福島第一原発観光地化計画/乗越えられるべき狭義の現実主義


福島第一原発観光地化計画


思想家/作家の東浩紀氏がプロデュースする福島第一原発観光地化計画についてまとめた本、『福島第一原発観光地化計画 思想地図β vol.4-2』*1が出て来たので、早速拝読して何か書いておこうと思って買い求めた。このシリーズの前著となる、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1 』*2に心揺さぶられるものがあったこともあり、楽しみにしていた。



『現実的』とは?


案の定、予想を遥かに超えた、現実とSFのような未来が混在した『寄書』とも言うべき装いになっている。もちろん、提言自体は非常に真面目で、しっかりとした哲学とビジョンの裏づけもある。『観光地化』という言葉の印象だけで、『不謹慎』『不真面目』『もっと落ち着いてから』等の反射的な反応をしてしまう人には、是非立ち止まってじっくりと読んで見て欲しいと願わずにはいられない。真摯な気持ちで読めば、この計画が大真面目であるだけではなく、極めて『現実的』であることも理解できるはずだ。


もっとも、官僚的に『現実的』であるだけでは、この皆がびっくり仰天するような着想は出てこないと思う。震災後、東氏はことあるごとに、『文学的』であることが必要だと言い続けて来た。とすると、この書を抜きん出た存在にしているのは『文学の薫り』、ということになるのだろうか。私自身、まるっきり理解できないわけではないものの、どうしても今ひとつ完全には呑み込めない、消化不良のような思いが払拭できないでいた。



復活すべき『記号論


ところがそんなおり、東氏が主催する、ゲンロンカフェのプログラムの一つ、『三浦展×東浩紀 司会:藤村龍至 「ユートピアの可能性――「福島第一原発観光化計画」の行方と日本社会の諸問題」』*3 での東氏のお話を聞いて、やっとある程度理解できた気がした。『文学』という以前に、記号論的に、現実の経済や統計の枠を超えて取り組まなければ、福島の問題は解決できない、ということなのか。なるほど。これまで東氏が何か言いかけてやめてしまったり、本音を言おうとしながら躊躇している様子が何とももどかしかったのだが、記号論と聞いて、その理由もはっきりわかった気がする。


ポストモダン』『記号論』等の80年代に踊ったキーワードはバブルとともに葬り去られたとの印象が一般には強い。それを福島第一原発のような非常にセンシティブな問題に持ち出したりしようものなら、ただでさえ誤解されがちなこの計画に対して、もっと声高に批判の渦が巻き起こることは想像に難くない。だが、どんなに大変でも、この壁は乗り越えて行く必要があると私も信じる。本書の後書きを読むと、東氏がそういう意味で新しいステージに向かうことを決意していることが感じられて、非常に楽しみに思った。



『現実的』が導く違和感


実際、『現実的』になればなるほど、東北、中でも事故の起きた原発を抱えた福島の未来は厳しいと言わざるを得ない。データを合理的に分析して、経済的に判断すれば、『この土地を廃棄して、別の場所に住民を全て移し、もっと投資効率の良い場所に資本は投下すべき』というな結論にさえなりかねない。


だが、それでも、私達は福島の問題を何とかしたいと心より願っているはずだ。この際、データがどうとか関係ない(重要ではないと言っているわけではない)。何故そう思うのか?



狭義の現実主義だけでは難しい理由


私にも、福島出身、あるいは今福島に住む友人は少なからずいる。彼ら(彼女ら)の心情を思うと、何としても福島が復興し、未来を取り戻して欲しいと思う。これは経済合理性とは関係ない。友情/友愛/同胞愛? あまりフィットする言葉が見つからないが、いずれにしても何とかしたいと心より願っている。


では、福島の今後の一番大きな問題は何か? 一番とは言わないまでも、最大の問題の一つは、東氏の言う通り、『風評』『イメージ』の悪化だろう。私(私達)にとって、チェルノブイリという場所は、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1 』によって真相を知らされる前は、『廃墟』『死の町』といような非常にネガティブでおぞましいものだった。東氏が指摘するように、これはまさに海外の人から見た今後の福島のイメージそのものだろう。


