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ソーシャルメディアの過渡期/メディアにどう向えばいいのか

2012年上半期の総括


ふと気づくと2012年ももう半分過ぎている。もうそろそろ上半期総括が出てもおかしくないような時期だ。本当に毎日が飛ぶように過ぎていくから、そんなことは普段は考える余裕もないのだが、せっかく思いついたので、総括とまでは言わないまでも、この2012年の前半自分が一番気になるトレンドは何なのか振り返ってみようと思い立った。もちろん、本格的な総括をやれる準備も心構えもないから、あくまで『直感』にしか過ぎないのだが、それでも一旦考え始めると結構色々なことが頭をよぎるから不思議なものだ。そうしていくつか絞り込んでいく中で、これは一度ブログに取り上げるなりして、考えておいてもいいかもしれないと思ったキーワードが、ソーシャルメディアの過渡期』である。


もっとも、こんな漠然とした設定では、勃興期から常に激動の中にあるのがソーシャルメディアなのだから、いわば『いつでも過渡期』と言っていいくらいのものだだろうと言われてしまいかねないし、それは私も認めるのにやぶさかではない。だが、単にサービスタイトルの主役交代とかサービス間の競争とか(mixiが不調でFacebookTwitterに流れたのが、今度はLINEに回収され始めたというような)ではなく、『ソーシャルメディアの過渡期』がまた『日本自体の過渡期』でもあるような、静かだが決定的とも言える転換点をソーシャルメディアが迎えていることを感じさせる兆候が、ちょっと注意しているとあちらこちらに見られるようになってきている。それが2012年の上半期という時期なのではないかと思う。



歴史的な転換点


ソーシャルメディアに限らず、日本のメディアに全般に関わる『事件』として、3・11の震災が歴史的な転換点であったことは、もはや『常識』になろうとしている。それ以前にも、旧来のマスメディアはネット発の大量の情報の波にもまれて青息吐息状態ではあったものの、その信頼性においてかろうじて優位を保ってきたかに見えた。だが、震災が起きて、原発報道等に代表されるように、その報道はスポンサーや会社のステークホルダー等の利害関係者の意向に添って偏向していたり、政府の発表を鵜呑みにしたりしているケースも非常に多いということが露になり、その信頼性はカッコ付きでしかないということを国民は思い知らされることになった。しかも、『王様が裸であること』が一旦知れると、誰もが欠陥と見れば遠慮なく暴くようになった。


例えば、『マス』が解体した日本で、マスメディアであり続けようとするスタンスがチグハグであったり、『戦後民主主義』という物語がとっくに終了してしまっているのに、大多数はまだその夢から覚めていないというようなことまで、かろうじて覆われていたベールもすべて剥がされてしまった。そうなると、そもそもマスメディアの記事がネットにも載るようになって以来進行していた、『マイクロコンテンツ化』(『何々新聞』『何々雑誌』というパッケージ(コンテイナー)が解体され、Googleニュースに典型例を見るように記事単体でバラバラにされること)に拍車がかかり、パッケージ全体としての評価に代わって記事単体で良し悪しが評価されるようになる。マスコミだから皆ダメなのではなく、マスコミ記事にも信頼できる良記事とデマに近い嘘の両方がある。逆に、スポンサーや株主等の影響力が及ばないネット発の情報(Twitter、ブログ等)がすべて公平で信頼できるかと言えば、情報の裏取りが出来ていなかったり、そもそも意図的なデマだったりするケースももちろん多い。出自がどうあれ、どの記事も原則フラットに並ぶことになり、ある意味公平に評価を受ける時代になった。これが震災直後の支配的な認識だったと思う。私自身も、ここからネット発の情報の可能性が広がっていくことに期待していたし、それが可能だとも思っていた。



また村社会化?


