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『歴史の終わり』の時代には日本の思想が輝くかもしれない


歴史や社会思想を語る佐々木俊尚


ジャーナリストの佐々木俊尚氏のメルマガ(佐々木俊尚の未来地図レポート)は、IT技術やビジネスモデルの最先端の詳細な解説で定評があるが、それ以上に当該の技術やビジネスモデルの歴史的経緯、市場や社会の文脈の中での位置づけ等がきちんと語られていて、単なる『知識』ではなく、その知識を応用したり、それに基づいて将来を予測する上での『知恵』を得ることができる。


だから、メルマガに限らず佐々木氏の著述や講演では、歴史や社会思想等の話題はある種の『定番』とも言えるが、メルマガを継続して読んでいると、昨今、その探求は尚一層深まっているように見える。そんな中でも、10月7日号(Vol.265)の記事、『時間という概念のない世界「アテンポラリティ」がやってくる〜〜ポスト近代が終わり、テクノロジーが引き起こす新しい構造』には正直目を見張る思いだった。大変感銘を受けた。



歴史の終わり


ここで扱われているテーマは『歴史の終わり』だ。少し長くなるが、10月7日号のメルマガから引用する。

近代西欧に率いられた世界史は、近代が19世紀に完成し、その後は「ポスト近代」「再帰的近代」だと言われてきました。つまりは「みなが豊かになる」「民主主義を実現する」「平等を実現する」というような近代の目標が西欧では19世紀末ぐらいに成し遂げられてしまった結果、いまは「近代であること自体を再帰的に目標にする」というような状況になってしまっているということ。これが再帰的近代=ポストモダンです。


 しかしこのポストモダン的状況は、テクノロジーの進化で急速に壊れつつあると言われています。そういう中でここ数年、いくつかの論者が指摘するようになったのは「歴史が終わりつつあるのではないか」ということ。(中略)


社会的理想や価値観が混乱をきわめてしまうほどに多様化し、「われわれの社会はいろんな混乱がありながらもだんだんと良くなっていくのだ」という直線的な歴史観そのものが消滅して行っているのではないか、という論点なのです。


 それを象徴することばが、このアテンポラリティー。時間という概念のない状態。

過去の論点


西洋近代の終焉というテーマは、『西洋の没落』*1を書いたシュペングラーあたりに遡れるし、日本でも過去何度も話題になって来た(『近代の超克』*2等)。比較的近いところでは、資源と地球の有限性に着目したローマクラブ(スイスのヴィンタートゥールに本部を置く民間のシンクタンク)がまとめあげた『成長の限界*3というレポートにも見て取れる。オイルショックという大事件もあって、当時、日本でも、西洋近代文明(=西洋近代の発展史観的に基づく文明)を物的に維持することは不可能、という論点はこぞって取り上げられた。(この延長に、原子力発電批判もあるとも言える。『地球が許容しない』から止めるざるをえないという理屈だ。)



テクノロジーが進化したから壊れる?


石油/原子力依存の文明の行き詰まりという論点には、いわばテクノロジーが解決できない(石油資源の来るべき枯渇、原子力廃棄物の廃棄/コントロール等に現代のテクノロジーが対処できない/追いつけない)という前提がある。逆に言えば、テクノロジーさえ進化して解決できるようになれば乗切れる、という暗黙の前提も同時にある。だが、今回の佐々木氏が引用しつつ語る『歴史の終わり』は従来の文脈とは根本的に異なる。テクノロジーが行き詰まったから壊れるのではなく、テクノロジーが進化したから壊れる、というのだ。

紙の印刷物に書かれた歴史書には、過去のさまざまな資料や本から作られた、初めと終わりのある直線的な物語が描かれています。しかしネットワークカルチャーにはこうした直線的な物語はありません。膨大なゴミのような情報があり、そこから検索エンジンなどのシステムが「ゴミ拾い」のようなことをして情報を集め、それらの情報の交差点に新しい価値が生まれるようなことが起きているということです。


 この世界では、歴史についての単一な価値観はもはやなくなり、さまざまな変人や狂人といった「知のロングテール」の下の方にいる人にさえも光は当てられ、見事な分析から下品なデマまでもが横一列にならぶという状況になってしまっています。こういうことは、歴史についての系統だった説明や物語といったものを、回復不可能にまで変化させてしまっています。


 これはポストモダンの終焉でもある、とスターリングは指摘しています。そもそも西欧近代の原理というのは、地球上すべてを文明化し、地上の戦争を終わらせ、テロリズムを撲滅するというものでしたが、こういう考え方自体がいまや終わりつつあるということ。いま起きているのは、秩序そのものの消滅であるということ。


「近代」というような単一の歴史価値観が成立したのは、歴史が紙の上に書かれた直線的な物語だったからで、インターネット上でそれをやろうとするのは、公営放送のチャンネルがひとつしかないテレビにネットを変えてしまうようなもので、現実的にはまったく不可能です。

それでもテクノロジーが進化すると局面は変わるのではないか?と考えてしまいたくなる。だが、そうではない、という。再び引用する。


もちろん今後も技術は進化していきます。本メルマガでも何度となく書いているように、デバイスはパソコンからスマホタブレットに多様化し、さらにはグーグルグラスやスマートウォッチのような身体装着可能なウェアラブルにも広がっていくでしょう。またソーシャルネットワークやEC、情報検索などのウェブのサービスは徐々に融合して、人間関係や購入するもの、必要な情報など必要なコンテンツのすべてがその人のコンテキストに基づいてプッシュ配信されるような方向に進んでいくのではないかと思います。しかしこうした進化の方向は、スターリングが表現している「ネットワーク文化」をさらに完成へと進めていく方向性であって、まったく新しい時代のパラダイムを生み出すわけではありません。

