激変する日本で闇夜の灯台として輝くアドラー心理学


注目されるアドラー心理学


アドラー心理学研究者の岸見一郎氏の著書、『嫌われる勇気』*1が好評を博しているようだ。昨年12月に発刊されてこれまでに20万部以上が売れたというから、特にこの種のカテゴリーの本としては、堂々たる大ベストセラーだ。内容的にも、『10年に一度の一冊』『2013年のベスト』等、絶賛するコメントが目につく。


本書でも紹介されている通り、心理学者のアドラーと言えば、世界的には、フロイトユングと並ぶ心理学の三大巨頭と称されるほどの大物なのだが、日本での知名度は低い。ただ、これも本書でも、アドラーを扱った類書でも言及されていることだが、日本でも評判になったビジネス書や自己啓発書には、アドラーの影響が色濃いものが非常に多く、かつ、近年ではアドラーは、ユニークな療法を開拓する心理学としても広く受け入れられるようになってきた『人間性心理学』*2の源流ともされていて、アドラーの名前は知らなくても、療法や理論の一端に聞き覚えのある人は決して少なくないはずだ。(アドラーと言えば『功績に比べて知名度が低い人』、『他に類例を見ないほど多くの剽窃をされても気にかけない人』という評価もあるようだ。)


かく言う私も、個人的には、心理学や心理学療法自己啓発書等昔からかなり手広く親しんで来たこともあり、アドラー心理学の幾つかの概念についてもある程度は知ってはいた。だが、それも、人間性心理学者である(提唱者の)アブラハム・マズローはじめ、ヴィクトール・フランクル、エーリッヒ・フロム等を通じて、あるいは、具体的な心理療法自己啓発の手法等を経由して断片的に知っている程度であったことを今回再認識した。というのも、『嫌われる勇気』を読んだり、その勢いで同じ岸見氏の一連の著作 (『アドラー心理学入門』*3アドラー 人生を生き抜く心理学』*4)や、経営コンサルタントの小倉広氏の『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』等を一渡り読んでみて、アドラー心理学の全体像がわかってくると、自分のバイアスや理解の間違い、あるいは、全体像を理解するのに重要なのに知らない概念がかなりあることもわかってきた。そして、あらためて、その理論の奥深さと、完成度に感服することになった。



日本での実践は難しかった?


ただ、その一方で、これもあらためて思うのだが、日本でアドラー心理学を実践するのは、やはり容易なことではなかっただろうし、知名度が低かったのも無理からぬところがある。というのも、極論すると、アドラー心理学の底流にある思想やツールは、戦後の日本社会の特徴ともいえる要素をまっこうから否定する部分があるとも言えるからだ。例えば、こんな感じだ。(『アドラー心理学』と書いた部分も、主として『嫌われる勇気』の著者、岸見氏自身の説明/言葉で構成していることはお断りしておく。)



空気の支配/村社会的な同調圧力


<旧来のテーゼ>


日本的集団(サイズの大小に係わらず)は、目には見えないが非常に強い制約要件である『空気』が濃厚に支配していて、そこで(典型的には会社組織等)で生き残りたければ、その場の『空気』を読んで適切な行動ができる能力を身につけることが不可欠。『空気』が課す同調圧力に従わなければ集団内の他者から承認を得ることができず、場合によっては村八分となって、生きて行くことができなくなるとされた。



アドラー心理学


他者から承認される必要はなく、承認を求めてはいけない。われわれは他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人介入させてはいけない。他者の承認欲求ばかり気にしていると、本当の私を見失い、自由を失ってしまう。自由な生き方を貫くには、他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず(勇気を持ち)、承認されないかもしれないことを受け入れる覚悟を持つ必要がある。もちろん、他者を自分の思うように操作してはいけない。


目に見える貢献ではなくても、自分は誰かの役に立っているという『主観的な貢献感』を持てれば、幸福になれる。承認欲求を通じて得られた貢献感には自由がなく、幸福にはなれない。本当に貢献感、『共同体感覚』を持てれば他者からの承認欲求は消える。あなたを嫌う人がいようと、『他者に貢献するのだ』という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはなく、自由と幸福があり、本当の仲間とともにあることができる。そして、私が変われば、そんな私の目に映る世界はもはやかつての世界ではない。世界が変わってしまう。



ワーカホリック


<旧来のテーゼ>


戦後の(昭和の)典型的なサラリーマンは、仕事のために私生活を犠牲にすることは(私より公を優先することは)、公的な義務と考えているところがあり(それを公共心と考えているところがあり)、ある種の美意識にさえなっていた。そして、その姿勢は日本的な村社会の典型とも言える会社組織では高く評価され、結果的に、高い地位、高収入、安定した家庭といった副産物が後からついて来ると考えられていた。



アドラー心理学


ワーカホリックは明らかに人生の調和を欠いている。彼らは『仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない』と弁明するだろうが、これは『人生の嘘』だ。仕事を口実に、他の責任を回避しようとしているだけにすぎない。『仕事』とは会社で働く事だけではない。家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、趣味、あらゆることが仕事で、会社などほんの一部にすぎない。



