尖閣諸島問題/私なりの総括

山を越えた?


日本政府の尖閣諸島国有化宣言に端を発した、中国の一連の騒動もやっと落ち着きを取り戻しつつある。反日デモの影響で休業に追い込まれていたトヨタパナソニック等の中国の工場も徐々に稼働が再開されるようだ。楽観は禁物だし、まだ余波と思われる事象(尖閣諸島の周辺海域にとどまる漁業監視船、天津税関における尖閣諸島国有化に反発した対抗措置と考えられる通関手続きで荷物の検査率を上げると通告するような行為等)はあるものの、とりあえずは山を越えたかに見える。



ダメージは深刻


しかしながら、今回日本側が受けた衝撃は非常に大きい。物理的なダメージや被害金額もそうだが、それ以上に深刻なのはむしろ心理的なダメージのほうだろう。前回の尖閣諸島を巡る衝突(2010年9月)でも、当初様々なデマに近いような悲観的憶測もないわけではなかったが、『本格的な反日は自国の経済発展の妨げになることは明らかで中国政府当局も望んでおらず、ガス抜き的な反日デモも過激にならない限りは放っておくだろう』というような楽観論がほぼ支配的だったし、実際、喉元を過ぎれば何事もなかったかのように収まってしまった。だから、今回も当初はかなりの中国通でも単なるお祭り騒ぎ程度にしか受け止めていなかったふしがある。従って、これほど広範囲で、しかも、工場や店舗を破壊するほどの過激さで起きた反日デモを見て、凍りついてしまった人は少なくないはずだ。越えることはないだろうと高を括っていた一線を一旦越えられてしまうと、次はどの当たりでなら歯止めがかかるのか予想できなくなる。そもそも歯止めがあるのかどうかさえわからなくなってしまう。



国家的危機か


2012年3月期決算でそろって過去最大規模の最終赤字を計上した家電3社(ソニー、シャープ、パナソニック 赤字額は計1兆6000億円)は、日本ではドラスティックなリストラを断行しつつある一方、海外市場に大幅に力点を置き換えて生き残りに必死だ。中でも、巨大な購買力を持つ中国市場にかかる期待は大きかったはずだ。だが、今回の騒動で不買運動に巻き込まれて、市場シェアは激減してしてしまったようだ。*1 これが長引けば、中長期的な販売低迷はおろか、市場から閉め出されることさえ現実味を帯びてくる。同様のことが日本から中国に進出した2万社を超える会社に該当する懸念があるとなれば、これはまさに国家的危機以外の何ものでもない。



今回の事件の理解


さすがに今回の件に関しては、すでに数多くの分析や解釈が出てきているが、大方以下のような理解が確からしく思える。(あくまで私の理解では、としておく)

解決が困難で両国民が先鋭化しかねない領土問題は、外交の智慧にまさる中国側が(周恩来から蠟小平にいたるまで)棚上げを提案し、日本側も合意してその線が守られてきたのに、今回の日本政府の措置(国有化)は、その外交合意を一方的に踏み越え、中国側の面子を潰してしまったため、中国政府側も何らかの政治的デモンストレーションが避けられない状況に追い込まれた(日本が追い込んだ)。


今回に限らず、デモや政治的な示威行動は中国では政府当局の承認がなければ行えない。従来から反日デモは黙認されてきたが、今回はそれに加えて当局がなにがしか関与して反日デモ尖閣諸島への船舶の航行を仕掛けた可能性が高そうだ。


しかも、中国共産党中央政治局常務委員会の9人のメンバーのうち7人が入れ替わる微妙な時期(10月の党大会で発表)であり、この政争のカードに使われたとも考えられる。反日デモが先鋭化して政府に対する民主化要求に転化する恐れ、国際的なイメージが悪くなる懸念、経済活動停滞による経済的な悪影響等、皆わかっていながら、どの政治勢力も『弱腰』『売国奴』等、レッテルを貼られたり、後ろ指をさされることを避けることを優先せざるを得なかった。


当たらずと雖も遠からず、というところだろう。だとすれば、10月の党大会以降は沈静化し、日本企業が市場から閉め出されることを過度に恐れる必要はない、ということになる。



不安感は払拭できない


だが、今回ばかりは、こういう説明を聞いたところで根本的な不安感を払拭することは難しい。それでなくても、加熱が過ぎた中国市場のバブル崩壊の懸念、コスト急増に伴う生産工場の他国への移転等、昨今の中国には不安材料が満載なのだが、こんなことでは、外交音痴としか考えられない日本政府が、始終なにかやらかさないかおびえ続け、何か起きるたびに、中国の国内の政争に振り回され、理不尽な扱いを受けることを甘んじるしかなくなることになりはしないか。



民主化が解決してくれる?


