亡き父に息づいていた日本の伝統思想/『無常観』と『隠遁の思想』

再び『死』に向き合うことに


去る7月18日に父が突然亡くなったため、葬儀から相続の手続き、実家の諸事等に振り回されて久々にその週のブログを休んでしまった。7年前に母が亡くなり、兄弟もいないので、何でも自分でやるしかない。親戚の手を借りようにも、肝心なことは自分でしかできないことが多い。仕事もこれ以上放り出しておくわけにもいかないので、後ろ髪を引かれながらも帰京したが、まだやる事がいくらでもあって目眩がしそうだ。


ただ、この時期、忙しさは救いというか、時間があくと何とも言えない寂寥感が突き上げてくる。その隙を埋めるべく、ふと、長く積ん読になっていた、山折哲雄氏の『往生の極意』*1を読み始めた。夜中に寝つけない度に手に取っていると、いつの間にか読み終わっていた。そして、非常に感じるところがあった。母が亡くなった後封印していた『死』が突然また身近になったわけだが、自らの安心立命を得るためにも、日本の精神史を理解するにあたっても、『死』と向き合うことは避けて通れない課題であることをあらためて痛感した。こんなに差し迫った時にではなく、本当は普段から考えておくべきことなのだ。何といっても『死』は自分にもいつか必ずやってくるのだから。



苦痛な『生』


私の父は大正11年の生まれだから享年91才ということになるが(私とはかなり年齢の開きがある)、57才の時(高等学校の校長だった)、脳血栓で倒れて、思考能力には支障はなかったものの、言葉が出てこなくなった。それから、長い療養とリハビリが始まった。結局、最後まで言葉は不自由なままだったが、酒やタバコはもちろん、食事も厳格に制限されて、ある意味健全な生活となったから、寿命をかなり伸ばしたことは間違いない。ただ、10数年前に脊髄の神経が圧迫される症状に見舞われて手術して以来、歩行が難しくなり、手の自由も効きにくくなったため、晩年はほぼ寝たきりで介護を受けていた。思考能力は衰えず意識もはっきりしているから、言いたい事は沢山あるのに、言葉にならず、そして、体が動かないから気晴らしにどこかでかけるわけにもいかない。これでは寿命は伸びても、さぞ苦痛だったろうと思う。



突然30年も伸びた寿命


『往生の極意』にもある通り、日本では織田信長の時代からごく最近まで300年あまりに渡って、『人生は50年』だったのが、この30年ほどであっという間に人生が80年になってしまった。戦前から戦後初期に青春時代を過ごした私の父の死生観も明らかに『人生50年』をベースに出来上がっていたと思われる。ヘビースモーカーで血圧も高いのに、コレストロールの高そうなこってりしたものを大食する。当然、『人生太く短く』が信条だったし、戦中派の共通の特徴かもしれないが、『死』が身近で、いつ自分に降り掛かっても不思議はない、という意識がいつも見え隠れしていた。私が『遅い子』で比較的年が離れていたこともあるかもしれないが、酔っぱらう度に、自分が早くに死んでしまうであろうことを口にし、嘆いていたものだ。


ところが、実際には、父の人生は50年どころか、プラス40年も伸びてしまった。しかも、繰り返すが、早くから言葉が不自由で、途中から体も不自由になって生きる30年は、本人にとっては困惑と苦痛そのものだったのではないかと思う。予期していたはずの伝統的な尊厳ある死からは遠ざけられ、老いと病と共に、ひたすら生かされる。言葉が不自由だった父とは、このような突っ込んだ会話は交わしようも無く、離れて住んでいたこともあり、気配や態度から察することも必ずしもできなかったが、葬儀のようなタイミングにあらためて考えてみると、大変な『生』だったことが偲ばれる。そして、それは決して人ごとではない。私を含む誰もにとって非常に深刻な問題のはずだ。



