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佐々木俊尚氏の新著『レイヤー化する世界』を読んで


待ちに待った新著


前著、『「当事者」の時代』(2013年3月)から1年と3ヶ月、ジャーナリストの佐々木俊尚氏の新著、『レイヤー化する世界』がついに発刊された。いわゆるICTの最先端の世界の現状を言語化し、出現しかかっている未来に名前を与え、他方、既存の業界やそこを支配する価値の崩壊も容赦なく宣告する、そんな佐々木氏に今何が見えているのか。政府も、学者も、マスコミも、企業の経営者も、もはや信頼するに足る存在ではない今この時、期待はいやがうえにも高まる。



先ずは自己啓発の書として


前著は普通の新書の倍はあろうかという大著だったが、今回はごく普通のサイズに収まった新書だ。使われている言葉も驚くほど平易で、さらっと読めてしまう。しかも、本書のおよそ半分は中世から近・現代に至る歴史の記述で埋められている。先端のビジネス書として読み始めた読者は、少なからず戸惑うことになるかもしれない。一方、ビジネス書を越えた文明論、社会論として読み進めた読者の中には、国民国家崩壊後の世界の姿や民主主義や資本主義の行く末等について具体的に語られていないことに物足りなさを感じる向きもあろう。


だが、佐々木氏のメルマガを毎週熟読し、毎日欠かさず佐々木氏のTwitterのツイートを追い、IT業界の端くれにいて、この現場で起きている事象に日々直面している自分には、僭越ながら、本書が出来上がった経緯や苦闘が透けて見える気がする。佐々木氏が直面して格闘したと思われる、『語ることができる必然』と『(あることはわかっているが)語ることができない必然』にもある程度想像が及ぶ。その私が、これから本書を手に取ろうとしている読者にアドバイスできることがあるとすれば、本書は現段階では『個人の自己啓発書』『個人が生き残るための参考書』として読むことが最もその価値を引き出しやすいと思われる、ということだ。もちろん、日本企業内の組織人や経営者の参考図書、文明論、社会学の書としても十分読むに足るとは思うが、本書のコアとなるコンセプトを十分に理解した上でなければ、誤読してしまいかねない。現実に、幾つかの書評を拝見したが、残念な誤読がすごく多いと言わざるをえない。



インターネット革命


インターネットは産業革命に匹敵する(あるいはそれを上回る)革命を促すといわれ、すでに私達はそれを実感し始めている。そして、産業革命にも段階(第一次、第二次)があったように、インターネットによる革命にも発展の段階があり、今その段階が変わりつつある。インターネットは、最初は既存の国家や資本主義市場における企業の生産性や効率を上げる手段としてスタートした。しかしながら、技術進化とともに、個人がいつでもどこでも利用できるモバイル双方向コミュニケーションツール(iPhone等)の核として活用されていくにつれ、まったく異なった様相が見え始めた。物理的・空間的な制約を所与として成立してきた制度や社会・企業の構造、社会のあり方自体を解体し始めた。そして、ふと気がつくと、国民国家の基礎が揺さぶられ、資本主義も民主主義さえも、よって立つ足下がおぼつかなくなってきている。



超国家企業の出現


佐々木氏が本書で語るキーワードである<場>だが、それを一番はっきりと見える形で先導しているのは、言うまでもなく、GoogleでありAppleだ。対比のために、従来の20世紀型の企業の代表例を一つ上げるとすると、米国の自動車会社であるGeneral Motors(GM)がわかりやすい。かつてGMのCEOだったチャーリー・ウイルソンは、「GMにとってよいことは、アメリカにとってもよいことだ」という有名な言葉を残したが、これは20世紀型企業の特徴を非常に明快に現しているといえる。GMは数十万にも及ぶ雇用を創出し、大量の原材料を輸入し、自動車を輸出して外貨を稼ぎ、高給を保証された社員は大口の消費者ともなった。まさに、国家の利益とGMの利益は同心円上にあった。だが、同じ米国籍の大企業でも、GoogleAppleもその性格はまったく違う。生産の拠点のほとんどは米国ではなく、中国等の新興国にあり、米国内での雇用は圧倒的に少ない。タックスホリデー等を最大活用しているから、米国への税金の納入も最小限だ。GM多国籍企業だが、GoogleAppleは佐々木氏が定義する『超国籍企業』であり、まったく新しく生起しつつある存在だ。



決着はついた


20世紀型企業の一方の代表格である日本の電機企業はこの<場>企業(超国籍企業)によって退場を余儀なくされつつある。(テレビ、パソコン、携帯電話、カーナビ等)。それはもう誰にの目にも明らかになったが、電機企業に限らず、駆逐の憂き目にあっている旧来型企業は数多い。(新聞、雑誌、書籍等) しかも、その津波のような<場>企業の侵攻は現在も進行中だ。『モデルの優劣』という点では、事実上両者の決着はついたというしかない。アップルに負けたソニーが再び勝つことがあったとしても、それはソニーが<場>企業として新生する以外にはありえない、ということだ。


このような話をすると、いまだに一部のIT・電機業界の中の限定的な出来事と考えている人が少なくないことに驚いてしまうが、とんでもない。3Dプリンターのような技術の発展を見れば、多額の設備投資や大組織が必要で、今でも20世紀型組織が優位と考えられた領域(自動車等)も、近い将来同様の構造に呑み込まれて行くであろうことは、もはや決定的といっていい。この流れはもう逆流させることはできない。



