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内田樹氏の寄稿文が喚起した問題を周回遅れで語ってみる

炎上しがちな内田樹氏のブログ


神戸女学院大学の名誉教授である、内田樹氏のブログ記事は、最近では炎上ネタになることが少なくなく、しかもややパターン化してきた印象がある。先日も、朝日新聞に掲載された寄稿文がBLOGOSに転載されたのをきっかけにちょっとした騒ぎになったのは記憶に新しい。反対論者が雲霞のごとく現れ、コメントも見るに耐えないものが多かった。

朝日新聞の「オピニオン」欄に寄稿


内田氏の記事の要点は、グローバル化の進展による国民国家の解体とその問題点、および、グローバル企業の個別批判(今回はトヨタ自動車が槍玉にあがっていた)』ということになるだろうか。私自身、非常に関心を持っているテーマでもあり、一言語っておきたい誘惑にはかられたのだが、あまりに内田氏の全面否定一色の意見やコメントが多く、内田氏擁護のニュアンスが多少にじんだだけで自分のブログも炎上してしまいかねない雰囲気だったため、今回ばかりは自重した。さすがに、もうほとぼりもさめたと思われるので、少しだけ私もコメントを残しておこうと思う。



現状認識と評価


まず、現状認識の部分だが、グローバル企業の行き着く先が超国家的な存在であり、国民国家によるコントロールが出来なくなっていく(きている)というところは、おそらく世の共通認識といってよかろう。この結果が、『世界的な所得の上下二分化(大部分は低所得化)』『先進国の中所得層の没落』『世界的な賃金コストの平準化』等に帰着するであろうことも、それほど見解が相違するところではないはずだ。


問題は『評価』の部分なのだが、グローバル化のメリットについて言えば(グローバル企業による労働の搾取、資源の乱獲、環境破壊等の問題点は当然指摘されるだろうがそれでも)、『分配の不平等は拡大しながらも企業収益合計が最大化する=経済的な富が最大化する』ことと、先進国の中間所得層にとっては没落への道かもしれないが、開発途上国低所得者層にとっては雇用と所得拡大のチャンスが広がることだろう。この点について言えば、少なくともグローバル化メリットを完全に否定してしまうことには無理があると思う。



グローバル化の光の部分


要は、グローバル化の光の部分、すなわち、『世界的にルールを透明で公正にすることで貿易・投資・金融等、経済活動を活発にして世界全体の富を増大し、貧困や疾病をなくし、意欲と能力ある者にチャンスを平等に与える』という理念を否定しないで、その影の部分にどう対処するのか、という問を立てるべきで、影の部分を解消するために光も消してしまうような主張は受け入れられないだろう。しかも、現在の日本では、『公正』も『民主主義』もその本義が理解されているとは考えにくく、ルールや決定のプロセスを透明にすることも非常にハードルが高い。デメリットの部分に対処する以前に、メリットの部分をもっと浸透させることのほうが急務に思えてしまう。



個別企業の非難は酷


また、各国の現行法を遵守している企業については、ルールの枠内での行動を非難するのは酷だろう。国内の労働コストが高くなり過ぎれば、コストの安い国にシフトする。それは今回槍玉にあがったトヨタのような企業にとっても楽な道ではない。愛知県に工場を集中して労務管理をするほうが、日本人のマインドを知り尽くしたトヨタにとっては有利に決まっている。だが、日本国内にいることでコスト競争できなくなれば、泣く泣く海外に出て行かざるをえない。それは、アップルのような超国家企業とて同様だろう。中国に生産委託するのはいいが、委託先企業の労務管理が過度に劣悪であることが暴かれれば、非難の矛先はアップルに向かうし、インフレ、人民元高等で、生産拠点としての中国の国際競争力がなくなれば、また次の生産委託先を見つけることを強いられる。いずれも非常に労苦を伴うことは言うまでもない。



システムに内在する問題点


グローバル化の進展で、国民国家が機能不全となれば、民主主義の維持さえ危ぶまれる。全体としての富が増大しても分配が不公正だったり、貧富の差が極端に拡大すれば、市民社会の維持にも非常な困難が伴うだろう。社会が機能しなくなれば、人々の『幸福感』も萎んでしまう。先進国の中間層にとっては、競争が激しくなって経済的地位も低下するのだから、グローバル化=貧困化以外の何者でもない(その分中国の未就学児童が学校に行けるようになるかもしれない、と考えて納得できるほど普通の人は悟りをひらいてはいない)。 