経済ではなく思想の問題


多額の貯蓄と年金で悠々自適、という老年期のイメージはもはや過去のものというしかない。過度に煽るつもりはないが、今のままの年金制度がもはや維持不能であることは、ちょっと算数ができる者なら誰でもわかることだ。生涯結婚しない人の比率もどんどん上がっているし、子供の数も減っているから、孤独に死を迎える老人の数もうなぎ上りだろう。一方で医療技術は進歩が著しいから、『生かされる』時間はさらに伸びていくことは確実だ。これは経済がどうこうという問題ではなく(豊かになれば解決されるという種類の問題ではなく)、老いと病気を生きる『精神』や『思想』の問題だろう。『宗教』の問題といってもいい。



機能しない『宗教』


ところが、そちらのほうも実態は先細るばかりだ。東京圏内では、死んだら、葬式をせずにすぐに火葬場送りとなる、いわゆる直葬(通夜や告別式などの宗教儀式を行わない火葬のみの葬儀形態)が3割にものぼると言われていて、『死』を迎えるにあたって、『宗教』が益々機能しなくなっているのは明らかだ。いわゆる『宗教』でなくてもいいが、何らかの『思想』の問題として、真剣に取りくまなければ、2025年には65才以上の人口の比率が50%に迫ると言われる日本人の幸福感は減退する一方だろう。自殺も増えていくのは確実だ。



父の悟り?


では、私の父はどうだったのか。困惑していたのは間違いなかろうが、不安感や恐怖に身悶えして、周囲に当たり散らすというなそぶりはほとんどなかった。むしろ恬淡としていたという印象がある。だが、老衰や病気で脳の機能が衰えていたのならともかく、意識も思考もしっかりしていたから、何がしかの不安や恐怖がなかったはずはない。不安や恐怖は感情の問題という以上に、思考の問題だ。合理的に考えても出口や解決策がなければ、思考は不安と恐怖の源でしかない。父の精神はどのように維持されていたのか。通夜や葬儀の合間であまり時間はなかったが、大量に残る父親の日記の一部を読んでみた。そして、それを『往生の極意』と照らし合わせると、漠然とだが結論めいたものが見えて来た。



無の思想


日本の仏教思想では、アジアの他の仏教国と比較しても、異例と言っていいほど『無の思想』が受け入れられ流布している。おそらく仏教伝来以前の日本の土着の思想にも馴染むところがあったのだろう。その『無の思想』(あるいは『無常観』)について、山折氏は次のように語る。

仏教が日本化する中で、前に触れた神仏習合が生み出される一方で、空の認識が片隅に追いやられ、むしろ無の認識がしだいに強調されるようになります。無常、無心、無私、無一物、無尽蔵など無を冠した言葉が好まれ、仏教は『無の思想』であるかのような観を呈していきます。日本人はどういうわけか、無というと精神的に安定するようであります。無の思想はたんなるニヒリズムではなく、虚無の思想でもなく、むしろ無尽蔵なエネルギーをかかえる創造的無として受け止められているように思えるのです。西田幾多郎のいう『絶対無』はその典型例でしょう。(中略)
日本の文化・宗教を貫くこの無常観の伝統は鴨長明や『平家物語』から蓮如の『白骨の御文章』を経て、美空ひばりの『川の流れのように』まで届いています。往生の姿の諸相やその現代的意味を考えていく上で、往生する日本人の心情に根ざした無常観を視野に入れていかなくてはならないと思います。 同掲書 P61〜62

無常観


父の本棚にはマルクスだのサルトルだのばかりが並んでいて、仏教書をちゃんと読んでいたようには見えない。だが、残された日記を見ると、美空ひばりの『川の流れのように*2もそうだが、好きだった歌の歌詞が沢山書き写されていて、明らかにそれを貫く共通点は『無常観』だ。そもそも戦争を体験した世代だから、人の『死』や『無常』にはいやでも向き合っていただろうし、当時の流行歌にも『無常観』『死』のテーマが濃厚に現れ出ていたことはむしろ自然なことだろう。不自由になった体を引きずるようにしてペンを持ち、かつて向き合った『死』に、再び、父なりに向かいあっていたのだと思われる。長くそれを続けるうちに、『死』を恐れる気持ちは次第に抑制されていったということではないだろうか。