だが、その後実際に起きたことを今冷静に振り返ってみると、どうやら少々楽観的に過ぎたところもあったかもしれないと思うようになった。記事がフラットに並んで公平に評価されるようになれば、多種多様な情報や様々な意見を目にする機会も増え、議論も透明で活発になるのではないか。多少なりともそう期待していた。だが、そうではなかった。確かに『見える化』は進んだし、インフラは整備された。しかしながら、実際に起きたことは、結局『村社会化』だった。『原発絶対反対』村、『原発推進』村、『グローバル化礼賛』村、『グローバル化反対』村等々、村社会化が進行し、さらに村は対立構図が生まれるたびに、細分化し、『小さいが熱く結束した村』ができていく。同じ意見を持つものどうしが固まり、相互に熱くロジカルに意見を語りあうのであれば、それは『社会』の進化として評価もできようが、残念ながらあくまで『村』なので『感情的対立』と『感情的結束』はあっても、ロジカルに言論を活発に交わす姿勢はどこにも見られない。むしろ、村の中で主流と違う意見を言おうものなら、すぐに村八分にされかねない。これは憲法学者のキャス・サンスティーンが指摘した、サイバーカスケード現象そのもの、というよりその日本版と言わざるをえない。

インターネットには、同じ考えや感想を持つ者同士を結びつけることをきわめて簡易にする特徴がある。つまり人々は、インターネット上の記事や掲示板等を通じて、特定のニュースや論点に関する考えや、特定の人物・作品等に関する反発や賛美などの感想を同じくする者を発見することができるようになる。加えて、インターネットは不特定多数の人々が同時的にコミュニケートすることを可能にする媒体でもあるので、きわめて短期間かつ大規模に、同様の意見・感想を持つ者同士が結びつけられることになる。その一方で、同種の人々ばかり集結する場所においては、異質な者を排除する傾向を持ちやすく、それぞれの場所は排他的な傾向を持つようになる。
そうした環境の下では、議論はしばしばもともとの主義主張から極端に純化・先鋭化した方向に流れ(リスキーシフト)、偏向した方向に意見が集約される。そして、かような場所では、自分たちと反対側の立場を無視・排除する傾向が強化され、極端な意見が幅を効かせるようになりやすい。そして、小さな流れも集まれば石橋をも押し流す暴流となる道理で、ささやかな悪意や偏向の集結がえてして看過し得ぬ事態を招来してしまう。こうしてインターネットは、極端化し閉鎖化してしまったグループ(エンクレーブ〈enclave、飛び地の意〉と呼ばれる)が無数に散らばり、相互に不干渉あるいは誹謗中傷を繰り返す、きわめて流動的で不安定な状態となる可能性がある。サイバーカスケードとは、こうした「人々が一団となって段階的に押し流されてしまう」一連の現象に与えられた比喩的な呼称である。

サイバーカスケード - Wikipedia


何と、現状の日本そのものではないか!しかも、日本の村社会のネガティブな面である、『相互監視』機能は従来以上に強化されてきていて、わずかでも自分の村の主張と違うニュアンスを感じ取ると、鬼の首を取ったように騒ぎたてる。相手の主張を正確に読み取ろうと努力するどころか、ニュアンスや文脈に脊髄反射し、場合によっては意図的に誤読して騒ぐだけ騒ぐ人も珍しくない。何とも嘆かわしい。



佐々木氏とまったく同じ見解?


この記事を書きながら、あらためて識者のご意見を参考にしようと探しはじめてみると、どうやらジャーナリストの佐々木俊尚氏とほとんど同じ見解になっていることに気づいた。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120710-00000464-playboyz-soci
そう途中で気づいて、書くことを中止して別のことを書こうとも思ったが、この認識に至る経緯よりも、むしろこの状況についてどう考え、どのように乗り切っていくのがいいのか、ということについて書いておきたいとが残っていると思い直したので、恥ずかしながらあえて書き続ける。よければもう少しおつきあいいただきたい。



メディアリタラシー向上は不可欠


環境は確かに嘆かわしい。だが、嘆いてばかりもいられない。この状況をどうすれば脱することができるのか。少なくとも前向きな意思を持って生き抜こうと考える個々人は、どのようにこれを乗り切ればいいのか。そのように思考を切り替えていくしかない。そんな前向きな人が一人でも増えることこそ、日本が危機を乗り切るために最も必要な『要素』だと思う。