縦社会


<旧来のテーゼ>


かつて、女性初の東大教授で現東大名誉教授である、人類学者の中根千枝氏は、著書、『タテ社会の人間関係』*5等で、日本の社会構造が欧米と違って『縦社会』であり、この構造が日本の組織における人間関係に大きな影響を与えていることを喝破した。縦社会は、想定外の出来事に柔軟に対応しにくい欠点もあるが、一人一人の役割や位置づけが決まっていて、上下関係がはっきりしているため、安定している。長期的に安定した社会では、各自が縦社会のルールを守ることでその強みを発揮できる。これが日本の会社の強さとなって戦後の驚異的な経済発展を支えたのだから、日本ではその良さを最大限生かして行くべきであるという意見は根強かった。



アドラー心理学


アドラー心理学ではあらゆる『縦の関係』を否定し、すべての対人関係を『横の関係』とすることを提唱している。これはアドラー心理学の根本原理ともいえる。すべての人間は同じではないけれど対等である。経済的に優位かどうかなど、人間的な価値にはまったく関係ない。会社員と(金銭的収入のない)専業主婦は、働いている場所や役割が違うだけ。


他者をほめたり、しかったりしてはいけない。また、ほめられることを期待してはいけない。他者を評価する言葉はすべて『縦の関係』から出て来る言葉で、われわれは『横の関係』を築いていかなければならない。人はほめられることによって『自分には能力がない』という信念を形成していく。劣等感とは、縦の関係の中から生じてくる意識である。ほめることとは、『能力のある人が、能力のない人に下す評価である。ほめてもらうことが目的になると、他者の価値観にあわせた生き方を選ぶことになる。(他者への介入にならない援助、『勇気づけ』が必要。)


他者のことを『行為』のレベルではなく、『存在』のレベルで見ていくべき。他者が『なにをしたか』で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくべき。



持続可能性の高い理論


こんな調子だ。バブル期までくらいの昭和のモーレツサラリーマンとこんなやり取りをしようとしても、『現実は違う』と一笑に付されたことだろう。だが、時代が下って今冷静に見比べると、特に、『持続可能性』という点で明らかにアドラーの考え方のほうが勝っているように私には思える。旧来のテーゼは、『特定の時代の特定の条件下で、短期的に有効な特殊なテーゼであった』というべきではないだろうか。



『自分探し』の問題点


だが、時代の変化に併せて、新しい価値やライフスタイルを提唱したはずの取り組みでさえ、アドラー心理学を補助線として見てみると、方向喪失して薮の中につっこんでしまっているものも少なくないことがわかる。例えば、『自分探し』だ。


昭和の高度成長期には、何をやりたいかではなく、どうすれば安定的な高収入を得ることができるかが主目的になってしまった結果、自分の特性や個別性とは関係なく、偏差値が高く、就職が有利な大学に入り、その結果、安定した大企業に入り、その会社のムラ的な掟にしたがって、終身つとめあげれば、おのずと結果がついてきた(そう考えられていた)。ところが、もはや会社は終身雇用を保証できず、いつ首をきられるかわからない。であれば、やりたくないが一見安定して見える仕事を求めるのではなく、場合によっては不安定で収入が低くても、自分が本当にやりたいことを見つけて情熱を持って取り組むほうが、よい人生をおくることができるし、結果として、好きこそものの上手なれで、今までにない分野を切り開いたり、世間的にも成功して、社会に貢献する可能性もより開けるはずだ。これが(多少の解釈の違いこそあれ)『自分探し』だったはずだ。


そんなような前提に基づき、学生は皆自分の『物語』を探すよう強要された。だが、これはどこかおかしいと私はずっと感じていた。たかが学生程度の人生経験で、そんなに都合良く自分が一生情熱を注げるような物語など見つけることができるものだろうか。しかも、それはある程度の収入を伴う仕事であることが前提だ。そもそも非常に狭き門といわざるをえない。


それに、確かに、プロ野球選手になるとか、サッカー選手になる、というような『物語』はいかにもわかりやすい。だが、そんな『物語』ある人生だけが、意義ある人生という暗示にかかると、途中で才能のなさで挫折したり、怪我で選手生命が終了したりすると、自分の人生を安易に『失敗』と決めつけ、転落して犯罪に走ったり、自殺したりすることになりがちだ。あるいは、つまらない『物語』では耐えられず、就職も何もせずに、時には引きこもり、遠い将来の目標を目指して今はその準備をしている期間と決めつけ、しかるべき時に備えて過ごしているというような言い訳をしつつ、人生を先延ばしにする。そんな泥沼に若者を追い込む、たちの悪い思想こそ、『自分探し』だったのではないか。


そんな漠然とした疑念にも、アドラー心理学(岸見氏)は明快に答えてくれる。曰く、


生まれた瞬間から始まった線が、大小さまざまなカーヴを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだ、というように、自らの生を『線』のように考えてはいけない。こうして人生を物語のようにとらえる発想は、人生の大半を『途上』としてしまう考え方だ。われわれは『いま、ここ』にしか生きることができない。生とは、連続する刹那だ。大人は若者に、『線』の人生を押しつけようとする。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。でも、人生、『線』などありえない。