隠遁思想


『死』への恐怖は和らいだかもしれないが、それでは、老と病の中での『生』はどうなのか。早く死んでしまいたい、という苦悩はなかったのだろうか。だが、その点についても、どうやら心の拠り所があったのではないかと思われる。『隠遁思想』がそれだ。


再び、『往生の極意』から引用する。


その基層の上に、のちに隠退、隠遁(隠者)、隠居という言葉が現れ出てきたといえるでしょう。これらはみな『隠れる』ですが、とりわけ隠遁(者)は中世においてきわめて重要な役割を果たしています。鴨長明吉田兼好などがその代表的存在ですが、さまざまな聖たちもその系譜に属して、あの世とこの世をつなぐ新たな領域を開拓していきます。隠遁者は価値の源泉であったのです。広範な神仏混淆思想を支えてきたのもその基層的な信念だったのではないかと思います。隠居は近世になってからの現象でしょうが、庶民の日常生活や出処進退にも『隠れる』考え方が浸透していきます。隠居した人は一種のカリスマ(翁)として周囲の人から尊重される、そうした慣習が近代になっても続いていたのです。(中略)


中世にあって比叡山高野山に入って修行することを決意した人たちの内面には『隠れる』という思いがあったのでしょう。もちろん『出家』ですから俗世からの離脱であるわけですが、俗から聖へという相異なる位相へとわが身を転じていく、そうした『隠れる』という思いがあったのでしょう。この世からはなれ、身をくらます、世俗的な跡をくらましてしまう、そして別個の世界に入り、そのままあの世へと去っていくことを覚悟して山に入る。そうした思想を隠遁思想とよべるでしょう。 同掲書 P100〜101

虚無ではなくエネルギーの充填


父にとって、突然の病気による引退は決して本意ではなかったはずだが、長い療養生活を送るうちに、いつしかこの日本の伝統思想の一端を掘り起こし、心の支えとしていたふしがある。日記を読むと、先ほどの『無の思想』とは別に、この『隠遁思想』を感じることができる。父の世代は、『人生50年』からいきなり『人生80年』の時代に準備なく突入したわけだが、日本の思想の鉱脈をいざというときに掘り起こすことができるくらいには、いつの間にかではあれ、個人にその影響が思わず知らず浸透する時代を過ごしていたということだろう。これは存外すごいことではないか。正直私も驚いた。隠遁者がその苦しみを癒すために『アヘン』としての宗教に惑溺するのではなく、隠遁で心のエネルギーを充填し、機会あらば再び還俗して活躍できるような精神状態を維持し、その機会がなければ、恬淡として死を受け入れる。この『隠遁思想』は貴重な日本の文化遺産と言ってよいような価値があるのではないか。



日本の貴重な無形文化財


だが、ひるがえって私やその後の世代ではどうだろうか。父の世代なら思い出すことができたであろう、日本の無形文化財は、すでに霞がかかって、もう取り返しのつかないくらいの状態のままほおっておかれているのではないか。西洋近代思想では満たす事のできない心を潤す味わい深い思想は、元祖の仏教思想を日本人の伝統文化の中で熟成させた、日本独特のものだ。これこそ超高齢社会を迎えるにあたって、あらためてよく研究しておく価値があるものではないか。そのような気づきを私は今回父から引き継いだように思う。もしかするとこれは今後どんな遺産より価値ある遺産になっていくのではないか。亡き父に感謝しないといけないようだ。合掌。

*1:

往生の極意

往生の極意

*2:

川の流れのように

川の流れのように