ドラマ『半沢直樹』の含意を深読みすべきと考える理由


半沢直樹』が面白い


TBSのテレビドラマである『半沢直樹*1が面白い。視聴率もうなぎのぼりらしい。銀行ではないが、私自身、かつてのがんじがらめの『日本株式会社』『日本企業ムラ』『終身雇用の社畜』を身を以て経験しただけに、ものすごく共感し、カタルシスを感じてしまう。原作のタイトル(第1作『オレたちバブル入行組』、第2作『オレたち花のバブル組』)にあるとおり、まさにバブル入社組くらいまでの世代は、直に自分の経験と重ねて共感しているのだろうと思う。悪役に悪態をつかせるだけつかせておいて、最後に思いっきり啖呵を切るパターンは、日本のテレビドラマの定番、『水戸黄門』や『遠山の金さん』を思わせるものがある。そんな日本人の最も好む様式化されたパターンを効果的に織り込む演出の出来の良さも人気の秘密なのだろう。「サラリーマンチャンバラ劇」と原作者の池井戸潤氏が述べているそうだが、まさにそれがドラマでも実現できている感じだ。



若年層にも支持されている?


ただ、その『日本株式会社』を支える終身雇用制度も、もはや維持は困難で、現実にかつての企業戦士は続々と『解雇部屋』送りになっているし、若年層の多くは正社員にすらなれない。昭和の香りがほの薫るこのようなドラマには、もうバブル入社組以降の世代は共感しようがないのではないか? 


だが、案外そうでもないのかもしれない。少々古いデータ(2012年5月)だが、労働政策研究・研修機構の「勤労生活に関する調査」によると、終身雇用を支持する人の割合が調査を開始した1999年以降で過去最高を記録していて、特に20代、30代で支持する人の割合が急速に高まっているという(終身雇用を支持する人の割合は過去最高の87.5%)。同様に、「組織との一体感」(88.1%)、「年功賃金」(74.5%)を指示する人の割合も上昇が続き、いずれも過去最高というから、若年層も少なくとも心理的には、上の世代と似たり寄ったりの、『社畜』あるいはその予備軍と言えそうだ。

終身雇用を支持する若年層が急増 - エキサイトニュース


実際、企業の側も、『半沢直樹』の中では放出と同義に扱われている『出向』も、『解雇部屋』等の陰湿な『解雇への追い込み』も、節操なく増やさざるを得なくなってきていて、終身雇用など実質的には崩壊しているのに、その企業が破綻する最後の瞬間まで表看板としての『終身雇用制度』は維持しようとする力学は今でも働いている。『終身雇用制度』が若年層にも支持されているとなれば、学生に自社を選択してもらうためにも、そう簡単には看板をおろすわけにはいかない。実質とはますます乖離しながらも、『幻想』は維持され続けている。『半沢直樹』に感情移入をするサラリーマンの母体は、まだすごくボリュームが大きいと考えられる。



日本全体が半沢直樹の『銀行』みたいに


加えて、先日の参議院議員選挙でも感じた人は多いと思うが、今や、この国全体が半沢直樹のいる銀行みたいになっている大事なことは何も決めることができない。権威主義、老人支配、既得権益者の横暴、先送り、無責任。半沢の敵となる人物像はどこにでも見つけることができる。いや、本当に悪事を働く『悪者』であれば、当人を除けばすむ。しかしながら、そのワルを生む土壌としての消極的/無気力的な同調、正しさより空気が支配する状況が蔓延している現状は、ある意味もっと始末が悪い。特定のワルではなく、環境として、正体がわからない何か全体が悪い、ということになると、特定のワルを除いても、次から次に、別のワルが湧いて出てくることになる。日本人の苛立と失望感は、どこに持っていきようもなく鬱積している。日本企業のサラリーマンに限らず、日本人なら誰でも半沢直樹を応援したいような気分に満ち満ちているとも言える



気になる面もある


だが、この『雰囲気』『空気』、半沢直樹の啖呵に喝采を送る心理には、やや気になる一面もある。


先送りと無責任が蔓延して何も決まらず、何か決まったと思ったら、表の議論ではなく裏で老人達が裏取引で決めてしまっているというような状況においては、議論したところで、意味が無いと感じる人は益々増えていきそうだ。選挙等の民主主義の手続きを踏襲しても、よい結果がでないとなると、堂々巡りして進まない議論を停止して、『決断』するべき、という意見が多くなっていくことは容易に予想できる。これはまさに『決断主義』と言われる主張/行為態度だ。


第一次大戦後、世界で最も民主的かつ先進的と賞賛されたワイマール憲法下のドイツは、実態は今の日本同様、先送りと無責任の蔓延した老人支配国家だったと言われるが、これに業を煮やした若者の集団が広く支持を得て、正規の手続きを経てこのワイマール共和国をひっくり返してしまった(最近、日本の、とある副総理がこの件に言及して大恥をかいたことは記憶に新しい)。議論に余計な時間を使わず、指導者が決断し決定を下し、ただちに行動する、さっそうとした若者の集団とそのリーダーこそ、言うまでもなく、ナチスであり、アドルフ・ヒットラーその人だ。うがった見方と言われることを承知で言うが、半沢直樹に喝采する視聴者の心理が、ことによると、悪しき行動主義を支持してしまいかねない恐れがあることはもっとちゃんと議論されるべきではないか



半沢直樹の中の『黒』と『白』


もちろん、だからと言って、日本はこのままがいいとは到底思えない。私自身の中にも、誰よりも半沢直樹に拍手喝采を送ってしまいたくなる自分がいる。このジレンマにどう決着をつければいいのか。


ドラマ『半沢直樹』を観ていると、バブル入社以前の世代の私でさえ、あそこまでされてどうして日本の銀行に残ることにこだわるのか、と思わないでもない。バブル入社以降の世代であれば、余計そう感じるのではないか。半沢直樹ほどの実力者であれば、外資の銀行からも引っ張りだこだろう。今の収入の数倍〜数十倍を実現することも不可能ではなさそうだ。だが、彼が日本の銀行にこだわる真の理由はそんなもの(収入、世間体等)ではないようだ。銀行から融資を引き上げられて自殺した彼の父親の恨みをダイレクトにはらすのではなく、その親の仇とも言える銀行の内部に入って、歪んでしまった日本の銀行を『本来の使命に目覚めた銀行に変える』という理想に昇華し、その為にトップに上り詰めようとするという大義半沢直樹の心底にある。


すなわち、半沢直樹という人格の中には、『倍返し』『10倍返し』と叫んでしまう、『黒』の部分と、国の為に役立つ企業に資金を提供するという銀行本来の使命を取り戻そうとする『白』の部分がある。その『黒』と『白』の相剋が観て取れる。ちなみに、ドラマ前半部では、家族や、自分たちの仲間の善意を思い起こすことで、かろうじて半沢直樹の中で、『黒』が全面支配することは回避できたようだ。



相剋の『心理ドラマ』に注目すべき


私達の中にも同じ『黒』と『白』がある。人間であるからには、きれいごとだけではすまされない。『黒』の部分は誰だって持っている。だが、それをなんとか『白』に昇華しようと苦闘する『心理ドラマ』の部分こそ『半沢直樹』を観て各人がじっくりと自分に置き換えて考えてみるべきところだと思う。危うい渕にいる日本を、ヒットラーのような危険人物に蹂躙させないようにするために、ここは非常に重要な分岐点だ。各人が自分自身の苦闘の『心理ドラマ』に勝ち抜くためにはどうすればいいのか。ドラマ『半沢直樹』をそのような問をたてるきっかけにして欲しいものだと思う。