しかも、そのおぞましいイメージから東京も無傷ではいられない。わずか福島から200kmほどしか離れていない東京も、暗い、近寄り難いイメージで想起されるようになる可能性は高い。東京オリンピックがそのポジティブなイメージに塗り替えてくれる、というなかれ。福島原発の状況によっては、開催が危ぶまれるような(悪いイメージの増幅も含めて)懸案事項は今のところほとんど払拭されていないというべきだろう。しかも、処理作業が計画通り進んだとしても、数十年という単位では、完全な現状復帰は望めない。何らかの作業が継続していることは確定している。だから、この場合、『イメージ』すなわち『記号』にはどうしても対処せざるを得ない。そもそも、目に見えず、本当のところどのような影響が人体に及ぶのかわからない放射能問題というのは、典型的に風評被害にさらされやすいとも言える。


では、どうイメージを変えて行くのか。これはそう簡単なことではない。小手先で情報/シンボル操作をしてすむような問題ではまったくない。誰にとっても魅力的な新しい物語/神話を創って行く必要がある。その物語を創るにあたって、どこから着想を得るのか。歴史? 確かに、チェルノブイリという歴史は何より参考になることは間違いない。だが、具体的に比較していくと、福島とチェルノブイリの差は思った以上に大きい。地理も歴史も風土も違う。国体も違う。住む人々のマインドもすごく違う。となると、先ず『よすが』とすべきは、日本人の心情、心理、感情等、文学の取り扱う領域ということになる。このような感情/感性を抜きにして、単に経済合理性だけで事を運ぶと、場合によっては取り返しのつかない深い心理的な亀裂を作ってしまいかねない。


だが、一時的な感情や心理だけに依拠してよいのかと言えば、もちろんそれも違う。そもそも、原発というのは、日本人にとって、人類にとって、何なのか。そのような哲学/思想的な追求と土台がなければ、今後何十年にも渡る長期的な取り組みにおいて、関係者の(というより日本人の)団結や統一性を維持することは難しいだろう。


福島第一原発の事故に関して、一早く思想的な見解を表明したのは、哲学者/宗教学者中沢新一氏だ。原子力は人間世界を逸脱した存在であり、人間の生活世界のサイクルの外側にある。それ故、離脱しなければ人間世界の方が崩壊するのは原理的に必定という、ある意味非常にリーズナブルな見解だ。東氏は、この思想を認めた上で、それでも人間が人間世界を超える存在を追求しようとする『超越』の是非について、ゼロから考え直してみたいという。これはものすごく楽しみだ。


福島の問題はもちろん福島だけでは片付かない。では、すっかりIT技術で埋め尽くされた世界自体はどうなっているかと言えば、人間の想像力の限界を超えるような技術的な切磋琢磨は今も進行中だ。それどころか、もはや数年先が見通せないほど、変化のスピードは極限までエスカレートしている。かつて、未来学者のアルビン・トフラー氏は、人間の未来を想像するのに、SF(サイエンス・フィクション)を読むことが必須となるというようなことを言っていたが、すでにそれは現実になっているし、実際にはそれでも追いつかないくらいだ。まさに、SF的な想像力とそれを感じる感性は不可欠になって来ている。



狭義の現実主義を乗越えること


どうだろう。ざっとあげただけでも、これだけ出て来る。友情、友愛、イメージ、記号、文学、感性、哲学、思想、歴史、SF・・・不透明な福島の未来の問題というのは、狭義の現実主義(データ本意、経済合理性等)だけで扱うにはあまりに難易度が高い。そして、不透明なのは、福島だけではない。日本が今抱えるどの問題も、同様になって来ていると言っても過言ではない。


すでに与党自民党自体、日本の将来設計の柱として『明治国家』のイメージや物語に依拠し始めているように見える(自民党憲法改正案の主旨、明治国家がやむなく国民に強要した『家』制度へのこだわり等)。思想としての『欧米近代』がこれほど軋んでいる今、日本の近代参入のためのフィクションである『明治』への回帰というのは、いかがなものだろう。『戦後民主主義』が最早頼れる物語ではなくなっているとしても、少々安易すぎないだろうか。『物語』『イメージ』を据えるのはいいが、もう少し現代にフィットした『物語』を創造すべきと考えるのだが、どうだろうか。ことほど、日本にとって(おそらくは世界全体にとっても)、今狭義の現実主義を乗越えて行くことは重要なテーマだと私には思える。