進化論/進歩史観の終焉


物質文明を無限に延長することは、資源や地球環境の制約でもう無理なのだから、地球生態系の循環に基づいた文明を作り直すべきで、農業を中心として円環的な世界にシフトするべき、という類いの主張は、一見旧来の西洋近代思想のアンチテーゼに聞こえる。だが、これもやはり旧来のパラダイム、すなわち、進化した将来像から現在を見る、という点では根本的な違いはない。背後に、粗野な物質文明から進化した精神文明へ。そして神の国へ、という一種の進化論/進歩史観が見え隠れしている


だが、佐々木氏によれば、今はその秩序そのものが消滅しつつあるのではないかというのだから、これはもう一段深刻だ。キリスト教的歴史意識(米国のフロンティア思想なども同種と言える)、すなわち未来のユートピアが歴史に目標と意味を与える、という設定/枠組み自体が終焉するかもしれないということを示唆している。



もうすでに来ている


しかも、今後そうなる、というのではない。佐々木氏が引用するダグラス・ラシュコフによれば、世界の変化の速度は早く、それはすでに来ていて、それ故に社会のシステムは機能障害を起こし、適応できない人が淘汰されているというのだ。これは私自身、ある程度実感できるところでもある。日本でも、現在起きてきている問題への対処のほとんど全ては、旧来のパラダイム(進化する歴史、進化した将来を理想として現代を見るパラダイム)を前提にしているし、その前提から抜け出ているとは言い難い(それどころか、企業の経営幹部の多くはいまだに『右肩上がり幻想』からさえ抜け出ていないと言わざるをえない)。だが、若い世代はもはや直線的な明るい未来など信じてはいない。



テレビドラマに現れる影響


「直線的な物語の消滅」は、われわれが日常接する映画やテレビ番組などのコンテンツの中身にまで影響を与えているという、ダグラス・ラシュコフの指摘はさらに興味深い。再び佐々木氏のメルマガから引用する。


古い時代のテレビドラマはつねに起承転結があり、始まりと終わりのある一直線の物語だったけれども、最近のアメリカの人気ドラマは、(1)パラレルワールド的であり、(2)始まりも終わりもない、というものであると。


 私は人気ドラマをそれほど見ていないのであまり正確なことはいえませんが、確かに「24」とか「ロスト」とかはいくつかの登場人物のストーリーが同時並行的に描かれており、シーズンが重なるごとに話がどんどん変化していって、起承転結的ではありません。

私はテレビドラマフリークなので、この傾向が顕著になってきていることはかなり早い段階から『体感』していた。そして、キリスト教の伝統が色濃い米国では、これはかなりすごい現象だと思っていた。




もう一つの『歴史の終わり』


だが、歴史の終わりは、西洋的な意味での歴史の終わりだけを意味しない。もう一つ非常に大きな『歴史の終わり』を示唆しているように見える。中国のように、はるかなる過去が歴史の規範として語られる『歴史』の終焉も意味していることになるからだ。日本は、中国からも韓国からもその歴史認識の乏しさを批判され続けてきた。儒教の伝統下では歴史を重視しない国や国民は文明的に劣っていると判断されてしまう。西欧の『歴史』とは方向が正反対だが、時間の流れは逆でも、思想的な共通点がある。



危険な心の空白


過去だろうが、未来だろうが、人は歴史が終ることに耐えられるのだろうか。西洋でも中国でも、この歴史思想はいわば宗教的信念を支える土台のはずだ歴史が終った後の精神の空白は何かで満たされないといけないのではないか。それこそ過去の歴史を鑑みても、宗教/宗教心の空白は多様な価値の終わりなきぶつかり合いを誘発し、収集がつかなくなるのではないか。あまり楽観できる状況ではないと私には思える。


もちろん、日本でもこれは重大な問題を引き起こす恐れがある。近代の日本人は中国化も欧米化もしているから、『歴史の終わり』の心の空白は特にシニアにとっては非常にシリアスな問題になるに違いない。



『今ここ』の重要性


だが一方で『今ここ』の重要性を最も自然に受け入れ、いわば宗教的とも言える信念としてきたのは、他ならぬ日本人だ、という指摘もある。現代人には見えにくくなっているが心の古層にはちゃんと伏流しているというのだ。従来、『過去の事は簡単に水に流して忘れてしまい、先のことはなかなか合理的に準備して備えることが苦手』なのが日本人なのだとさんざん批判されて来た。だが、歴史が終る時代には、反転して、ポジティブな性向になりうる可能性がある。



日本人の『古層』


政治学者の丸山 眞男氏の著書に、『日本思想史における「古層」の問題』『歴史意識の「古層」』というのがあるが、その中で丸山氏は、日本人の思想/意識の古層におる歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、『今』にほかならず、我々の歴史的オプティミズムは『今』の尊重とワン・セットになっている、という。いずれも難解な書だが、日本人の古層には過去や未来より『今』を尊重する意識があることが明言されている。まさに今こそ、これはちゃんと掘り起こしておくべき論点なのではないか。


いずれにしても、佐々木氏のお話がどのような方向に行くのか目が離せないし、自分自身の探求テーマの一つとして、この日本人の意識の『古層』、『今ここ』の問題には、真剣に取り組んでみたいと思う。

*1:

西洋の没落

西洋の没落

  • 作者: オスヴァルトシュペングラー,Oswald Spengler,村松正俊
  • 出版社/メーカー: 五月書房
  • 発売日: 1996/04
  • メディア: 単行本
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*2:近代の超克 - Wikipedia

*3:

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート

成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」レポート