読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

テクノロジーの進化が問う/人間とは何を意味するのか


先週の記事の意図


先週は、2015年以降、どんな職種であれ、ビジネスの現場にいるビジネスパーソンにはテクノロジーの進化の影響が怒濤のように降りかかって来るようになるので、これと正面から向き合って自分の立ち位置を据え直すことは不可避であるという主張と、今後のテクノロジーの進化のイメージについて意見を述べた。
テクノロジー・ドリブン(技術駆動型)の世界に備えるべき2015年 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


これに対して、事前の予想以上に様々なご意見を頂戴することになった。もっともな意見も沢山あったのだが、中には、主旨を勘違いしているとしか思えない意見もあった。特に、『テクノロジーを礼賛するやつの気がしれない』という類いの反応には非常に驚いたし、心外だ。


テクノロジーには光もあれば影もある。だが、影があるとわかっていても、テクノロジーが拡散する局面では巨大な流れが押し寄せて、個人や一企業の抵抗ではいかんともし難いことも少なくない。強い『光』の部分が人々の心をとらえ、濁流のように普及し始めると、個人であれば一人背を向けることもできようが、市場競争の只中にあっては、背を向けてばかりでは競争に勝ち抜くことができなくなる。もちろん、社会に害をまき散らすようなことは厳に慎むべきだが、『共生』を前提に最適解、最適利用を模索することは避けようがない。そういう意味で、これからのビジネスパーソンの覚悟について語ったつもりであった。



テクノロジーの社会的本質


いずれにしても、今、起きつつあるのは『革命』だ。生半可な小善やモラル、ノスタルジーの類いは簡単に消し飛んでしまうだろう。余程覚悟を決めてかからないと、大混乱に押し流されてしまう。確かに、私はテクノロジーの進化の明るい面を比較的信じているほうだとは思うが、それでも、これからは特に、倫理や哲学、思想の根本まで見直す努力なくしては、テクノロジーがバランスよく社会にフィットすることは難しいと一方では考えている。


そういう意味では、前回もとりあげた、現グーグル社所属、AIの世界的権威である、レイ・カーツワイルのような、素朴な技術楽観論には同調する気にはなれない。しかしながら、単に問題から目を背けるだけでは、問題は解決しないどころか、『マッド・サイエンティスト』が跋扈する世を側面から支援する結果になりかねない。つまり、多少なりとも社会の行く末に責任を感じるのなら、『テクノロジーの社会的本質』という、非常に困難な問題に正面から向き合う以外には道はないと考える。



テクノロジーと人間との関係


その点、昨年末に翻訳書が出た、著述家のニコラス・G・カーの『オートメーション・バカ』*1はこの問題を考え始めるにあたって参考になる良書だと思う。一つ一つの指摘は、それほど目新しいわけではなく、これまで異口同音に語られて来たことの総集編とでも言うべき内容なのだが、テクノロジーと人間(人間社会)との関係が如何に様々な問題をはらんでいるか再認識させてくれるし、今後突出する可能性の高い技術の一つ一つを想定しながら読むと、どのような摩擦や問題点が表面化するのか、具体的なイメージを持つための助けになる


例えば、昨今盛んに話題になる自動運転車についても、先んじて自動操縦ががかなり高いレベルで実現した航空機での事例から説き起こしており非常に興味深い。今ではパイロット(人間)が操縦桿を握るのは、離陸と着陸のほんのわずかな時間だけで、通常はほぼ完全な自動操縦が実現している。普段はパイロット(人間)は出番がない。ところが、あまりに『オートパイロット』が進んでしまうと、パイロット(人間)の側の能力は著しく劣化してしまうという。その結果、オートパイロットに不備が発生した際に機長が操縦を引き継いでも『考えられないような凡ミス』から事故を起こしてしまう。


Googleは昨年、運転席にハンドルさえついていない、完全自動運転車のプロトタイプを披露して、世界をあっと言わせたが*2、こうなると、航空機の操縦士の事例は極めて示唆的だ。自動車の運転手の能力の劣化とそれによる事故が懸念される。しかも、これは運転手だけに留まらず、医師、金融関係の専門家、証券トレーダー、弁護士/パラリーガル経営管理者等、コンピューターの能力が人間を上回ることが予測されている職業に従事する専門家に、軒並み同種の問題が起きることを示唆している



