それでも希望はある/佐々木俊尚氏の新著を読んで


相補的な二冊


先週は、東浩紀氏の新著『弱いつながり』*1の書評を書かせていただいたわけだが、本書とほぼ同じタイミングで出版された、ジャーナリストの佐々木俊尚氏の『自分でつくるセーフティネット*2を同時に読んでいて、正直唖然としてしまった。まったく同じ時期に出てきた新著がこれほどまでに相補的というのは、実際ただならぬものを感じずにはいられない。


但し、両書を読んでいただけばわかることだが、東、佐々木両氏の問題意識の所在はかなり異なる。やや乱暴に言えば、東氏が、『知の閉塞感』『蛸壺化』に主たる関心があるのに対して、佐々木氏は、共同体が崩壊しつつある現代における、個人によるセーフティネットの再構築を主題としている。それなのに、両書が相補的に見えてしまうのには、はっきりした理由がある。それぞれの抱える問題の解決策の中核に、インターネットを介在とした『弱いつながり』のメリット、社会学における『弱い紐帯の強み』*3を据えていることだ。



どう乗越えていくべきなのか


Web2.0以降の、ソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)の急拡大に伴い、この波に乗ることで『弱いつながり』を拡大し、そのメリットを個人としても社会としても享受できるとの楽観論が広がった。いわゆる『ユーフォリア(熱狂的陶酔感)』の時期があったとさえいえる。だが、最近では楽観的な論調は影を潜め、悲観論が目につく。つい最近書かれたコンサルタントのクロサカタツヤ氏のブログ記事など、その空気を代表した一文と言える。
SNSの終わり(追記あり):クロサカタツヤの情報通信インサイト - CNET Japan


だが、『弱いつながり』を広げること自体のメリットは変わらないし、SNS、というよりそれを含めたソーシャルメディアに可能性と希望がなくなったとは思えない。かたや、日本の既存の共同体は弱体化する一方だ。障害があるのなら、それをどう乗越えていくべきなのかと今は問うべき時期ではないか



弱体化の一途をたどる旧来の共同体


佐々木氏が指摘するように、昭和の頃の日本の会社は、今よりずっと堅固で結束感があり、『終身雇用』にリアリティはあったし、一旦ある程度の規模の会社に入って、その共同体の一員である限り(非常にストレスは溜まるものの)身分は保証され、それなりの安心感があった。だが、バブル崩壊後の失われた20年を経て、いかに形式的には会社組織が残り、社内に老企業戦士が残っていても、一方で右を見ても左を見ても非正規社員だらけというのでは、企業内共同体の存立はいかにも危うい。


佐々木氏の著書にはあまり触れられていないが、地域共同体のほうも、都市部、地方に限らず、ごく一部の例外を除けば衰退の一途といわざるをえないし、今後は人口減少のあおりも受けて、さらに一段と衰退が加速すると考えられる。しかも、その構成員の多くは、少子化、高齢化の帰結として、大量の独居老人ということになる。従来からさんざん指摘されてきたように、日本には、海外にみられるような宗教共同体等もほとんどないから、唯一機能していた会社共同体が用をなさなくなると、かなり悲惨な状況が予想される。こんなことはずっと前からわかっていたことだから、その代替手段としてのSNSは以前から注目されてきた。地域SNSなどその典型で、ゼロ年代の半ばくらいから、様々な地域SNSが各地で立ち上がったことは記憶に新しい。



疑問符のついた地域SNS


しかしながら、その大半は行き詰まり、サービスを閉じたり鳴かず飛ばすになってしまった(もちろん今でもちゃんと運営されているSNSがあることを否定するものではない)。そもそも、バーチャルで立ち上がったSNSと地域のリアルな共同体を整合することは意外に難しい。その必然性が見いだせないことも少なくない。仮に人集めが軌道に乗って、メンバーが増えても、ネット上とはいえそこはやはり日本人がつくる共同体だ。どうしても『村化』してしまう。特定のボスやその取り巻きばかりが牛耳るようになったり、空気を読まないと居づらくなったりする。最初のころは、村人は窮屈な思いをしながらも自分を殺してつきあうが、しまいにはいやになって飛び出してしまう。これは、一時的に花盛りとなった企業内SNSでも同様だ。そもそも、デジタルのサービスに不慣れなメンバーが共同体の中心にいることが多いのだから、事の始めからハードルは高い。このように失われていく共同体の代替手段として期待されていたSNSにも早々と疑問符がついてしまった。だが、昨今では大分状況は変化してきている。



SNSは組織主導から個人主導へ


地域SNSが盛んになった当時と比較すると実名性の汎用SNSであるFacebookの普及が驚くほど進んだし、2011年に立ち上がって、あっという間に『国民的』インフラの地位にのし上がったLINEの存在もある。写真共有サービス、動画共有サービスなど、種類のすそ野もものすごく広がった。中高齢層の利用も増えてきている。積極的に使うかどうかは別として、今では私達は多重にSNS(というよりソーシャルメディア)に囲まれた空間にいる。


特定地域や目的に特化されたSNSを選んで参入するより、個人にとってはまず汎用SNSへの参入が先にあって、その中で、地域であったり、仕事関係であったり、趣味のつながりであったり、様々な人間関係を個人がコントロールするようになった。SNSは組織主導から、個人主導に移行することになった。『上からのSNS 』の時代から『下からのSNS』が主流の時代になったともいえる。


