日本の家電メーカー復活の鍵は?/CEATEC雑感

CEATEC JAPAN


先日(10月4日)、幕張メッセで開催されていたCEATEC JAPAN(Combined Exhibition of Advanced Technologies アジア最大級の規模を誇る映像・情報・通信の国際展示会)に出かけた。
http://www.ceatec.com/2012/ja/index.html


この10年間、ほぼ毎年行っているので、自分にとっては例年の恒例行事ではあるのだが、今年は、日本を代表する家電メーカーである、ソニーパナソニック、シャープがそろって歴史的といっていいほど巨額の損失を計上(昨年度3月決算)するなど、日本の家電メーカー全体で見ても、重大な岐路を迎えている年ということもあり、個々の技術以上に、全体の雰囲気というか、業界の『空気』を感じてみたいと思っていた。



日本の家電メーカーに対する違和感


この数年ずっと感じていた、日本の家電メーカーに対する違和感がとうとう劇的かつ厳しい結果となって現れてしまったことには、さすがに私も慄然たる思いがあるのだが、その現実を踏まえて、多少なりとも反撃の兆しが見られるのかどうか。その灯火は今は小さくとも、やがて転換の旗頭になるような技術やコンセプトに出会うことはできるのか。


ジャーナリストの佐々木俊尚氏の最新号( 2012.10.8発行  Vol.214)のメルマガに、私の感じた違和感が、非常に具体的に言語化されているように読める部分を見つけたので、引用させていただこう。CEATEC JAPANの取材で来日していた、イギリスのBBCが放送している『Clic(クリック)』という、IT関連の最新情報を紹介している人気番組のプレゼンター兼プロデューサーであるスペンサー・ケリー氏へのインタビュー記事の一節である。

【佐々木】今後、どのようなテクノロジが人を惹きつけると思いますか?


【スペンサー】二つの異なる視点があると思います。ひとつは、業界がどのような技術に注目して、それを消費者に売りたいと考えているかという視点。もうひとつは、われわれ個人にとって今後技術がどうなるのかということ。前者に関して言えば、テレビの3Dの技術などを家電のメーカーが売りたいと考えているというようなことです。そうすると、その種の技術の情報がメディアで大きく広がってくるということがある。でもそういう技術が私たちにとって本当に必要なのかどうかをみきわめる必要がありますね。


 一方でいま現在、人々にとって役立つ技術というのはとてもベーシックでシンプルです。たとえばSNSみたいなもの。ツイッターのテキストメッセージなんて技術自体は複雑でもなければ革命的でもありません。ただ新しいアイデアがあり、そのアイデアで人と人の新しいコミュニケーションを可能にしているだけです。つまりわれわれにとって重要なのは、技術のスペックなどではなく、知識を使う自由とそのアクセスを可能にする手段、人と人をつなぐこと、自分自身について知ること、学ぶこと、自分が利益を得ること。そういうことを行うための技術が必要になっているのだと思います。


【佐々木】スペックが意味が無くなるというのは本当同意です。日本の家電メーカーはそのあたりの認識がいまだに遅れていて、「自社の技術がコアコンピタンスになるんだ」と信じている。しかし消費者は違う方向を見ていると思うんですよね。これはそもそも「技術」ということばの定義が変わってきているのではないかとも思うのですが。

スペック一辺倒の限界


いかにきらびやかに、ハイスペック(3Dテレビ等)をアピールされても、ある段階を越えると、もはやさほどワクワクしない。もちろんまったくしない、というのはうそになる。だが、それは『部品』としての良さではあっても、『商品』としての満足度とは別物だ。『部品』のクオリティーでは今でも日本のメーカーが非常に優れていることは誰しも認めるところだ。現実に、アップル製品(iPhoneiPad等)に採用されるハイクオリティの『部品』の多くが日本企業から提供されている。だが、そこには新興国企業との絶えざる過酷な競争が待っていて、現実に日本のメーカーとの距離は縮まる一方だ。生き残りたければ、『商品』、さらにいえば『商品コンセプト』で競合を上回り、勝ち抜くしか道はない。そのためには、スペックだけでは競争の軸として十分ではない。


アップル等が市場を席巻するにつれ、そのコンセプトの違いを否応なく突きつけられ、日本の家電メーカーの間にも、さすがにスッペック一辺倒ではもう消費者を満足させることは難しいという認識は浸透したはずだ。その現実に対する日本のメーカーの回答が何かあるのか。それとも、佐々木氏がいうように、いまだに認識が遅れたままなのか。



スマート化


全体的に、クラウドスマートフォンをベースに、家電、住宅、自動車等連携させて、省エネや利便性の向上を目指すタイプの提案は多かった。そして、連携することによって省エネ、省力化、利便性や操作性の向上等が実現できることを称して『スマート』の冠が被せられている。『スマート家電』『スマート住宅』『スマート自動車』と行った具合だ。


確かに、原発事故の影響もあって、新エネルギーへの転換や社会全体のエネルギー効率向上の要請は強く、上記の意味での『スマート化』の必要性は明確だ。だが、このコンセプトの中核を支えるのは、ネットワーク技術であり、大型のシステム開発だ。日本企業では日立、三菱、東芝等の総合家電メーカーが主役ということになる。電力に限らず、農業、交通、都市開発等、社会インフラ全般を対象にして、スマート化に取り組む方向は、ポテンシャルも大きく、日本の実情に精通した日本の総合家電メーカーに競合上の優位性もありそうだ。



展望が見えない弱電メーカー


だが、ここに弱電系の家電メーカーが入り込む余地があるだろうか。『スマート化』した家電は、単体のスペック至上主義を乗り越えて、スペンサー氏のいう、『人々にとって役立つ技術』として認知してもらうことができるのだろうか。辛口な感想をいわせていただくと、この点ではまだ、納得のいく提案が出てきたとはいい難いいくら家電をスマートフォンクラウドにつなげたところで、それが目指す到達イメージがまだ貧困といわざるをえないNTTドコモのデモンストレーションにその典型例を感じてしまった。



豊かさの概念の違い?