今の状況が示唆することは、正しく有益な情報を得ることそのものが、ますます難しくなっているということだ。『もうNHKをみて、日経新聞を読んでいれば大丈夫という時代ではない』のは当然だが、その代わりに『ニコニコニュース』をみて、はてなブックマークのたくさんついた記事を読めばそれでいいというわけではない。それぞれのメディアの特性を知り、個々のニュースの真贋を自分で選り分けることができる能力を身につけることが不可欠になったということだ。情報に受動的でいることは、ビジネスはもちろん、日常生活の隅々に至まで、恐るべき差がついてしまうということを意味する。あらたな格差社会の到来を予期させる事態が健全かどうかと問われれば、健全とは言いがたいと私も思うが、あなたが、自分と自分の守りたい人と、そしてできればその守りたい人が所属する組織や社会を含めて守りたいと思えば、まずあなたがしっかりした自覚を持ってこの時代を乗り切るしか手段はないと私は思う。



ソーシャルメディアの問題点


それにしても、情報収集/議論の場としての、日本のソーシャルメディアの問題点は何だろう。Twitterだろうが、ブログだろうが、個人が語れることなどたかが知れている、というステレオタイプの批判はこの際おいておくとして、もう一段階掘り下げた分析と考察が必要に思える。


今ネットでプレゼンスを持って注目されている人も、そこに至までには、それなりにネット内での『評価』や『評判』による選別があったはずだ。初期の頃なら『アルファブロガー』という冠はあったし、Twitterにしても、フォロワーの数等がそれなりの『評価』として意識されてきたはずだ。それが本当に機能していれば、読むべき記事を見つけることも比較的簡単に出来るし、自分にあった『キュレーター』を見つけることもそう難しいことではない。実際に、今でもネット上の記事や論者の評価は従来通りに行われている。それではだめなのか。



量に偏った評価システム


結論的には、今の『評価』や『評判』のシステムだけでは足りないというしかない。そもそもネットの評価とは何か。端的に言えば、『PV : ページビュー』『ブックマーク数』『Twitterのフォロワー数』『Twitterのリツリート数』『Facebookの、いいね!の数』等、『量』の指標がほとんどだ。もちろん、優れた記事の『質』がそれなりに評価されて『量』の評価も高くなることはある。だが、量的な評価と質的な評価がいつも並行するわけではない。例えば、二つの記事があって、内容的には反対のことを語っているが、そのどちらが正しいか判断するのに、PVやはてなブックマークの数が判断材料になるだろうか。Twitterでたくさん取り上げられるほうが優れた記事だろうか。


はてなブックマークなど、よく言われるように、ライフハック系の記事にはたくさんのブックマークがつきやすい。それに比べると、経済や政治の優れた記事には、どんなに優れた記事だろうと、それだけのブックマークをつけてもらうことはまず無理だろう。『何々新聞』というようなパッケージ(コンテイナー)が取り払われて、内容に関わらず個々の記事がフラットに並ぶようになると、極端に言えば、政治も経済も芸能も同じ軸で評価されるようなことが起きる。しかも、量の評価には、せいぜい賛成か反対かくらいしか表現されない。さらには、『数=評価』の実態を逆手に取って、センセーショナルなタイトルや釣り記事を乱発したり、中には炎上を意図的に演出して知名度をあげるようとしているとしか思えない人まで現れたり、Twitterのフォロワー数を金で買うような行為が横行したりするような有様では、ネットの『評価』や『評判』自体の質も下がるばかりだ。



俯瞰的視野の不在


運良く、ある議題に対して、賛成と反対の同レベルの記事が上がってきたとしても、これはスケダチの高弘氏の主張だったと思うが、残念ながら今のところ、ソーシャルメディアにおいては、『俯瞰的視野』が存在しないから、せっかくの記事の内容が議論等によってレベルが上がっていったり、あきらかに質の低い意見が淘汰されたりということもおきにくい。議論の評価が『いいね!』の数くらいしかないとすれば、それもやむなしと言わざるをえない。



