2013年以降の基本姿勢について

2013年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。


難し過ぎるトレンド予想


昨年末、長く懸案だった10大ニュースを書くことができたので、その勢いで年始第一段は、『2013年のトレンド予想』と行きたかったのだが、書きかけてみて、これこそ難しすぎて手に負えないことを痛感することになった。個別のトレンドや起きてきそうな問題を指摘することはできないわけではない。だが、それを受けて市場や社会がどう変化していくのか、どうしてもうまくイメージが像を結ばない。どうやら、今までの自分の蓄積程度では想像が追いつかない変化が起き始めている、という直感だけはいやに生々しい。



陳腐化してしまった旧来の『分析装置/セオリー』


かつて、このブログを書き始めるにあたって、自分のいる場所から見えるビジネスの諸問題に係わる分析や考察に可能な限り取り組んで行こうと考えた。ただ、表面をなぞるようなどこにでもあるニュース記事の受け売りでは面白くない。痛烈な反対意見をもらうことになってもいいから、自分なりの言葉で、自分が本当に見えたものを書こうと思った。だから、具体的な案件を取り上げた場合でも、その案件の背後にある構造や、表面から見ているだけでは気づけない関係性やコンフリクトなど、少しでも物事の深層を理解し、分析してみたいと考えてきた。そのために、というわけではないが、自分なりに思考実験を繰り返して磨いてきた『分析装置/セオリー』も多少は蓄積しているという自負もあった。


そんな私だからこそわかることがある。従来の分析装置/セオリーの大半はもはや耐用年数切れで、そのままでは使えなくなっている、ということだ。起きてくる出来事を何の備えもなく、脈絡なく追っていたところで、あまりに多くの複雑な問題が絡み合ってしまった今の時代の現象を正しく理解することは到底できない。だからこそ、参考点としての分析装置/セオリーはしばし非常に貴重なのだが、一方、だからといって手あかの着いた分析装置/セオリーをやたらに振りかざしても、今はそれ自体が一番うさんくさく見えてしまいかねない。



恐るべき実例


卑近な例で恐縮だが(そして何度も同じ事を語ってきたので、長く私のブログを読んで頂いている人には飽き飽きかもしれないが)、90年代からゼロ年代にかけて、日本企業が金科玉条としてきた選択と集中の経営方針など、手堅いセオリーに見えながら、実は多くの会社を破滅に追いやった典型的な一例といっていいと思う。かつて、日本では自動車でも家電でも、どの会社もフルラインアップを目指してぶつかり合っていて、市場が成熟し飽和した後までそれを続けることにはそもそも無理があり、それぞれの会社の強い分野に資源を絞り込んで市場のトップを狙う戦略は、それなりに合理性があったことは確かだ。ちょうどその頃、自社の事業で、市場で1位か2位を取れない事業は、片っ端から切り捨てて事業整理に成功し、伝説の経営者に駆け上がったGEのジャック・ウェルチ氏の存在があまりに輝いていた、という背景もある。


だが、実際日本の企業の内側からそれを見続けた立場で言えば、日本流の『選択と集中』は、自社や他社がそこそこに成功している(成功した)分野に自閉して、新規で尖ったこと(それこそ『イノベーション』だと思うのだが)を『自社の強みではない』と分別して(しかもごたいそうに企業の秀才を集めた経営企画部門等が大量の過去のデータ分析を行った上で)取り組むことをやめさせるための『理論』として機能した。稀に、何か新しい企画があたって儲かったりしても、今度はその『利益』にしがみつき、イノベーションではなく、『改善』に取り組む。そう、この『改善』も、もう一つの『万能のセオリー』とされてきたわけだが、誰もがわかりやすい改善こそ、個性を奪い、どこにでもあるような製品やサービスに成り下がってしまう元凶になっているのに、成功体験を持つシニアほどそのことに気づくことができない。『改善』も一つの『イノベーション』というような倒錯を信じきっていたりする。確かに、今だにアナログで、『垂直統合』、『擦り合わせ』が強みとして生きている自動車産業なら、閉鎖環境での『改善』が他社が追随しにくい差別化要素になる構造があることも確かだろう。だが、『モジュール化』、『水平分業』、『デジタル化』、さらには『オープンソース』が急激に進行するITや電気産業で、自社に閉じこもった『改善』を金科玉条とするのは、カテゴリー・エラーとしかいいようがない。同様の例があまりに多いと言わざるをえない。



ノスタルジーは戦略ではない


蛇足だが、最近団塊世代の経営者に、昔を懐かしみ、古き良き時代へのノスタルジーを語る人がやたらに多くなっている印象がある。私も古き良き時代の持っていた美点自体を否定するつもりは毛頭ないし、人並み以上に理解できるつもりでもいる。だが、日本的経営が全盛期のころと比べて今は環境が極端に違ってしまっているのに、原点回帰だけが戦略ではさすがに芸がない。まるで、性格が温厚で人情はあるが腕の悪い医者にかかってしまったような気分になる。外から見ていてもそうなのだから、その経営者が舵を取る会社の有為な若手の暗澹たる気持ちはいかばかりだろう。古き良き美質を経営にいかしたいなら、市場のゲームのルールを自分で作り直すくらいの壮大な覚悟で臨む必要がある。それができれば、大経営者として歴史にも残るだろう。だが、リアリズムなき夢想は、変革のリーダーが求められている今の時代にあっては、幻滅しか生まない。



本当のところ誰もわからない?


