エリート教育に望みたいこと


うさみのりや氏


うさみのりや氏という元官僚の書くブログがとても面白い。略歴によれば、東大経済学部を経て経済産業省に入省し電機・IT分野を担当していたが、現役中に、「三十路の官僚ブログ」というブログで、官僚生活の給料や生活などの内幕話を公開し、その後退職するが、大手外資系に転職したり、米国のビジネススクールに行って箔をつけてコンサルタントになるというような、『ありがち』で『かっこいい』転身をはかるでもなく、本当のところ何をしている人なのかよくわからない。わかっているのは、ゆるくて愉快なブログを書いていることと、最近メルマガを始めたことくらいだ。だけど、このブログが本当に面白い。


従来から、官僚を退職した後暴露話等を披露する人は少なくない。だが、ここまで『東大卒で元高級官僚』のプライドから完全に脱皮している人はあまりみたことがない。大抵この種の人は、頭隠して尻隠さずというか、本人が隠したつもりでも独特の『上から目線』がちらちらするタイプが多いものだが、それはほとんど感じられない。自然体、というより『ゆるふわ』キャラだ。だが、目のつけ所がすごくいい



注目した記事


その、うさみ氏の記事の中でも、下記の記事(部分)には特にはっとさせられた。

日本の(少なくとも文系)教育って言うのは「頑張れば頑張るほど市場から、リスクから遠のくように出来ている」んですよね。小さな頃から「自分のしたいことを自由にする」とか「自分の興味があることを極める」だとかいったことよりも共同体の倫理に従うことが美徳とされる。(今は変わったのかもしれないけれど)名門校であれば中高時代はアルバイトを禁止され、「文武両道」といいつつも座学に励むことが奨励される。大学に入っても、社会との接点はほとんどなく、法学部生は大学と予備校のダブルスクールに励み、経済や経営の学部はその名とは裏腹に象牙の塔にこもり勉強を続け、文学部や社会学部はますます世間から遊離する。というような感じ。


http://blogos.com/article/70256/?axis=b:13610

自分の体験でも同じ


私は残念ながら東大にいけるほど勉強はできなかったから、最終的には私立大学入ったのだが、高校はそれなりに進学校で、同級生の何人かは東大に実際に入ったやつもいたような環境なので、いわんとすることはとてもよくわかる。確かに、医者、国家公務員、弁護士、公認会計士・・みな、自分が本当になりたいからなる、という感じではなく、いわば、『世間の荒波にさらされて競争し続けなくても高収入とプライドが維持できる』という理由が(口にはださないまでも)かなりの部分を占めていたように思う。もちろん、全員がそうとまではいわないが、少なくとも私の周囲では濃厚にそういう気配があった。



ダブルバインド


米国の文化人類学で、精神医学などの研究者でもあった、グレゴリー・ベイトソンの造語で、ダブルバインド(Double bind)というのがあって、ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれることを意味するのだが、私が高校生の時に先生を始めとする大人達に、ずっと感じていたのはこれだ。表向きのメッセージがどうあれ、伝わってくるメタメッセージ(言語の裏の意味、表情、態度、振る舞い等によるメッセージによって間接的に暗示される対人関係に関わるメッセージ)は、『勉強を頑張れば、安全圏入りできるよ』『勉強を頑張って、巨大な組織、資格、権威等の内側にはいって、自分を隠して順応すれば生活が安定するよ』というのもだった。



天国ではなく地獄?


だが、恐るべきことに、安全圏入りできるどころか、今や最も危険な道に通じている。『この宗教を信じれば救われます』といわれて入信したのに、その教団に入ること自体が地獄になってしまうことにどこか似ている。


では、何が恐ろしいのか。


『友人がいない/つくれない恐ろしさ」
『一つの価値に依存しすぎることの恐ろしさ』
『自分を自由に表現できないことの恐ろしさ』
『組織がないと何もできなくなってしまうことの恐ろしさ』
  ・・・・・


あらゆる価値が揺らぎ、玉石混淆の過剰な情報に日々さらされ、常識/非常識が曖昧になってしまった時代に適応するための能力をつちかうどころか、それと正反対の、いわば『心を弱くする』、『ナイーブになる』ための教育を受けてそれを当たり前としてしまうことは真から恐ろしいことだと私は思う。


しかも、この教育では、使命感や滅私的なモチベーションを刺激するような内容は排除されている。まあ、私個人的には、『だから教育勅語を復活せよ』というようなアナクロニズムに与する気はさらさらないが、使命感や自負を持たない人はストレスに弱いことは確かだ。そして、多くの場合仕事の無意味さに耐えられなくなってしまうだろう。



今のままでは変わらない


そんな教育で、心が弱くて知識だけ肥大化した人が何をやるのかといえば、自分たちが持っていると思っているものを、それこそ必死の形相で守る。かつては本音をおおう、たてまえをつくろう余裕もあったはずだが、昨今、それもかなぐりすててしまった人がものすごく多い。もはや取り繕う余裕がなくなっているように見える。今の日本が変われない大きな理由の一つは、そんな気の毒な教育を受けて、本当は恐怖でいっぱいなのに、強大な権力を与えられ、エゴだけ先に肥大してしまった人達があまりに多いことだろう。こうなると、理を説いても、プライドをくすぐっても、どうにもならない。 そういう『どうにもならない』感じで今の日本は一杯になっている。


では、この流れを変えるための妙案はあるのか。



その解があるとすると


少なくともその解は、近年教育改革を主張する一派から必ずあがる、『実業教育』ではない。大学で教える科目は抽象的で役に立たないから、もっと英語や財務等ビジネスに直結する学科を増やすべきというのは、下手をすると結局もう一つの象牙の塔をつくってそこに学生をかりたてることになりかねない。それでは、ここでいう問題の解決にはつながらない。多様性とは正反対の方向に行きかねない。


正しい日本の歴史を教えて、日本の歴史にプライドを持って、頑張れる人材を作ろう、というようなのも、それ自体大事なことだとは思うが、同じくここでいう問題解決にはならなさそうだ。排他的で単一の価値に縛られて、自由度と探求の意欲を失うことにもなりかねない。


個人的には、古今の思想/哲学を出来るだけ幅広くとり上げ、各人が徹底的に追体験し、考え抜く、そういう教育を中心において欲しいと思う。昔、評論家の立花隆氏は、東大生はあらゆる古今の哲学を学び、その広い中から自分自身の思想を作り上げることが重要とどこかで書いていた記憶があるが、それが今一番必要なことなのではないか。


そして、自分の中にいつも自己/エゴを離れた、第三者の客観的な眼を持ち、自分の思考や行動にとらわれすぎることなく、必用に応じて変化できることをもって成熟とし、そのような人格の形成を目指すことを教育の主目的にして欲しいと思う。当然、象牙の塔に籠るのではなく、社会との接点を広く持つことも重視する必用がある。


恐怖で狭い己(おのれ)に固執するのではなく、そんな己を笑い飛ばすことの出来る度量を持つ人材が増えれば、日本も停滞の極みから脱することができるに違いない。日本人の本来持つ良さも、再び引き出されてくるはずだ。