共犯


20世紀型巨大企業は、特に日本では、自らの傘下に部品メーカー等を縦方向に組織し、相互に補完的な関係を築くことでさらに盤石な地盤を築いたが(系列/二重構造)、興味深いことに、<場>企業は、かなり違った意味だが、ある種の二重構造と補完関係を築き始めたように見える。


AppleがiTune Store、GoogleGoogle Playでアプリやコンテンツを販売できる市場をつくったのもその一つだし、Googe MapsがAPIを公開して企業が自身の地図サービスを展開できるようになったのも同様だ。さらには、アマゾンがAWSで企業のクラウドサービスをサポートするのも、Squareが個店のカード決済サービスを導入しやすくしたりするのも同じだ。<場>企業と、この<場>の上でビジネスを行う企業は、系列を構成しているわけではなく、突然<場>企業に駆逐されてしまうようなことも起こるが、一方<場>企業も、参加者がいなければ<場>企業どうしの競争に生き残れない。そういう意味では参加企業に依存しており、ある種の補完関係にあることは間違いない。それを佐々木氏は『共犯』と呼ぶわけだが、言い得て妙という感じだ。



多層化するレイヤー


縦構造の組織(垂直統合組織)が横に分断されれば、従来型の組織と所属員の関係は希薄にならざるをえない。自然、個人のコミュニケーションも、佐々木氏の言うような『ソト』に広がった多層のレイヤー構造になっていくだろう。しかも、どんなに珍しく、他人と共有するのは難しそうな要素(趣味、嗜好等)でも、必ず仲間が見つかり、何らかのコミュニティとして拡張されて行くと考えられている。Facebookが破竹の勢いで世界中を席巻し始めたころ、全てのローカルのSNSFacebookTwitter等の世界的なSNSに置き換えられて行くとの主張も多かったと記憶しているが、今現実に起きているのは、日本のLINE、中国のウエイボー、台湾のカカオトーク等、様々なSNSが立ち上がり、多様なコミュニケーションの回路が共存しながらどんどん開いていくような事象だ。



強い個人


このように『自分というあり方』が多層化すれば、自分が何者なのかわからない、いわゆる『アイデンティティ・クライシス』に陥る人は増えるかもしれないが、一方で服を場面に応じて着替えていくような、自在なアイデンティティのあり方が新しいライフスタイルとともに創造されていく楽しみもある。そんな個人は、自在にコミュニケーション回路を操り、ビジネスにおいては<場>企業の提供する『部品』を巧みに組みあげ、最小人数・最小資金で自らのビジネスを創り上げ、企業の押し付けがましい宣伝には振り回されないで消費を行うことになるだろう。新しい『強い個人』といえるが、その『強い個人』と<場>企業(超国籍企業)との共犯関係が、次の時代の主軸になっていくと考えられる。そうなれば、国民国家も、民主主義も、資本主義も今のままではいられない。



個人が生き残るには


ただ、その帰結が最終的にどのようになるのか、その途中で何が起きるのか、個人の生活はどうなるのか、わからないことだらけだし、佐々木氏もそれらを一々具体的に述べているわけではない。ただ、世がどんな変遷をたどるにせよ、個人が生き残る最善策は、今起きていることの本質を知り、中心軸を間違えないことにこそあるはずだ。私はそのようなメッセージを本書から強く受け取った。



社会問題はどうなる?


もちろん、一方で、間違いなく起きてくるであろう問題にも思いを馳せざるをえない。例えば、ますます広がるであろう格差、貧困等の問題はどうすればいいのだろう。従来は分配は国民国家の役割だったが、これからは誰が肩代わりしてくれるのか。弱者の救済は、文明の証でもあったはずだ。それに、格差や貧困の対処に失敗するとナショナリズムにエネルギーが注ぎ込まれ、暴発する恐れもある。



『ウチ』どうしの激突


20世紀型組織は、企業でも、政府組織でも、佐々木氏のいう『ウチ』と『ソト』をはっきりと分離し、『ウチ』の繁栄=国家の繁栄=個人の繁栄だったから、個人より集団としての『ウチ』を優先させる力学が働きつつも、『ウチ』の中はそれなりに安定していた。その代わり、『ウチ』どうしの関係は、常に緊張関係を強いられ、利害の調整に失敗すれば戦争にもなりかねない。だから、最強の『ウチ』(米ソの冷戦後は米国)のヘゲモニーがないと世界は安定しない。米国スタンダードのグローバリズムを世界に押し出してみたものの、米国が世界に君臨する力がなくなれば、世界中の『ウチ』が自らの利益を主張して騒ぎ出す。さらには、国家単位の『ウチ』だけではなく、民族単位であったり、宗教の単位であったり、ますます多様で排他的な『ウチ』がぶつかり合っているように見える。



『ウチ』の負のエネルギーが抜き取れる?


佐々木氏のいう『レイヤー化する世界』は、旧来型の組織を不安定にし、人々を不安にするかもしれないが、一方で、長く争いの原因であった『ウチ』というイデオロギー=幻想が無化される可能性はあるナショナリズムにしても、国家にしても、宗教にしても、畢竟、フィクションにすぎない。不要になれば、自在に取り替えるべきものだ。だが、いつのまにか、熱狂的なリアリティ/信仰となり、手がつけられなくなっていて、それが一番の問題だったりする。今、そのような負のエネルギーを抜き取り、フィクションでいっぱいに膨らんだ風船を萎ませるチャンスが到来していると考えて、社会の在り方を根本的に考え直してみてはどうだろうか。そういう心持ちになれば、佐々木氏の新著は、文明論としても、社会科学の書としても輝いて見えるようになるはずだ。