人生における最大の嘘は、『いま、ここ』を生きないこと。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、何か見えたつもりになること。人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しない。『いま、ここ』を真剣に生きていたら、物語は必要なくなる。過去にどんなことがあったかなど、『いま、ここ』にはなんの関係もないし、未来がどうあるかなど『いま、ここ』で考える問題ではない。


どうだろうか? 『自分探し』が恐るべきミスリーディングな思想に思えてこないだろうか。



過去はない


しかも、『自分探し』の困ったところは、学生が希望の大学に入れなかったことに強いコンプレックスを抱いたり、輝くような過去を持たない自分はもうダメ、というような安易な早とちりを助長したところにもあると思う。自分のトラウマを発見するきっかけになってしまうことも多いように見える。


だが、アドラー心理学では、フロイト心理学で強調されるトラウマも明確に否定する。心に負った傷(トラウマ)が現在の不幸の原因と考えるような、人生を『物語』ととらえる『因果律』『原因論』は時にとてもわかりやすい。だが、そんなトラウマを抱えた自分が変わるのは非常に難しいと考えてしまいがちだ。もう人生も残り少ないし、他人との競争に勝ち上がる時間も足りず、結局、そんな運命(カルマ)だったのだと諦念に浸ってしまったりする。(時には、仏教的な高尚な諦念の概念を持ち出し、みずからを肯定する人まで現れる。)トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入り口なのだとまでアドラーは酷評しているという。


アドラーはいかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもないとし、むしろ、我々は過去の経験の中から目的にかなうものを見つけだして使うのだという。


例えば、引きこもる人が、両親に虐待を受けたから社会に適合できないと(実際にそのような経験があったとしても)考えているのだとすると、それは、引きこもることで、親の注目を一身に集めることができたり、外に出る煩わしさを回避することが本当の目的で、その目的こそ、虐待という過去を経験の中から引き出して使っているのだとする。さらには、不幸な人(自分を不幸と考える人)も、人生のどこかで『不幸であること』を選んだのであって、不幸な境遇に生まれたからでも、不幸な状況に陥ったからでもなく、不幸であることが自分の何らかの目的にかなうと自分で判断したのだという。


人は、過去の原因に突き動かされるのではなく、自らの定めた目的に向かって動いて行く、というわけだ。自分で決めた目的と言っても、しばしそれは無意識に行われるのだが、一旦自分の本当に目的に気づけば、変えることは可能だ。


そもそも客観的な過去というものは存在しない自分の解釈や信念で要素を選び、物語化したもの、それが過去だ。(アドラー/岸見氏にに言われるまでもなく、私自身ずっとそう考えて来た)。確かに動かし難い事実というのはあるが、その同じ事実があっても、誰もが同じ未来を迎えるわけではない。背丈が低いと成功しないとの信念を持つ人は本当に成功しないかもしれないが、ナポレオンのように成功するための強い動機に変える人も存在する。


また、記憶というのはあいまいなもので、人は自らの記憶さえいつの間にか都合よく捏造してしまうことはしばし確認されている『事実』だ。大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかだとアドラーは言う。何とも含蓄がある。すぐには理解できないかもしれないが、理解してみたくなる概念の数々だと私には思える。



今こそ研究すべきアドラー心理学


今日本は、急速に変わりつつあるし、これからもっと驚くほど変貌を遂げるのはほとんど間違いない。旧来の慣習や価値観等、良きにつけ悪しきにつけ、日本人や日本社会の行動指針となって来たものがもはや用を足さず、時には足を引っ張りさえする。こんな時こそ、より普遍的で持続可能性の高い理論や思想を拠り所としつつ、自分自身の頭で考え抜くことは非常に重要だ。『嫌われる勇気』が売れるのも、日本人が思わず知らず、そのような理論/拠り所を求めていることの現れだろう。アドラーだけがその候補ではないかもしれないが、少なくとも私自身にとっては、非常に有力な候補の一つだし、より良い社会を構想するにあたっても、もっと広く研究されるべきだと思う。


日本は変わりつつあるといったが、SNSで過剰接続し、嫌われることを恐れて、メールに即レスするような若者が増えている等、結局、日本人の無意識の行動パターンが形を変えて復活するようなケースも随所に見られる。安倍首相とその周辺の関係者のように、明治期のような家父長制こそ理想と公言し、復古を夢見る人たちもいる。今後は更に、新旧入り乱れて、様々な価値観や思想がぶつかり合い、混乱は避けられないだろう。だからこそ、闇を照らす『灯台』となりうる、アドラー心理学のような人類の財産ともいえる概念を研究してみることの重要性は繰り返し強調しておきたいと思う。

*1:

嫌われる勇気

嫌われる勇気

*2:人間性心理学 - Wikipedia

*3:

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

*4:

*5:

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)