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寓話で測る日本人の心の成熟度

You Tubeで見つけた面白い話


先日You Tubeの様々なコンテンツを渉猟していたら、評論家の浅羽通明氏の講演(講義)があって非常に面白く、つい見入ってしまった。その内容自体についても別途また考察してみたいものだが、今回はその中に出てくる寓話の一つが実に面白く、かつ、大変考えさせられたので、紹介かたがた、取り上げておこうと思う。



アリとキリギリス


その寓話とは、他でもない、『イソップ寓話』の『アリとキリギリス』である。


日本人で、この寓話を知らない人はいないだろう。そして、おそらくその寓意については、誰もが
次のように理解しているはずだ。


『アリのようにキリギリスが遊んでいるときも額に汗して真面目に働くものが最後には勝つ』

あるいは、『キリギリスのように働かずに遊んでいるといつか身を滅ぼす』


同じく『イソップ寓話』のうちの一話でもある、『ウサギとカメ』についても、『能力がなくて足が遅くても着実に油断せずに進むものが最後には勝つ』というような、同種の寓意を持つ寓話として、ワンセットで語られることも少なくないように思う。



寓意は一つではない?


だが、浅羽氏によれば、この『アリとキリギリス』には違う解釈があるという。ちょうど、Wikipediaにも同主旨の解説があるので引用する。

この寓話には二つの寓意がある。一つは、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの。 二つ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というものである。
また功利主義の観点からは、生き物である以上最終的に死は避けられないので、食料蓄積のみで生を終えたアリより、自らの快楽を追及し生を謳歌したキリギリスの方が善とされる。

アリとキリギリス - Wikipedia

深い!


私は恥ずかしながら、後段の二つの寓意はまったく知らなかったので少々驚いたのだが、言われてみればこれはこれで実に含蓄がある。もっともそういえるのは多少なりとも社会経験を積んだ今だからこそで、おそらく、もう少し若い頃私は、勤労哲学を重視する日本社会のコードというか、空気の支配に完全に服していたから、この寓話にこれほど正反対と言えるほどの寓意があると言われても、簡単には納得しなかったろう。だが、今ではむしろ、後ろの二つの寓意のほうがより深い意味があるように思えて、最初の寓意(働かざるもの食うべからず)などむしろ底が浅く聞こえてしまいさえする。



人類の意識の古層にある意識を知る鍵


これも今まで知らなかったのだが、イソップ寓話というのは、私の先入観を遥かに越えて、すごく由来が古い。紀元前6世紀頃のギリシア、さらにはそれ以前からの伝承や民話(古代メソポタミア、小アジア等)を基にしているというから、これはもう人類の意識の古層にある共通の意識(集合的無意識?)と言ってもいいのかもしれない。
(ちなみに、オリジナルは『アリとキリギリス』ではなく、『アリとセミ』だったのが、セミがヨーロッパ北部ではあまり馴染みがない昆虫のため、ギリシアからアルプス以北に伝えられる翻訳過程で改編されたのだという。これも知らなかった。)



日本は円熟期にあるのか


個人としても、国家や民族全体で見ても、勢いはあるが、ナイーブで一面的にしか物事を解釈できない『青年期』から、様々な体験(しばし辛い体験を含む)を経て、人間の裏、本音、本心等を理解できるようになると、物事には一面だけではなく、多面的な見方があって、理想や浅薄な理屈だけでは語れないことを理解出来るようになる。そうして『円熟期』を迎える。


もちろん、これは個人にとっても国家や民族にとっても平坦で一本調子な道とは限らず、円熟期にたどりつけずして衰退してしまう例も少なくない。ちなみに、今の日本はどうだろうか。



未熟? 衰退?


かつての日本で多数を占めた『戦後民主主義』のイデオローグは、『非武装中立』のようなリベラルな理想論が過ぎて、現実を直視していないと批判され続けたものだが、その反動もあってか、今ではその『戦後民主主義』は括弧で括られ、ナイーブで無責任な政治思想であったとする評価が大方定まったといっていいように思う。そして昨今の日本では、国民のうち『無視できない数の塊』は明らかに反転、右傾化した。だが、これは日本人が成熟し、現実の国際情勢を理解し、大人の判断ができるようになった結果だろうか。


この半月ほど、橋下大阪市長の、従軍慰安婦をめぐる発言と、それをきっかけにおきた議論でメディアは埋まったが、そのやり取りから『成熟』の証を感じることはできただろうか。また、『在日特権を許さない会(在特会)』などによる「ヘイトスピーチ(差別・排除の意図をもって、貶めたり、暴力や誹謗中傷、差別的行為を煽動したりするような言動)デモ』なるものが話題になっているが、これなど、成熟というより、『未熟』、もっと言えば、『衰退』を象徴しているとも言えるのではないか。



経済分野でも


なにもこれは政治向きの話ばかりではない。電機産業に象徴される日本のものづくりも、一旦成功した後は、いつしか自閉気味になり、『キリギリスやウサギ(アップル等)がいくら派手に立ち回ろうと、まっすぐ脇目もふらず、地道に弛まずコスト低減と品質向上に取り組んで行けば、いつか必ず勝てる』というような思想/イデオロギーにハマってはいなかっただろうか。


世界中のユーザーを相手に競争するにあたっては、自分たちの思想/イデオロギーに固執するのではなく、『キリギリス』だろうが『ウサギ』だろうがその良いところからは学び、多様で多面的な見方を育て、人の無意識の奥底に潜む願望まで見通し、市場が本当に必要としていることを実現する必要があったはずだ。そういう意味では、昔の方がずっと柔軟だったのではないか。例えば、ソニー盛田昭夫氏は当時の常識を軽々とひっくり返して、『録音のできないカセットデッキ=ウオークマン』の市場を創出した。



寓話の智慧


もっとも、この寓話、古代メソポタミアまで淵源をたどれるとすれば、何千年も前まで遡れるということになる。何千年も前から、『働かざるもの食うべからず』→いや『アリのように冷酷で独善的になってはいけない』→そもそも『生きることのすべてが食料蓄積だけでは空しい』→『美しく太く短く生きることこそ人生の美学というものだ』→いや、やはり『真面目にはたらくことは大事だ』・・・人類は同じようなところを堂々巡りしてきたと言えなくもない。つまり、本当の教訓は、『所詮、人間のやることはお決まりでたかが知れている』ということなのかもしれない。


時には、そのような視線と諦観を持って開き直るということも必要だと思う。そして、そうやって自分たち自身を相対的かつ客観的に見ることができれば、固着した意識が解かれて心に空白地帯ができて、その心の空白地帯に新しい発想やアイデアがやってくるということはしばしばあることだ。その意味で、『寓話』と『禅の公案』は良く似ている。そして、うまく使えば今自分たちが一体何をやっているのか、それを知るためのリトマス試験紙にもなるはずだ。