日本のビジネスマンの中には、そもそも政治的な動向はさほど理解する必要などない、という人も少なくない。経済的な関係だけでクールでドライにつきあっていくべきで、それ以上関係を深めることは無理と考えるほうが無難という考えだ。理解しようとしても出来ないものを無理に理解せずとも、商売ができればそれでいい。それに中国の経済が発展してくれば共産党独裁も崩れて、遠からず西欧先進国のように民主主義国家になるはずだから、そのうちもっと理解できるようになっていくはず、というわけだ。だが、本当にそうだろうか。



益々よくわからない


民主主義の先輩であるはずの日本の経済は退潮が著しいのに、共産党一党独裁が崩れる気配もなく、つい先頃も重慶事件*2 *3のような日本人にはとても信じられないようなスケールの大きな政治スキャンダルが起きるような、日本人の感覚からすれば前近代的な国のはずなのに、経済は日本をさし置いて発展を続けている。


さらに言えば、日本にとって先進国のお手本であったはずの欧米諸国も、今や政治でも経済でも混迷の度を深めるばかりだ。中国に対してどのようなスタンスを取ればいいのかわからなくなるだけではなく、そもそも日本は国際社会(市場)の中で何を目指すべきなのか、どうすればいいのか、ますますわからなくなったと感じた人は多いのではないか。


問題の根幹にあるのは、『中国/中国人のことがどうしても理解できないこと』だろう。どうやら、今回の尖閣諸島の問題は、日本人の根本的な国際理解の刷新が必要とのシグナルになっているのではないか。私自身、ビジネスの環境として、あるいは市場として、中国を理解したいと切に願う者の一人だが、過去自分が学んできた政治経済の理解の枠組みでは理解不能な事態になってきていることを痛感する。



『中国化』という視点


だが、今回の問題を考え直してみるにあたって、幸い私には拠り所があった。先日も当ブログで紹介した、愛知県立大学文学部准教授である、與那覇潤氏が指摘する、『中国化』という視点だ。與那覇氏の『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』*4は本当にすばらし著作だったが、今回出版された、與那覇氏と経済学者で著名なブロガーでもある池田信夫氏の対談をまとめた『「日本史」の終わり』*5で、『中国化』、さらには日本の特異なあり方としての『江戸化』等の概念を使いながら、より具体的で身近な問題の分析が行われていて非常に興味深かった。


前回の私のブログ*6にも、誤解/誤読と思われる意見を沢山頂戴したが、ここでいう『中国化』というのは、現代の中国のことではなく、宋代に完成した政治モデルのことをいう。皇帝に権力のすべてが集中していて、皇帝以外には特権階級(貴族、国王等)はおかず、身分制や世襲制は撤廃されて、すべて同条件で自由に競争する。個人の経済活動や職業選択の面では自由になるが、政治的には超強力な中央集権の権力が発動され、その下で思想も画一化される。皇帝を輔弼する官僚は、儒教イデオロギーを徹底的に身につけることが求められる科挙という試験を通った者だけが採用される。


法律に対する概念も西洋とは正反対だ。西洋では普遍的なルールとして王権を制限し、権力の発動を抑制するためにコモンローが出来て、利害対立を法律で解決することが基本になった。中国では問題が起きれば皇帝や官僚が属人的に解決し、法律はその権力を支えるためにある。西洋では法は立憲主義的に上を抑えるために下からつくられるが、中国では上からおろして行く。官僚は公僕ではなく、皇帝の考え方を効率的に実行するために存在する『機関』ということになる。一方、中国には、ローマ法王のような統一的な宗教の権威もいないから、皇帝に世俗の権力だけでなく、宗教的な権威も集中する。法を上からおろすと行っても、始皇帝の秦のように抑圧一辺倒では国が持たないから、多くは専制君主ではあるが儒教的な徳治を掲げていくことになる。司法官は科挙に受かった行政官が兼ねていて、儒教道徳に則っているかどうかで判決は斟酌されるから、法の下の平等の概念もない。