新しいメディアの必要性


こうして状況を見てくると、現段階でどうしても必要なのは、一旦パッケージから分断された大量の記事の中から、質の高い記事を集めて再パッケージ化し、その中で洗練された意見交換ができて、その精髄を積み上げて全体のレベルをあげていくようなことができるようなメディア、という結論にたどり着く。年内に新しい(政治)メディアの立ち上げを宣言する津田大介氏始め、佐々木氏も米国のハフィントンポスト*1の日本版のようなメディアの必要性に言及しているし、その佐々木氏が最近訪問した、服役中の堀江貴文氏も新しいメディアの立ち上げに言及しているという。誰もがこのように言いたくなる状況が今の日本にはある、ということだろう。



新しい風は吹くか?


実のところ、このような質の高いメディアの必要性はずっと以前からあったわけだが、『量』的な評価しかマネタイズが難しい現実に阻まれて、なかなか実現しなかった。今回の津田氏のメディア立ち上げについても同様の懸念はすでに多数出ている。だが、従来の商業的なスポンサーシップではなく、『津田氏の意図や心意気に賛同して寄付的な助成金を出す=メルマガを購読する』というような回路が成立すれば、日本にも新しい風が吹き始める可能性は大いにあると思う。(楽観的だろうか?)



一人一人が『メディア』になるべき


ちなみに、私たち一人一人は、これからどうすればいいのか。このような津田氏のような意欲あるスーパースターの出現を他力本願で待つしかないのだろうか。スーパースターが理想的なメディアを立ち上げてくれようがくれまいが、繰り返しになるが、私たち一人一人はこの厳しい時代に生き残るためには、メディアリタラシーの能力をあげるべく、メディアには受動的(パッシブ)ではなく、能動的かつ積極的(アクティブ)に向かっていくしかない。そうでなければ、価値のない、間違った、大量の情報の波から、価値ある、重要な情報を選り分けていくことがどんどん難しくなっていく。メディアにアクティブに取り組む、と言えば、米国の著名なジャーナリストでブロガーでもある、ダン・ギルモア氏が著書『あなたがメディア!』*2で述べているような、Mediactiveになるべきという主張を思い出すが、まさに一人一人が『メディア』になること、これが最も望ましい情報に対する向き合い方であると宣言すべき時代がとうとう日本にもやって来ようとしている。


さすがに誰もがハフィントンポストのようなメディアになれるわけでもなければ、津田氏や津田氏の後に続くであろうメディアのレベルに到達することは難しかろう。だが、個々人が優良なメディアになればなるほど、ハフィントンポストのような影響力の大きなメディアにも深く接続して、優良な情報交換ができるようになることは断言できる。もちろん、自分の得意な領域については、津田氏のメディアを凌駕するような発信をすればよい。それが可能な時代でもあるし、そういう人のところにこそ最良な情報をもった優良な人たちが集まってくるだろう。それはまた優良コミュニティに接続できることを意味する。ここでいう優良というのは個々人にとって当然意味が違う。ある人にとっては情報の内容は政治経済であり、他の人にとっては漫画やSFであるかもしれない。だが、事の本質は同じだ。



隗より始めよ


来るべき社会が全体としてどのようなものになるのかを見通すことは難しい。だが、一つだけ言えることは、今のように、あらゆる問題が真っ当な議論にもならず、村社会の掟でしか決まらないような状況が多少なりとも改善していくことは望めるはずだ。『まず隗より始めよ』(遠大なことを望むのなら、まず手近なところから始めるとうまくいくものだ。事を始めるには、自分からやりださなければならない。人に言いつける前に自分が積極的に着手せよ、という意味)ではないが、まず自分から初めてみてはどうか。そういう私も、もっと頑張ろうと決意をあらたにしているところだ。