たぶん今日本で一番奥深いアイドル論/『アイドル国富論』

この人がアイドルを語る?!


『アイドル国富論*1というタイトルをふとネット記事で目にして、さほど気にならずに見送ろうとした時、著者に気づいて今度はものすごくビックリした。境真良氏! 私が知る境氏は、経済産業省の現役官僚にして、国際大学GLOCOMの客員研究員、以前には早稲田大学でも客員准教授だったこともあったはず。しかも、私が境氏のお話を何回か聞いたおりには、著作権やら、憲法やら、経済問題やら、とにかくお堅い話のオンパレードだったという印象しかない。どこをどうつなげば、アイドルの話がこの人から出てくるのか。しかも、あの難しい言葉で、お堅いことを理路整然と喋るこの人から、いったいどんなアイドルの話が語られるのか、正直、大変戸惑いながら本書を手にすることになった。



素晴らしいアイドル論、そして日本論


だが、実際に拝読すると、日本のアイドル史について非常にコンパクトに、かつわかりやすくまとまった良書なので、もう一度ビックリした。私もこの数年、日本のアイドルに関する類書は結構読んでいて、耳年増ならぬ、頭でっかちにはなっていたつもりだったが、本書を読んで認識を新たにしたことも多く、この半世紀のアイドル史の全体像やアイドル爛熟の現代の意味等、非常にすっきりと理解できた気がする。あらためて境氏の経歴を見ると、『専門分野はIT、コンテンツ、アイドル等に関する産業と制度』とある。どうやら、私が境氏の本当の姿を知らなかっただけだったようだ。


ただ、やはりこれはただの博覧強記のアイドルおたくが書いた本ではない。戦後の日本の経済状況と、それに対応する日本人のマインドや性向の変遷と、アイドルの盛衰や変遷、変質との関連について斬新な仮説と共に説明してある。この半世紀の日本の経済史のほうも余程しっかりと理解できていなければ、こんな本を書く事はできないはずだ。アイドル史を読んでいたはずが、いつのまにか日本の産業論、そして、これからの日本のあり方に関する深い論考にひ引き込まれている自分に気づく。実に興味深い。



境氏の定義


境氏の定義によれば、日本のアイドルとは『総じて目の覚めるような美貌や声や演技力に恵まれない非実力派』であり、極論すれば、『庇護し、支配したい劣等な存在』として始まる。一方、ファンの側の分類として、強いものに闘いを挑み、困難に挑戦し、源流に忠実たろうとする姿勢を『マッチョ』、反対にこれに背いて闘いから逃走する姿勢を『ヘタレ』と呼ぶ。大雑把に総括すれば、この『ヘタレ』こそが、非常に特異な存在である日本のアイドルを支える母体となっていると説く。そして、戦後の日本では、『マッチョ期』と『ヘタレ期』が交互に繰り返され、基本、『ヘタレ期』にアイドルが興隆し、『マッチョ期』には、低迷してきたという。


ただ、原則的には『マッチョ期』と『ヘタレ期』二分でき、『マッチョ期』には『社会の発展』が強調され、社会的強者が目標になり、『ヘタレ期』には等身大の生き様に関心が集まるものの、実際には『マッチョ』と『ヘタレ』が複雑に交差したり捻れたりして、独特のハイブリッド(マッチョとヘタレを混ぜたもの)が生まれ、変化していくが、これに呼応するように、アイドルのありようも変遷していく。ざっとアイドルの盛衰の『盛』の時期の特徴を書き出すと、次の通りになる。



アイドルの変遷

公式にはマッチョを標榜しながら、大多数がヘタレていった時期(1970年〜1985年):最初のアイドル全盛期


バブル期の好況でいい気になっただけの『なんちゃってマッチョ』と既得権益にあずかれない負け組に分かれた時期(1997年〜2002年):アイドル氷河期を経て『本物』を併せ持つアイドルが登場


グローバル市場主義が不可避と認めるくらいにはマッチョだが、グローバルエリートを目指そうと思わない程度にはヘタレている、両方の要素を併せ持つ『ヘタレマッチョ』の大量出現期(2007年〜2014年):人々を元気にするアイドルの登場(闘うアイドル/AKB48、励ますアイドル/クローバーZ、究めるアイドル/当代モーニング娘