技術的合理性を逸脱する能力


私はこれまで、現場の技術者はじめ、それぞれの分野の仕事のプロ達と接する機会を比較的多く持つことができたと思っているが、その経験を通じて共通して言えることは、直観や美的感性、肌感覚等、狭義の『技術的合理性』の枠から逸脱した能力を発揮できることこそ、真のプロフェッショナルと凡庸な職業人とを厳然と分ける境界線になっている、ということだ。この境界を超えるコンピューターが出来て来ることは少なくとも現段階では考えにくい。如何に物としての脳や遺伝子を完璧にモニターできても、この境界をコンピューターが超えていくと判断すべき『合理的理由』にはならないと私には思える。一方で人間は、不完全な記憶力等、コンピューターには逆立ちしても敵わない弱点を持つのだから、『役割分担』という前提があれば、両者の最適な共存関係を見つけることはできるはずだし、それでこそ最大の効果が期待できるはずだ。お互いの能力を潰し合うのであれば、そもそもの設計に欠陥があると言うしかない。しかも、合理性を超えた能力を発揮することは、仕事に対する人間の深い満足感を引き出すための鍵の一つとなっているように思える。



最良の共生イメージ


ニコラス・G・カーは、フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポインティを引用しつつ、テクノロジーと人間の最良の共生のイメージの一つを提示している。


道具によって新たな能力の開発が可能となるたびに、世界はいままでと違うもっと興味深い場所、さらに多くの機会のある場となる。自然の可能性に、文化の可能性がつけ加わる。メルロ=ポンティは以下のように書いている。『時として、目指した意義に身体本来の手段では到達できないことがある。そのときわれわれは道具を作り出す必要があり、身体はみずからの周囲に文化的世界を投射する』。よく作られた、およびよく使われているツールの価値は、それがわれわれのために作り出したものだけではなく、それがわれわれの内に作り出したものにもある。最良の場合、テクノロジーは新しい土地を切り開く。われわれの感覚にとっていっそう理解しやすいと同時に、われわれの意図にいっそうかなう世界 ー もっと居心地のよい世界 ー を与えてくれる。
    
同掲書 P278


私は趣味でウインドサーフィンをやるのだが、ウインドサーフィンのボードやセールの改善を実現するテクノロジーなどまさにこれにあてはまる。動力を使えばもっとスピードを出すことは可能かもしれないが、そんなことよりずっと素晴らしい世界を切り開いてくれる。このような時に感じる直観は、直観だけでは終らさずに、思想として言語化していくことが必要なのだろう。



『人間』の意味するところ


思想と言えば、現在のGoogleを含むシリコンバレーの企業は、『カリフォルニアン・イデオロギー』と呼ばれる、ヒッピー文化にシリコン・ヴァレーの技術者達の文化が融合した一種の信仰にも似た思想の影響下にあると言われる。それを最良の形で体現していたのは、アップルのスティーブ・ジョブズだと思うが、先に言及した、AIの権威、レイ・カーツワイルにも(著書を読む限り)、この思想の影響が濃厚に感じられる。特にインターネットの浸透が始まって以来(1995年以来)ここまで、この思想と思想の体現者がシリコンバレーを通じて世界をリードして来たと言っても過言ではないと思うし、その思想の存在こそ、シリコンバレーを世界に比するところのない聖地へと押し上げたと私は確信しているが、どうやらそれもある種の過渡期を迎えているように思える。


ニコラス・G・カーが言うように、テクノロジーの進化によって、人間の存在の最も奥深い領域にまでオートメーションが達しようとしている今、『人間』とは何を意味するのかを自問することがあらためて問われている。これまでともすれば、『カリフォルニアン・イデオロギー』の持つ、楽観的な技術進歩容認主義、自由放任主義的な面ばかりが強調されてきたが、ヒッピー文化の持つ精神性、多数のアジア系等を含む混成集団に支えられたテクノロジーを通じた多文化共存の思想等をもっとも深めていくべき時が来ている。そして実際に、そのような再考の機運も高まるのではないか(楽観的すぎるだろうか)。いずれにしても、この変化の中にこそ、私達のような文化系の人種が取り組むべき仕事が沢山あるように思える。


2015年は『テクノロジー・ドリブン』の世界に備えるべきと前回は述べたが、その準備の重要な一部として、テクノロジーを介して見えてくる『人間』の意味するところを徹底的に追求して、テクノロジーとの共生を探求することが含まれることをあらためて強調しておきたい。