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オウム事件の教訓は生かされているのか

久々に思い出したオウム事件


17年間ものあいだ行方をくらましていた、元オウム真理教信者で指名手配されていた菊池直子容疑者がとうとう逮捕された。最後に残った高橋克也容疑者についても、最近の写真画像が公開され、逮捕間近を思わせる。これを機会に、近年すっかり少なくなっていたオウム真理教事件を振り返る記事や番組が相次ぎ、私自身も久々に一連の事件のことを思い出すことになった。



同時代に体験したオウム事件


地下鉄サリン事件が起きた当時、地下鉄の虎ノ門駅のほぼ真上、霞ヶ関駅虎ノ門病院が至近という、まさに『事件現場』にいたから、それはもう生々しかった。その日はひっきりなしに霞ヶ関駅から虎ノ門病院に向かう救急車の音が途絶えることなく鳴り響き、騒然とした雰囲気に仕事どころではなかった。オウム真理教はそれまで松本サリン事件や坂本弁護士事件等の一連の事件で、『何となく怪しい存在』だったのが、その日を境に、明確に『極悪人の巣窟』『狂信集団』になった。



そして誰もが宗教に口を閉ざすようになった


そして、オウム真理教に関わるすべてが『悪』になり、オウム真理教ないし教祖の麻原をほんの少しでも評価した評論家や学者は軒並み『共犯』のレッテルを貼られ、職を追われ、徹底的に糾弾された。そのころは今のように個人がインターネットで自分の意見を表明したりすることはほとんどできなかったから(パソコン通信が細々と始まってはいた)、素人が公的な発言をして問題になるようなことはあまりなかったが、それでも周囲にうかつな意見を漏らそうものなら、村八分になりかねない。もともと『良識ある社会人は宗教に興味があるなどと人前で公言するものではない』、という類いの暗黙の了解はあったが、この事件以来、普通の社会人は一層徹底して宗教に関しては口を閉ざすようになった。そして、それから17年という長い年月が流れた。



心の問題は未解決


今回の逮捕劇を受けて、オウム関連の記事は久々に小にぎわい状態となっているが、予想どおり、当時オウムが人々を惹き付けた理由や背景、すなわち、科学だけでは満たされない心の欲求、所属できる集団がなくなりバラバラになる孤独な人々の心の荒廃等、過剰な宗教嫌悪の雰囲気の中で、回収される事なく彷徨ってしまう人々の心の問題が未解決であることを懸念する主旨の記事が少なくない。



若者をオウム追いやった原因は解消されていない


そもそも当時はオウムに限らず新興宗教は花盛りだったし、書店には『精神世界の本』といったコーナーが設けられ、ニューサイエンス、スピリチュアリズム、心霊、神秘主義等の本がものすごい勢いで増えていた。オウム事件が冷や水をかけたとは言え、このような流行の背景にある原因そのものが解決されたわけではないから、表からは消えても結局は世の裏側に回ることにならざるをえない。裏側に回ると制御が効かずにもっと過激で恐ろしいものにつながって行くのではないか、というような懸念はあって当然だろう。しかも、当時の若者をオウムに追いやったと考えられる原因を生む状況や要素は、17年が経過して解消されたのかと言えば、解消どころかもっと根深く深刻になっていると言わざるをえない。


確かに、第二、第三のオウムが出現してテロや反社会的行為で世を騒がすようなことは、これまで起きなかったし、少なくとも当面起きるようには思えない。その意味では、事件の教訓は社会に浸透したようにも見える。だが、『満たされない心の行き先』の問題はどうなっているのか。オウムの後継の『アレフ』も信者が1000人を超え、今でも若者は続々と入信しているという。*1潜在的な不安感はほおっておけばおくだけ大きくなる。そういう意味で、今回のことが17年間を総括するきっかけになるなら幸いだ。


あまり厳密な分析をここで繰り広げる余裕はないので、あくまで私の思い込みと勝手な解釈であることをお断りした上で、私の意見を少しだけ語っておこうと思う。



聖と俗のバランス


過去何度か私も言及した点ではあるが、科学の現場にいて、現実の科学がどのようなものなのかを熟知している人には、元来『科学万能信仰』などありえないはずだ。そもそも科学は仮説の集積であって、現段階で集まった検証可能(実験によってトレースできる)な事実から構成された仮説の中の最も賛同者の多いものに過ぎない。当然、突然覆ることなど珍しいことでも何でもない。そして、科学者は聖人君子であるとは限らない。間違うこともあればうそをつく人もいる。(もちろん、聖人君子と言っていい科学者もいる。)大抵は、余程意識してモラルを高く保っておかないと、つい個人の利害にとらわれて意見にバイアスがかってしまいがちであることは、福島の原発事故の後に沢山出現したいわゆる『御用学者』を目の当たりにして、気がついた人も多いはずだ。科学の仮説が発展途上であることを本当に知る人は、むしろ謙虚になる。『科学で証明されたことしか信じない』と平気で言える人は科学を信じているというより、バイアスのかかった『科学イデオロギー』に支配されているというべきだろう。