安倍新政権になって、『公共投資増額』『金融緩和』『電機や素材など国内製造業の競争力強化に向けた公的資金による 工場や設備の買い取り』等の政策が打ち出されているが、同じような不安を感じている人は多かろう。かつては有効だったセオリーや施策が今も有効かどうか、誰にも本当のところはわからなくなっているということだ。そもそも、しぶとく命脈を保ってきた『資本主義』でさえ、グローバル/多国籍企業と国家や国民との利害相反が大きくなってきており、いかなる修正を加えれば、今後とも生きながらえることができるのか、はっきりと語ることは難しくなってしまった



答えがあるとすれば・・


では、どうすればいいのか?


正直、私にも明確な答えはない。ただ、先ず言えることは、旧来の権威、理論を振りかざす人や組織の言う事を鵜呑みにすることにはリスクがある、ということだ。自分で考えるのは無理だから、誰かに託す、ということがこれからは一番危ない。『自民党にはもう任せられないから、民主党に任せてみよう』、というのが機能しなかったことは誰の目にもはっきりしたはずだ。だから、『今度はもう一度自民党にお任せ』、というのも機能しないことは明白だ。同じことがあらゆる局面で起きてきている。


それと、テクニカルなことばかりに拘泥していては、それこそ泥沼にはまる可能性が大きいということも言えそうだ。過去に作られた戦略や理論が有効であるための前提自体が崩れてきているからだ。今や、市場や社会を耐えざる変化・流動として把握できる想像力と『価値』そのものを見直すことができる思考力がなければ、どんな戦略も理論も役には立たない。


そして、仮にも有効な策があるとしても、それは従来の組織や団体からは出てこないだろう。鋭敏な感性と機敏な行動力を併せ持つ、個人からしか出てこないと考えておいたほうがいい。その個人の力を抑制せずに如何に引き出すことができるのか。『組織』にやるべきことがあるとすれば、それしかない。『コンセンサスより個性』、『安定より変化』、『依存より自立』、そういう時代がやってきている。安定期には『組織』重視に勝ち味があったが、今の時代は違う。それを認めるところからしか、未来は切り開けないと思う。そして、個人では扱い得ないような、規模が大きかったり裾野が広いビジネスは、そのような『個人』がフラットに、水平に結びついていくことで実現されていくと考えられる。(もちろん、グローバルに関係が広がって行くことを想定している。)



個人と個人の距離が縮まる未来


最近、こういうことを書くと、今のグローバル化は特定の多国籍企業の利益に資するばかりで、そのために国民国家は搾取される一方なのだから、そんなグローバル化に反対していくことが必要ではないのか等、お叱りを受けることも多くなってきた。だが、それが事実だとしても、IT技術の進化がますます世界中の個々の距離を短くしていくことをもう止めることはできない。『多国籍企業vs国家および国民』という構図ばかりではなく、世界中の個人と個人がもっと緊密に結びつくという別の構図もこのグローバル化とIT技術の進化の重要な副産物だ。それは必ずしもネガティブとは言えない。自分の努力次第で良くして行く可能性のある未来だと思う。ある特定分野のことを聞くのに、社内で隣に座っている人より、同じことに興味を持っているニューヨークの誰かに聞く方が有益ということは普通に起きてくる(というよりもう起きつつある)だろうし、仕事の発注も、国内の外注先より、ケニアのエンジニアの方が割安で有能ということが普通になるのに、もうさほど時間はかからないはずだ。語学や商習慣が違う? 確かにそうだが、それはインターネット経由のビジネスの仲介業者にビジネスチャンスが拡大するということを意味するに過ぎない。従来のコミュニティが破壊される? そう、だからこそ、新しいコミュニティ構築が一層、焦眉の急になると思う。



現実を認めた上で


『自立できない社会的弱者を放っておくのか』というような反応をいただくことも少なくない。だが、今のままではその日本自体が世界の弱者になって、今の弱者はそれこそ目も当てられないような悲惨な状態になりかねない。それが残念ながら、世界の現実だ。そもそも日本人のポテンシャルが低いわけではない。枠が取り払われれば自由に輝き出す『個人』は皆が思っているよりずっと多いことを私は確信している。そして、それでも生じてしまう弱者への配慮は、幻想ではなく、現実をベースにして、そこから組み立てていくしかない。



2013年以降の基本姿勢


少々、話が大仰になってしまったかもしれない。だが、このような状況認識に基づき、私自身は、2013年、というより、2013年以降の基本姿勢を次のように決めてやって行こうと思う。


1. 変化を受け入れむしろそれを活用すること


2. ルールにふりまわされる側ではなくルールを作る側にまわること


3. 皮相的なテクニックではなく『価値』と『構造』を重視すること


皆さんのご意見も伺うことができれば幸いだ。