遠くから恋いこがれるだけの存在だったアイドルは、会って、話して、手を握って、支援し共に頑張る存在へと進化を遂げ、今では、生物進化の系統樹よろしく、さらに多種多様に枝分かれしている。これもまた日本国内でのみ特殊な進化を遂げた、いわゆる『ガラパゴス』の一例とも言えようが、すでにそのいくつかの種は海を越えようとしているように見える。だが、まだ本当に海を渡って生き延びるものなのかどうかはわからない。



ヘタレマッチョ


境氏の定義によるところの『ヘタレマッチョ』(ヘタレでありながら、マッチョ社会に適合した社会集団。気質はヘタレで、けして競争社会の中の『勝ち組』ではないが、自信の生活の維持・向上を果たすべきという自覚があるため、表象的にはマッチョな傾向も見せる。成長したナチュラルマッチョや、頑張らないと没落することを自覚した既得権益層などならなる、複合的な集団)という社会集団に支えられた、日本で生まれた現代のアイドルは、ヘタレのために全身で頑張れるマッチョであり、この両面性ゆえに、マッチョとヘタレの間の共通のアイコンとして成立し、マッチョとヘタレの間を架橋し、両者を融和する存在になっているという。



中間層の没落


現代のグローバル資本主義は、競争による優勢劣敗が非常にドラスティックで、ストレートにこれを受け入れた国では、軒並み所得の上下格差が進み、中間層が没落する傾向がある。そして、没落した中間層は、そのまま放っておくと、グローバル資本主義に異議を申立て、排他的なナショナリズムに走るなど、騒乱の火種になりかねないし、そもそも巨大な購買層としての中間層が没落すれば、グローバル資本の側もシュリンクを余儀なくされかねない。元英国首相のウインストン・チャーチルの言い方を借りれば、グローバル資本主義は最悪といえるほど問題含みだが、これまでに試みられたシステムの中では一番ましであることは認めざるをえず、とすれば、この没落する中間層の問題は、今後世界中で最も悩ましい問題の一つになることは確実だ。



アイドルは世界を救う?


同じ中間層の没落に悩む国家の中でも、米国のように『マッチョ』が徹底した国、すなわち勝ち組の正統性があまりに強い国では、ヘタレ/社会的弱者を社会的に抑圧し、精神的に追い込み、結果的に社会集団対立意識は強くなる。ここにヘタレとマッチョを融和することができる、『現代日本のアイドルの仕組み』が貢献できる余地があるのではないか、というわけだ。境氏の文章は何だかとても格調が高い。

もし、世界各国に存在する大衆文化にこの現代アイドルの要素が融合することで新しい文化が生まれたら。BABYMETALのようなメタルを演じるアイドルや、レゲエを謳うアイドルや、民族歌謡を謳うアイドルたち。もし、そういう存在が世界中のヘタレた人々の心に希望を与え、人々の心の中にあるこのグローバル資本主義を巡る矛盾を止揚し、絶望の末に国家主義に救済を求めたり、他国を非難することで溜飲を下げたりすることなく、日々、手の届くところに向かって努力することを諦めない素晴らしきヘタレマッチョたちとして生きていくことを支えられるなら、それはグローバル市場主義を破綻から救うことに少しだけですが、貢献できるかもしれません。アイドルは、少しだけですが、世界の平和を救う。のではないでしょうか。
『アイドル国富論』 P247〜248

深層の価値意識は本当に世界を救う


さすがに、出来過ぎたストーリーという気がしないでもないが、解決策の目処が容易にはたたない、世界的な中間層の没落/社会集団対立というグローバルトレンドに対して、世界的な大衆文化、芸術、文学、思想等の大きなうねりが呼応するということはおおいにありうると私には思える。その一つとしての、日本のサブカルチャーの持つ深層の価値意識(すなわち、善と悪の境界を曖昧にし、善悪二元論から距離を取り、対立意識を無化し、成熟の完成度より未成熟を支えることを好む等)が世界のヘタレを救い、ひいては世界自体を救うことに貢献する、ということはあながち単なる白昼夢とはいえないように思う。ある意味昨今の上滑りな『クールジャパン』現象よりずっと奥深く、現実味もあるストーリーを描けるようにも思える。


もちろん、これだけで、この深刻なグローバルトレンドに対抗できるわけではなく、現代アイドルの元祖日本でも、アイドルだけが日本を救うとはさすがに気恥ずかしくて誰もいわないだろうが、一方で、アイドル現象の深層から、現代日本人のマインドを照射して、きちんと理解した上で、次の問題解決に望むことは不可避だろう。それが欠けた産業論は、空洞と揶揄されてもしかたないとさえいえそうだ。そういう意味でも、本書を一読してみることをあらためておすすめしておきたい。