科学の限界


だから、科学のその先にある深淵で広大な世界に思いをはせ、謙虚で敬虔な気持ちになることを宗教心と呼ぶならそれ自体は健全なことだと思う。そもそも、人間の心の問題は、いわゆる科学の手法では解決しきれない。科学は、比較的証明が簡単なニュートン物理学のような範囲では驚くべき実績を示し、人間を月に送り込むほどの成果を上げてみせた。だが、それが人の心理やさらに奥底の心の問題に領域を広げるようになると、限界がはっきりしてくる。脳の機能や反射等で説明できることも少なくはないとは思うが、だからと言って、深い愛情、高い芸術性、複雑で深い精神現象等、科学の手法では掬い取れないものは厳然として存在する。



バランスはとれていない


問題なのは、科学で知り得ないことを語る宗教の『カリスマ』や『説明体系』を無限定に受入れて、突出してしまうことだろう。誰にも宗教の自由はあるとは言え、それを他人にも強要するようになると、しばしば俗世界のルールを逸脱してしまう。そして、困った事に、よく起こりがちなのは、科学しか信じない『科学イデオロギー原理主義者とカリスマ的な宗教者の言うことを丸呑みする原理主義者、二つの両極端の『信念』がぶつかって、双方が暴走することだ。おそらく、この中間のどこかに『良く生きる』ためのバランスがあるはずなのだが、このバランスについて真剣に思索することが相変わらずなおざりにされ、空洞化している。その点では、オウム事件の教訓が咀嚼され生かされているとは言い難い。



カリスマ


社会学者のマックス・ウエーバーが主張するように、宗教の原泉の一つは『カリスマ』だ。超自然的、超人間的、非日常的な人並みはずれた力を発揮する人物は多くの帰依者を引きつけ、宗教団体ができあがる。これは宗教の過去ではあったが、おそらく未来であってはいけないのではないか。如何に優れた指導者であれ、帰依者が『忘我』となって自我を明け渡すと、優れた指導者の優れた力や思想を流入させることはむしろ叶わず、自らが潜在意識に押さえ込んでいた邪悪な思想/意志/感情を解放して自分を支配させてしまったり、よからぬ意図や未熟な思想を持つ他者の意図を安易に受入れてしまうことになりがちだ。



聖なるもの


ウエーバーに対して、フランスの社会学者のデュルケムは、宗教現象の原泉を『聖なるもの』(世界を『俗』と『聖』に分けたときの『聖』)とし、宗教を『聖なるもの』に関連した信念と実践の体系と語る。『カリスマ』に帰依し自我を明け渡してしまうのではなく、個人が自ら『聖』と『俗』に個々に向き合い、各々が心から納得した内容に基づいて、他者とそのことについて語り合い、その合意から共同体的な統合を目指すのが、宗教団体の望ましい方向なのではないか。まあ、私の意見など単なる参考程度に読んでいただくのがいいと思うが、問題はそのような自分(およびその奥にある『聖』なるもの)に向き合って真剣に考えてみるという姿勢も習慣も、今の日本社会がなくしてしまっていることだ。だから、社会全体が宗教に対してナイーブで不慣れなため、何でもないことに足をすくわれ、レベルの低い似非宗教者に簡単にだまされてしまう。そういう意味でも、オウム事件の教訓が生かされているとは言えないようだ。



オウムのエリート意識


オウムに向かった若者のもう一つの動機は、自らの生きる意味/意義を確認する機会を求め、オウムがそれに答えてくれるように見えたことだろう。仕事で成功してお金持ちになる、というような世俗の目標ではものたらず、俗からさらに『聖』の領域に踏み込む生き甲斐を求める若者は、昔も今も少なくはない。まして、昨今、仕事での成功や、やりがいを感じることができる仕事が減っているという厳しい現実もある。だが、興味深いことに、オウム事件の犯人たちやに俗っぽい『エリート意識』を感じて反発する人たちがいる。例えば、フリーライター宮島理氏はこれを下記のように語る。

地下鉄サリン事件の犯人たちや、心情的に共感する人たちに共通するのは(「魂」などではなく)肥大した自意識である。もちろん、人生において「真善美」を追求するのは素晴らしい。問題は、「真善美」の追求をタテマエにしながら、実態としては持て余したエリート意識をこじらせているに過ぎないということだろう。
 http://blogos.com/article/40715/

エリートと感じる自己満足


確かに、一時期のオウムには、実際には『世俗での仕事の自己実現を求め、他者から評価されたい欲求』と同種の欲求の発露をオウムの活動に求めているのに、自らの心の世界では『聖なる高い目的に邁進する自分』を『世俗の堕落した目的(金儲け等)しか持てない他人』の一段上に置いて、その落差によって自分をエリートと感じることで自己満足を感じ、結果、自我を肥大させている人が多いのではないかと感じることが少なくなかった。本人達が主観的にどう考えているかは別として、外側から見ていると、その種の捩じれたエリート意識は案外わかりやすい。だから、本当に純粋に競争社会の価値に辟易して『別の価値』を心から求めていた人は、早い段階からオウム以外のどこかに安住の地を求めた可能性も高い。(宗教団体とは限らない。)



