスさせるのがいいのか合意を得ることは非常に難しい。今後どんどんエスカレートしていくであろうこの困難な状態を快刀乱麻で解決に導く『政治』や『政治思想』は、今のところ世界のどこにも見つからない。



究極の二択


これまでの日本は、経済的には豊かだが、企業や地域共同体等の束縛が強くて抑圧的であり、実際に満足度調査等で国際比較を見ても、日本社会にいることに満足を感じられない人の比率が異常なほど高かった。ところが、その抑圧的な共同体(会社共同体等)の解体は進行中で、自由度は上がっているものの、今度は経済の方が弱体化し、格差は広がり、貧しさもどんどん広がってしまっている。このように述べてくると、佐々木氏の新著の冒頭における問いかけがいかに深刻で、本質的なのかわかってくる。

「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選択するか。


今までの政治や経済がどうあれ、この問いには一人一人が自分で回答を用意せざるをえない。だが、今の日本人にとってこの問いの意味は以前よりもっとずっと重くなってきている。今の会社にしがみついて生存を保証してもらおうとしても、その会社自体、海外企業との競争に負けてしまいそうだ。では、生存は保証されていないとしても、思い切って自由競争に身を委ねて起業しても、失敗する確率は極めて高い。まさに袋小路だ。



佐々木氏の回答について


では、佐々木氏の回答はどうなっているのか。非常に端折って言えば、政治も経済も空疎で非現実的ななイデオロギーや古い慣習に固執するのではなく、今ここで起きている現実に向き合い、私たちの生存を維持するための『優しいリアリズム』を追求し、中間領域の人たちを新たな政治・文化勢力としていくべき、という点が一つ。そして、今後のグローバル化が旧来のように国民全体を自動的に潤すようなわけにはいかないとしても、現実として受け入れていかざるをえないことを前提とすれば、一方で領域的な国民国家は衰退せざるをえず、旧来の中間共同体である企業共同体や地域共同体も衰退を余儀なくされるから、情報通信テクノロジーに新たなネットワーク共同体を構築していくべき、という点がもう一つ。いずれも、落とし所としては現実的で、日頃の佐々木氏のメルマガ等言動の延長でもあり、基本的に、私には違和感はない。


ただ、今の政治の現実は、『優しいリアリズム』が必要であることは合理的に考えればまったく異論はないはずなのに、何故かどんどん『空想的』で『感情的』で、『非合理』な方向に流れていく。いわゆる熟議が機能しなくなっている今の流れをどうすれば変えることができるのか。正しさが明らかになっても、正しいと主張しても、正しくならないこの現実をどう扱えばいいのかという、大きな課題は残るように思う。また、情報通信テクノロジーによる共同体の構築のほうも、『SNS疲れ』等の一筋縄ではいかない現実に具体的にどのように対処していけばいいのか、課題は山積みだ。『わかっていても変われない』それが今の日本の一番困ったジレンマだ。


だが、一方で、日本人は過去何度も驚くほどの柔軟性を見せ、ドラスティックに変身してきた実績がある。他の文明圏では非常に強力に変化を拒む要素になりうる『宗教』の影響はほとんどなく、中国文明圏に見られるような『血』の制約も希薄だ(血縁ではない養子縁組による『家』の存続は昔から行われてきた)。環境がそれを強いれば、孤独に耐えることも、黙々と働くことも厭わなかった。それどころか、極端な社会の変動があるほうが、日本人の潜在力は引き出されてきたとさえ言える。向かうべきゴールを明確に設定すれば、新たな環境に併せて柔軟かつ素早く自らを変えていくのが日本人の特質とも言えるはずだ。加えて、『情報通信テクノロジーによる共同体』の現状の問題点を補完する『テクノロジー』が今また極端なほど進化しつつある。行き詰まって見える状況も、工夫次第で乗り越えていける余地は十分にある。


国民国家のありかた、産業構造、ライフスタイルや文化等、根本的な変革を迫る状況が今まさに日本を飲み込もうとしている。いざという時の日本人のしぶとさを信頼しつつ、新しい社会、新しい文明をつくるために何をするべきなのか、この機会によく考えてみたいものだ。