『西洋化』とは違う尺度の必要性


いわゆる『西欧化』とはまったく違うタイプの『中国化』によるグローバル化を対置してみることで、上記であげた疑問に対する、現段階でもっとも納得性のある回答(仮説)を導けるように思う。中国および中国圏の国々で起きている事象及び未来、さらには、日本の『改革派』『グローバル化勢力』等の真意を分析するにあたっても『西洋化』ではなく、『中国化』と見る方が理解が進む。

たしかに、中国でこれから起こる変化を理解する上でも、『西洋化』とは異なる尺度を持っている必要がある。特に個人的に重要だと考えているのは、『民主化』の問題ですね。政治と経済はワンセットで動くから、経済発展は民主化を促進する、という『西洋化』の物差しが中国には通用しなさそうなことは、すでに述べた通りですが、私はもう一点、大きな問題があると思います。
 それは、現在の西洋のリベラル・デモクラシーから逆算されて作られた、民主主義が進展すると(政治的な)自由主義も育成される=『民主化すれば価値観も多元化する』という公準ですね。これはかなり怪しいと思う。
 多元的な価値観をもっているのはシステム2が機能している一部のエリートだけであって、『民主化』によって政治に参入してくる一般民衆はシステム1だけで動いていることが普通なのだから、民主化すればするほど、社会全体の思想が画一化されて他社に不寛容になっていくという未来は、十分に想定しえる。 同掲書 P87


中国が『民主化』に向かっていると想定するから見えるものも見えなくなるが、『中国化によるグローバル化』が進んでいることを前提とすると、今の中国の現実が非常にすっきりと見えてくる。西洋の特有の法律の概念を中国にそのまま当てはめることにも無理があることもわかってくる。今後起きてくるであろう真の問題、日本との関係、日本と中国の齟齬の本質等も皆、『西洋化』の色眼鏡を取って見たほうが遥かに視界がはっきりとするはずだ。



外交のすれ違い


今回の尖閣諸島の外交についても、中国らしさと日本らしさの乖離がはっきりと出た事例といってよさそうだ。與那覇氏によれば、中国人は数百年以上『儒教国家』を生きているから、儒教道徳というのはすぐには実現できない『建て前』であることが見に染み付いていて、その中で自分がいかにふるまうべきかを考えることができる。建て前と現実がずれていることがわかっていれば、うまいところで塩梅しようとするという。だから、『棚上げ』という智慧が自然に出てくるのだろう。一方日本は、生真面目で、本気で建て前を実現しようとして、よりひどいことになってしまったりするという。(このことを説明するために、昨今の日本の過剰コンプライアンスの事例があげられている。)まさに今回のすれ違いの原因そのものではないか。



日本こそ特殊


中国が西洋のモデルと明確な違いがあることはわかったが、では日本はどうなのか。日本人は、日本は中国に先駆けて西欧化、民主主義化に成功して、法律や契約についても西洋的なモデルが浸透していると思っているが、これこそ大いなる誤解と言わざるをえない。法の支配/司法の独立性という点については、與那覇氏の指摘どおり、日本も中国同様欠如している。その点は中国寄りだ。だが、決定システムということになるとかなり違うようだ。與那覇氏は、日本は世界に類を見ない平和な国で、しかも、江戸時代という特殊な時代を長く過ごしたため、法律等で決定していくような仕組みがなく、何となく決まって行くにまかせてしまったため、『何も決められない』『何も変えられない』国になってしまったことを指摘している。これは、企業の現場にいても本当に実感することで、しかも、これを改革しようとすると決まって、『皇帝』が出てきて困った専制が始まってしまう。まさに中国化してしまうわけだ。



サバイバルゲーム


国家として、あるいは企業としての日本は、中国との関係維持を好き嫌いで決めることができる段階はとうに過ぎていて、関係を絶つ選択はもはやありえない。だから、開き直って、本当に真剣に中国を理解すること(反面としての日本理解)に真剣に取り組むべき時がきていると思う。そうでなければ、これから第二、第三の尖閣諸島問題が次々に起きて、対応不能になってしまうだろう。