NTTドコモのブースでは、“スマートライフ”をアピールするための独自のステージを設け、スマートフォンと家電メーカー各社が出品する家電の連携についてデモンストレーションを行っていた。
YouTube


帰宅直前に、スマートフォンを操作して室内の照明を点灯し、部屋についたらワイヤレススピーカーにつないで音楽を流し、決めておいたレシピに合わせて電子レンジが最適な時間で調理をしてくれる。また、部屋の中では、スマートフォンの代わりにロボットが音声で明日の予定の確認や出張のための準備を手伝ってくれる。確かに、一昔前に想像された、『便利で快適な生活』がいよいよ実現されてきているという印象ではある。だが、正直どうしても私の気持ちは華やがない。ここで示された『生活』から連想したのは、チャップリンの映画、『モダン・タイムス』*1 *2だ。この映画が描くのは、生産性の向上→大量生産→利益の向上→労働者の収入増→消費の拡大→企業利益の増大→大量生産→労働者の収入増→大量消費...という大量生産、大量消費が無限にループする現代社会の構図だ。この断面として、生活は自動化し、機械が何でもやってくれるという意味での『豊かな生活/空虚な利便性』が皮肉たっぷりに描かれる。今回のNTTドコモのデモンストレーションで想定されている『豊かな生活』もこれと同根といえるのではないか。何もかも機械が肩代わりしてくれてた結果、楽にはなるかもしれないが、やることがなくなって部屋でポツンと一人残される孤独。それが『豊かな生活』なのだろうか。この空虚な無限ループから、いかに抜け出して、本当の人間的な豊さというのは何かを探求していこうとする志にこそ、現代の消費者は共感するのではないのか。実はその姿勢が一番感じられるのが、アップルだったりする。



無限の宇宙に繋がるオタク


部屋の中の生活といえば、現代の日本で典型的に誰もが思い当たるのは『オタク』といわれる人種ということになろう。彼らは一見人との付き合いを断って、一人部屋に引きこもってアニメとか漫画の世界に没頭しているように見える。もちろん、そういうオタクも少なくはないのかもしれない。だが、現代のオタクの多くは、インターネットによって自分の趣味・嗜好の合う人を広大な世界から探し出し、長時間繋がり、交流している。いわば、自分の部屋は自分の秘密基地として外の世界からは遮断されているが、実はそこから普通の生活世界とは別の無限の宇宙に繋がり、深いコミュニケーションの中に沈潜している。そのコミュニケーションにこそ、豊かさを感じている。



重要な『コミュニケーション』


ここで、先に引用した、スペンサー氏の一言をもう一度参照してみていただきたい。

われわれにとって重要なのは、技術のスペックなどではなく、知識を使う自由とそのアクセスを可能にする手段、人と人をつなぐこと、自分自身について知ること、学ぶこと、自分が利益を得ること。そういうことを行うための技術が必要になっている。


豊かさの意味もそれに貢献する技術も、消費者の向いている方向も、すべてを見直してみる覚悟が必要だと思うのだが、どうだろうか。


コミュニケーション、という意味では、NTTドコモのデモンストレーションでも、ロボット(NECと共同開発)が登場して、孤独な生活にコミュニケーションをもたらす試みが行われているではないかといわれる向きもあるかもしれない。だが、あれでは、決まりきったフレーズを反射的に繰り返す、ウグイスやオウムとさほど変わらない。私はいつも、コンビニの店員の決まったポーズと決まったトーンの『ありがとうございます』を聞くと、心が冷えていく気がするのだが、それを思い出してしまう。一方通行で突き放されたような、機械的な反射は、コミュニケーションというにはあまりに寒々としている。


不完全で、非合理で、時には悩まされ、それでいて、暖かみがあり、ユーモアに富み、思わぬ発見があり、深淵な驚きさえ与えてくれる。そんな人間的なコミュニケーションこそ今最も求められているコミュニケーションであり、それを促進してくれる技術こそ、人々が今一番望んでいる技術というべきだろう。簡単な技術しか背景にないはずのSNSが熱狂的に受け入れられていることがそれを証明している。



期待し、待ちたい


非常に素晴らしい要素技術を持つ日本の家電メーカーが、近年、商品としては魅力あるものを提供できなくなってきている秘密の一端は、案外こんなところにあるというのが、私の年来の主張でもある。人間や市場に対する物差しのあて方が、いかにも古くなってしまっているように思う。家電メーカーの中で、そういう意味での人間観や市場観の根本的なシフトが起きれば、社内に培った優れた技術を生かして魅力ある商品を再び世に送り出すチャンスはまだ残されているはずだ。期待し、待ちたいと思う。