『激変の時代』にも読んでもらえる記事を書き続けるために

誰もが話題にし始めた人工知能


昨年来、人工知能のことを何度か取り上げて書いて来たが、この一年間で書籍も、雑誌やネット記事も爆発的に増えた。NHK等テレビでも度々取り上げるようになった。日本だけではない。海外でもこのトピックを目にしない日はないくらいになった。人工知能を扱った非常に印象的で優れた映画も出て来た(「トランセンデンス」*1「her 世界でひとつの彼女」*2 )し、名前を聞けば誰でも知っているような著名人(スティーヴン・ホーキングビル・ゲイツイーロン・マスク等)が、人工知能の進化によって人類に深刻な危害が及びかねないというような発言を公にして、物議をかもすようなこともあった。


新しい情報が次々に出て来て、しかもその度に驚くべき技術的な進展が読み取れたりするので、現状認識も、近未来の予測も、何かを書く端から陳腐化してしまう。比較的早い段階からこの話題を取り上げてきた先見の明をこっそりと自画自賛したい気持ちもないわけではないのだが、少し前に自分で書いた記事を自分で読むと思わず赤面してしまうことも少なくない。ものすごいスピードで古くなっていく。とてもではないが、人様に自分の書いた過去の記事を紹介などできたものではない。何とも因果なテーマだと思う。



3ヶ月限定出版!


その点、最近、ITジャーナリストの湯川鶴章氏が人工知能に関わる本を出版したのだが(「人工知能、ロボット、人の心」*3 )、何と3ヶ月限定出版だという。これには私も思わず膝を打ちそうになったが、この種の情報が新しくて旬な情報であればあるだけ、3ヶ月ほども過ぎれば陳腐化せざるを得ないことを湯川氏がちゃんと知っているということだ。3ヶ月経った後にこの本を読まれて恥ずかしい思いをするくらいなら、閉じてしまったほうが、自分のイメージやブランドを守れると湯川氏か湯川氏の周辺の誰かが考えたのだろうが、これは確かに理にかなっている。


かといって、自分でこれを真似るのも少々ハードルが高そうだ。何とか、多少古くなっても、それなりに長く読んでいただけるような記事を書いていくことはできないものか。もちろんこれは当代の第一級の書き手にして、悩んでしまうような難題だから、たかが一ブロガーの私が深刻ぶってみせるのは百年早いとか言われそうだ。



変化の時代にあって


だが、考えてみれば、今の時代、ビジネスも、社会や経済に視野を広げても、テクノロジーの急速な進化やそれに伴う社会の変化等、『急速な変化が引き起こす問題』に正面から取り組まずして、何であれ、人が読むに足る文章を書いたり、聞くに足る何かを喋ったりすることは難しいというべきだろう。人が気づかない変化の予兆にいち早く気づいて、その意味を理解し、変化の中に変化しない『不変』を探りあてる、そんな語り口を確立できるよう精進していきたいものだ。


要は、このブログのサブタイトルである、『情報空間を羽のように舞い本質を見る』という実践が本当に必要で、その成否がシビアーに問われるようになって来ているということだろう。私のブログも次の4月で8年目になる。我ながらよくぞ続いて来たものだと思うが、今後も続けていくためには、このあたりの自覚をしっかり持って、レベルを上げていかないと、他の記事に埋もれて誰にも読まれなくなってしまいかねない。



イメージの貧困


例えば、人工知能の主要な話題の中に、『人工知能は人間の仕事を奪うのか?』というのがある。人工知能の再活性に大きな貢献をした、いわゆる『Deep Learning』によって開かれた道の延長には、人工知能の無限の進化が約束されているように見える。画像認識等、人間には簡単にできるのに人工知能が苦手だった領域でも、人工知能が学習しながらどんどん追いついて来る。要は人工知能の能力がどんどん人間に近づき、その結果人間が今やっている仕事で人工知能がやれる範囲がどんどん広がっていき、行き場を失った人間が大量に失業する時代が来ると主張する人が増えている。その一方、まだ人工知能に出来ない事がすごく沢山あることを知る前線の研究者等の中には、人間ではないとできないことは多く、大量失業など、煽り過ぎと切って捨てる人も少なくない。また、前の産業革命の時にも同様の議論はあったが、そして、確かに人間の労働の一部を機械が代替したが、経済規模が大きくなり人間のすべき仕事も増えて、結局杞憂に終ったことを指摘し、今回もそうなるとの楽観論も根強い。


だが、喧々諤々議論が盛り上がっているわりには、視野が狭過ぎると感じてしまうことも少なくない。本質とは言わないまでも、もう少し『メタ』なレベルに問題をおろして考え直してみる必要があるはずだ。



巨大な類的存在


人工知能と同様、場合によっては当面それ以上にインパクトが大きいとされる技術にモノのインターネット、いわゆるIoT(Internet of Things)があるが、こちらのコンセプトも昨今非常に壮大なものになりつつある。テクノロジーの様々なイノベーションが融合して経済性も見合うようになり、単に接続を可能にするだけではなく、製品/モノ自体をスマートに、いわばPCのレベル、さらにはそれ自体が機械学習を繰り返して自分自身を最プログラミングするような自律性を備えるようになることが見込まれている。こうなると、すべてのモノがいわば人工知能を備えたロボットのようなものになり、そのロボットには神経がつながっていて、その神経を介して相互に繋がり合う。『個』としての人間になるどころか、『巨大な群としての存在』となり、素晴らしい新薬を発見し、宇宙の謎を解明し、日々人間のDNAを解析して癌を発生と同時に知らせてくれるようになる


そのような、仕事を行う/イノベーションを開拓する能力において、人間の能力を遥かに超えるパーフォーマンスを発揮する『存在』になることが見込まれる(人間そのものになるわけではない)。そして、競争力ある付加価値はそのような『存在』が生むということになれば、資本はその『存在』に集中的に投下されるようになり、市場では人間と人間ではなく、『存在』と『存在』、機械と機械が競争するようになるはずだ。知能労働において人間が競争から急速においていかれるようになるイメージだ。それは、単に『コンピュータが人間の知能労働ができるレベルに追いつく』といったような話とは隔絶しているし、このような前提に立てば、見えて来る地平も全く違って来るはずだ。
(ちなみに、私は、近未来の日本は『ベーシック・インカム』のような制度を真剣に検討しておくべき、と考えるようになった。)


少しでも議論の質を深めるようなフレームワークを提示し、表面的な議論ではなく、本質的な議論に巻き込む、そんなきっかけとなるような記事を書いていきたいものだ。



本質を探り続ける覚悟


もちろん、こんな語りも、明日にはもう古くなっているかもしれない。だが、その時点で最大限の『本質』を探る努力を重ねれば、少なくともビジネスでの競争をリードできる情報源にはなるはずだし、未来社会のインフラづくりや制度改革に関わるイメージも先んじて持っておくことができるようになるはずと信じる。8年目のブログ『風観羽』もよろしくお願いしたい。