こうなってみると、SNSの本質を理解して使いこなす特定個人どうしがつながる共同体であれば、成立は可能なのではないかと思えるようになってきた。もちろん、mixi疲れFacebook疲れといわれるような、SNS内での人間関係に疲れてしまう人もいれば、誹謗中傷やプライバシー侵害、ストーカー等に悩まされる人もいる。また、近著『弱いつながり』で東浩紀氏が述べているように、今のSNSは、余程注意していないと、すぐに『強いつながり』を強化し、蛸壺化してしまう。積極的に賢く利用する者に、SNSは多大なメリットを返してくれるが、そうでなければ、大したメリットを返してくれないばかりか、炎上したり、悪評が未来永劫残ってしまうようなリスクもある。



個人としてうまく使いこなすには


だから、佐々木氏の主張は明快だ。国や会社が守ってくれる時代は終わり、SNSを個人としてうまく使いこなすことこそ最強の生存戦略なのだ、と。そして、そのためには、次のような心がけが必要と説く。(多少、佐々木氏が述べる結論を自分なりに手を加えて再構成したことをお断りしておく。)



1. 『弱いつながり』を広げることが大事


 『強いつながり』は強すぎると同調圧力を生み、窮屈なばかりか、情報ソースとしてもメリットが薄い。ゆるく、広く、自分が意図を持って関係を広げていくことが大事。そのためのツールとしてみれば、SNSはよく出来ている。



2. 『プライバシー問題』に過剰反応せずオープンに自分の情報をできるだけ公開すること


 自分の情報が漏れることにはもちろんリスクもあるし、自分の悪癖や悪行に自覚のある人、あるいは持病を抱えている人等、過剰反応せざるをえない人もいるだろう。だが、自分の情報をオープンにすることで、各種サービスはより本人の関心や趣味嗜好にマッチした、より有用な情報を個人に返してくれることも確かだ。SNSを使いこなすということの意味には、自分の情報をできるだけオープンにすることが含まれる。



 3. 見知らぬ他人を信頼すること


内と外を明確に区別する日本の村社会では、村の外にいる人は原則信頼せず、極端な話、人間扱いさえしない。ところが、『弱いきずな』を広げていくためには、村を超えて、見知らぬ人を信頼していくことが不可避だ。もちろんその『見知らぬ人』の中には、猟奇殺人犯だっているかもしれない。だが、FacebookのようなSNSが普及していくと、その人の人となりを事前に知ることができる。(昨今では、なまじの面談や紹介等よりよほどよくわかる)。 だから、ここで佐々木氏がいう見知らぬ人は、無限定に『まったく素性がわからない人』ではなく、『Facebook等で事前にある程度素性を知ることができる人』が中心ということにはなるだろう(それでも旧来の日本人にとっては、大きなチャレンジだ)。



4. 『善い人』であること


多重なSNSに囲まれた空間にいる私たちは、善行も悪行も丸見えになってしまう(本人がSNSを利用していなくても、周囲の人のクチコミ等で明らかになってしまう)。そういう環境では、権謀術数(社会や組織などの集団において物事を利己的な方向へ導き、自身の地位や評価を高めるために取られる手段や技法)などのように、『秘密』を前提とした戦略は、通用しなくなっていく。そして、本当に自分より他人のことを優先して、人が困っている時には手を差し伸べるような人には、即時に、他者からの尊敬や感謝、信頼が集まるようになり、結果的にビジネスでも成功する。もちろん、このような人(善い人)は、SNSによるセフティーネット構築という点でも、一番の成果を得ることができる。


ただ、『善い人』といっても、このような本物の『善い人』になることはそんなに簡単なことではない。だが、ほんの少しの自覚があるとないとでは大きな違いを生むと佐々木氏はいう。

いまの時代、自分が中途半端な立ち位置であることを自覚し、善人にもなれないし偽善者でもないと自覚し、善い人を目指して生きていくという立場は、死後の世界の往生でもなく、倫理や道徳でもなく、まさに必要な生存戦略だと思うんですよね。
自分が中途半端な立ち位置であることを自覚し、善人にもなれないし偽悪者でもないと自覚し、そして他人に寛容になることを目指していく。見知らぬ他人をそうやってまず信頼し、そこから多くの人との弱いつながりをつくっていくこと。これが会社という共同体の『箱』が薄れつつあるいまの時代にとって、最強かつオンリーワンの戦略であるということです。 
同掲書 P200

希望はある


現状のSNSは誹謗中傷だらけで、面白半分で個人名を暴いたり、イジメたりすることも横行している。情報も、二次情報が多いというだけではなく、誤報や、意図的なうそも多い。フィルタリングの仕組みも追いついているとは言い難い。一体どこに希望があるのか、という声も聞こえてきそうな気がする。


だが、自覚ある個人どうしがつながりをつくることは可能で、そのつながりの中では、『寛容』『善い人』であることが重要という価値意識が尊重され、『善い人』が報われる共同体をつくることは可能というとのが、佐々木氏の重要なメッセージの一つだ。


私も、楽観的に過ぎると非難されることを覚悟の上でいうが、この『希望』には可能性が十分あると考える。そして、そのような個人の自覚としての『善い人』が増えていくことはまた、社会全体の『希望』にもつながるに違いないとも思う。障害は山のようにあっても、希望があるからには、どうやって障害を乗越えるかを集中して考えることには意味がある。今後、自分の懸案課題の中心に据えるくらいの覚悟で、この問題に取り組んでみようと思う。

*1:

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

*2:

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~

自分でつくるセーフティネット~生存戦略としてのIT入門~

*3:社会学者のマーク・グラノヴェッターは、1970年代の初め頃に、個人が発展していくための情報(求職等)については、親友や家族のような緊密な社会的つながり(強いつながり)によってもたらされる情報はほとんど役に立たず、単なる知り合い(弱いつながり)から得られる情報のほうがはるかに有効であるとの説を展開して、高い評価を得た。