やりがいの搾取


社会学者の宮台信司氏が述べるように、ゼロ年代を経て、日本では『仕事による自己実現』も『消費による自己実現』もますます困難になりつつある。特に正社員になることさえ難しい若年層にはその実感は強いだろう。

http://www.miyadai.com/rsd.php?itemid=252


宗教に逃げ込むより仕事に生き甲斐を見つけるほうが健全とばかりに、世の大人達はこの17年間、『仕事による自己実現』を過度に感じられるくらいに奨励してきた。だが、不幸にして、それが『やりがいの搾取』を生み、別の歪みが社会を多いつつある。『やりがいの搾取』とは社会学者の本田由紀氏が使い始めた概念で、下記はブログ『Soliloquy』からのまた引きになるが、この一文がわかりやすい。

今、日本のあらゆる分野で〈やりがい〉の搾取、という現象が密かに進行している。この背景には自分の夢を求めなさいとか、好きなことを仕事にして自己実現をしなさいという世の中の風潮がある。このこと自体は悪いことではないが、現実にはそれで成功する人はごく一握りに過ぎない。昔は才能や能力のない者には親や先生や先輩が現実の厳しさを踏まえて忠告したものだが、最近はだれもそれをしない。従って、若者たちは好きな分野でいつの日か夢が実現できるということで、単純な仕事でも、報酬が安くても頑張り、結果的に働き過ぎるという「自己実現ワーカホリック」症候群に陥っている。そして今の社会には「好きを仕事に」した者たちを仕事中毒のサイクルと徹底した自己責任の論理で追い込んでいき、彼らを食い物にし搾取する資本の非情な論理があり、これを「〈やりがい〉の搾取と呼ぶのである。
* 〈やりがい〉の裏にあるかもしれない仕事のからくり 本田由紀

http://s-soliloquy.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-94be.html

『ウマく生きる』から『マトモに生きる』へ


夢を持ち、仕事を通じて自己実現をして、他者からも評価されたいと望むこと、そのように行動すること自体を否定するものではないが、『仕事』『ビジネス』がコアにあるかぎり、どうしても、宮台氏が言うところの『ウマく生きる』ことばかりが意識の中心にあって、『マトモに生きる』あるいは、『善く/良く生きる』『他者への自発的な善意に基づく相互扶助』等がますますなおざりになっていく。仕事と消費による自己実現が狭き門になればなるほど、さらに「ウマク生きる」ことを争って競争が激化する。この狭き門を通っても自分のことばかり考えるのでは、自我肥大になるばかりで、『もっともっと』が嵩じると、心は疲弊し病んでしまう。



宗教が陥りがちな世俗の競争原理


オウムに限らず宗教が組織をつくると、どうしてもこのような『世俗の競争原理』が表に出て来て、本来もって持って持っていたであろう『良さ』さえ台無しにしてしまうことが本当に多い。資本ではなく、宗教が『やりがいの搾取』の見本になってしまっているとも言える。本来、宗教の原泉である『聖』の領域こそ、他者への自発的善意、マトモに生きる生き方、善く生きるための智慧等を見つけるべき場所であり、良い宗教なら、もっと、そのようなエッセンスを引き出してきて宗教共同体の統合の象徴として構成員のよりどころに掲げ、それを世に問うことに勤めるべきだろう。



仕事外での非消費主義的な自己実現


グローバル化がいやでも進行する現代では、宮台氏の言う「仕事外での非消費主義的な自己実現」の場をどのように維持・確保するかが非常に重要な課題だ。日本では、本当に驚くほどこの『場』がどこにもなくなってしまっている。日本以外の他国では宗教がこれを担っていることを何度もみるにつけ、未成熟な新興宗教と、過剰反応としての宗教のタブー化が日本から一つの可能性を確実に奪ってしまっていることを感じざるをえない。



オウム事件の総括を


読売新聞社が2008年に実施した調査によれば、日本人で何かの宗教を信じているひとは26%、72%は信じていないと回答しているという。


ところが、宗教心は他国に劣らずちゃんと持っているのことは下記の回答からも明確だ。


先祖を敬う気持ちを持っている: 94%
自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある:56%
死んだ人の魂について「生まれ変わる」「別の世界に行く」の合計:54%

痛いニュース(ノ∀`) : “日本人” 宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割、「先祖を敬う気持ち持つ」9割…読売調査 - ライブドアブログ


特定の宗教は信じないが、宗教心に冨み、宗教意識は高いという奇妙な(他国には理解できない)二重構造こそ日本の特徴であることは以前から指摘されてきた。この日本人の心を悪用するのか、善く生きる糧とするのか、今は両方の可能性がある、ということだ。もちろん、宗教団体だけの問題ではない。ソーシャル・ネットワーク・サービスの設計にも大いに参考になると思う。見て見ぬ振りをして悪用されることを防ぎ、善用すべく方向づけていけるよう、この機会に、オウム事件の総括にもう一度きちんと向き合うべきだろう。