このごとく、グローバル化の問題点は、システムそのものに内在しており、個別企業を悪役にしたてて叩けばすむような話ではない(個別企業はもとより国家でさえ対処が難しい)。それをミシェル・フーコーのいう『生の権力』の問題と言えばいいのか、東浩紀氏がいう『環境管理型権力』の概念がよりしっくりくるのか、はたまた、もっと説明能力のある思想があるのかはわからないが、いずれにしても、個別性を越えた、このような権力構造にどう向かうべきか、というのが正しい問題設定のはずだ。



3つのアプローチ


となると、私の知る限り3つのアプローチがある。


(1) アーキテクチャ

  → 悪いことができなくなるような、あるいは良いことをすれば
    報酬があたえられるような仕組み/システムを作る
    (監視カメラ、ウィキリークスゲーミフィケーション等)


(2)規律・訓練(ディシプリン

  → 教育・訓練等を再構築して、自律的に悪行(Googleの言うところのEvil等)に
    踏み込まない人や企業を増やす。
    マイケル・サンデル氏の主張するような、コミュニタリアン的な
    価値や正義を再構築することも含まれる。


(3)古い他律的な秩序(国家、家父長制的な家族やコミュニティ)の復活



内田氏の思想の価値


内田氏の著作はどれも沢山売れて、広く読まれている。この内の何冊かを拝読したかぎりだが、上記の議論に引き寄せて言えば、(2)の部分につき、非常に深く含蓄のある思想が提示されていて、大変参考になる。(内田氏の主張したいのは(3)なのではという向きもあるが、私にはそうは思えない。内田氏自身がかつては古い秩序や権威に反抗した団塊世代のマインドを今でも色濃く持つ人であることは明らかだからだ)。


中でも、内田氏が各所で展開している『贈与の概念を完全に捨象してしまった経済学の問題点』『経済性やビジネスの観点を持ち込むべきではない領域(教育等)』等の論点には賛同できるところも少なくないし、今後、上記の問題解決の糸口としても、『キーコンセプト』になっていくに違いないと考える。だから、賛否は別として、昨今のような炎上騒ぎで、このような内田氏の思想の重要なエッセンスまで軽んじられ、議論の俎上に上る妨げになってしまうとすると、大変な損失と言わざるをえない。



根本問題の解決の可能性


かつては透明性と公正さを体現していて、維持にどれほどコストがかからないツールは、貨幣しかなかったのが、昨今のインターネット技術の発展のおかげで、他のパラメーターやツールの導入の可能性が現実的になってきた。評論家の岡田斗司夫氏の言う『評価経済』の概念などその典型的な例と言える。貨幣で評価される以上に、別の点で(信頼、尊敬等)もっと高く評価され賞賛されるようなサービスや財、企業活動というのはいくらでも存在する。逆に貨幣価値が高くても、低くしか評価されないものも少なくないはずだ。それが可視化されればシステム内のツールや評価軸として利用できる可能性が開ける。実際の経済活動には厳然として存在するのに、近代の貨幣経済/経済学からは捨象されてきた贈与、友愛、奉仕等の概念が融合されて行く可能性が開ける。すなわち、今やっと、(1)と(2)を融合し、昇華することで、現行の経済/経済学が抱える根本問題に対する有効な策が生まれそうな可能性が見えてきたとも言える。


ただ、私は『贈与』等の概念を貨幣経済に持ち込むことのリスクについて、過小評価しているわけではない。空気支配が強すぎる日本では、過度な同調圧力や、愛憎の憎の部分が強くなる恐れも否定できないからだ。それに、長く同調圧力に辟易してきた私は、近代貨幣経済の頂点にいる米国発のマクドナルドのようなサービスの『儀礼的無関心』は決して嫌いではない。


いずれにしても、この議論が本格的に盛り上がるのは、むしろこれからだろう。もう少し観点を変えて、さらに論点が深まっていって欲しいと切に願う。