ソーシャルゲームに期待される『狂』と『法』のバランス

世間を騒がせた『コンプガチャ』問題


この1〜2週間というもの、『コンプガチャ*1などという、およそ聞き慣れない言葉がいきなりゲームの世界からやってきて、あっという間に流行語の仲間入りを果たした観がある。この『コンプガチャ』だが、昨今テレビCMでもおなじみになって、すっかり市民権を得たかに見えるソーシャルゲームの稼ぎ頭として、しばし常軌を逸した荒稼ぎをしていたことが明るみに出た。レアなカードを得るために、子供が10万円、20万円とつぎ込んだり、ネットオークションで高値で売買されるばかりか、違法複製のケースも発覚したというから、さすがに消費者庁もほおっておけなくなったようだ。



まだ騒ぎは収まらないかもしれない


ここ数年異常なほどの急成長を遂げたソーシャルゲームだが、私に限らず、ある程度その成長の軌跡をトレースしてきた人なら誰でも、きらびやかな装いの裏側に危うさと脆弱さを少なからず感じていたはずだ。だから、今回の事態も来るべきものが来たという印象だし、コンプガチャ問題に限って言えば、直接やり玉に上がったGreeDeNAに加え、プラットフォーム事業者である6社協議会(GreeDeNAサイバーエージェント、NHNJapan、ドワンゴミクシィ)として自主規制宣言をしたことから、一応終息に向かう気配ではあるが、現状のソーシャルゲームが抱える問題はコンプガチャという一機能だけの問題ではないから、まだ騒ぎは収まらず、余波も思わぬところに広がっていくことは十分予想される。



無謀なベンチャー企業の顛末?


今回の騒動は、業界外から見れば、本来違法性が高い危ないサービスに手を出して、一時急成長しながらも、結局、高転びに転ぶ無謀なベンチャー企業の顛末に見えるかもしれない。実際、インターネットの短い歴史の中にも、そのような事例は枚挙にいとまがない。



意見を言いにくいが言うべき時?


だが、その一方で、新しいインターネット系ビジネス、新しいサービスを立ち上げ、成功させようと切磋琢磨している人たちの多くは、何とも歯がゆい、アンビバレントな心境でいるに違いない。誰より私自身がそうだ。そういう意味では現段階では意見を表明しにくいのが正直なところではある。しかしながら、何か言っておきたくてやむにやまれぬ気持ちがどうしても払拭できない。コンプガチャ問題をきっかけに沸き出した議論があらぬ方向に向かうように見えてならないからだ。何が本当に大事なことなのか、この機会だからこそはっきり意見を言っておくべきなのかもしれない。



時代に取り残された日本の法制度


昨今、インターネット系のサービスの動静を見ていると、いかに日本の法制度が、ビジネスの実態に追いついていないばかりか、健全な競争さえ阻害していると言わざるをえないかを痛感する。市場では国境は軽々と超えられ、日本の弱小企業であっても、Googleやアマゾン、Facebookといった米国の強大なプレーヤーが直接の競合相手になることは珍しくない。のみならず、米国等の生きのいいベンチャー系のサービスも次々に参入してくる。彼らが準拠しているのは制定法である日本法ではなく、判例法である米国法だ。まずやってみて、問題があれば訴訟で争う、というような姿勢でどんどん攻勢をかけてくる。これには『絶対違法性がない』ことが確証できないとサービスインを許さない日本式コンプライアンスではまったく太刀打ちできない。米国では灰色はチャレンジを促す色、日本では撤退を促す色なのである。法律はお上から与えられるもの、というメンタリティーもいまだに非常に根強い(これなど、一種の日本企業の大企業病の一つだと私は常々感じている)。老朽化した法律を実態にあわせて、しかも、日本の将来にとって最もありうべき姿にスピーディーに変えて行くことができるような状況にはほど遠い。



歪む法制度


さらに言えば、現在の日本の法制度というのは、既得権益者、守旧勢力の連携の力があまりに強大で、新しいビジネスをはじめようとするものは、多くの場合、既存の体制にも法律にもチャレンジする気概がなければあっという間に潰されてしまう。実際、稀にそういうチャレンジャーが出現しても、大抵よってたかって出る杭として打たれ、ダーティーな汚名を着せられてしまう。有価証券報告書の虚偽記載、偽計取引・風説の流布等の咎で、実刑判決を受けて現在収監中の堀江貴文氏のケースはまさに典型例で、同種のもっと悪質な事件との比較で言えば、その量刑は『不公平』と言われても仕方がないバランスの悪さだ。何とか踏ん張って頑張っている日本のインターネット系サービスの勝ち組達も、皆多かれ少なかれこの日本の『政官財トライアングル』および『老朽化した法制度』と日々苦闘している。



現行の法律と苦闘する各社


今回『コンプガチャ』で特に問題視された、GreeDeNAのみならず、6社協議会(GreeDeNAサイバーエージェント、NHNJapan、ドワンゴミクシィ)という括りで見ても、各社とも実に多くの法律と対峙し、苦闘してきたし、今もしている。

著作権法特許法、プライバシー、青少年保護育成条例、独禁法不正競争防止法、景表法、風俗営業法、消費者契約法・・・


確かに、生命に関わるような明らかに問題と言わざるを得ないケース、社会に深刻な悪影響を及ぼす恐れのあるケース(今回のコンプガチャもそういうカテゴリーだろう)も少なくない。だが一方で、先に述べたような、『現状を変えたくない人達』の居座りの構図が見えてしまうケースは最近本当に多い。このままでは日本は法律制度のために枯死してしまいかねない。だから、私は、その風圧に耐えて頑張る会社や経営者は、基本応援したい気持ちが強い。



超えてはいけない一線


ただ、繰り返すが、そうはいっても、当然、超えては行けない一線というのはある。問題はこの一線がどこにあるのかだ。この場合、参照すべきは、法律以上に、いわゆる『社会のモラル』のほうで、仮に法律に準拠していたとしても、『社会のモラル』を逸脱してしまい、どうしても社会の理解を得られなければ、結局そのサービス/ビジネスが生き残ることは難しい。インターネット時代になって、まさにその種の『社会のモラル』を視通す能力がますます重要になって来ている。そういう能力を持つ人にこそ、ソーシャルメディア時代に不可欠な『評判』がついてくるとも言える。



はっきりした答えは見えていない


と言っても、この能力、どうやって身につければいいのか。現実には、社会を一体として括る見えやすいモラルや社会通念は、希薄になる一方で、個々人の意見はますますバラバラになってきているように見える。実に一筋縄ではいかない問題になってきている。アンケートだの多数決だのではとても太刀打ちできない。そもそもモラルのありよう自体が急激に変化しているのだから、ある断面をアンケートや多数決で切り取って、モザイクのように繋いだところで、血が通ったものになることはありえない。思想/フィロソフィーのなさを却って暴露して見捨てられるだけだ。現状では、東浩紀氏が主張する、『一般意志』の視覚化に最も期待がかかるが、現段階ではまだはっきりとした形は見えてきていない。今のところ、不断に考えることを止めない人や企業にやどる思想/フィロソフィーが、最も答えに近いように私には思える。



情け無い日本のCSR


一時期大流行した、CSR(企業の社会的責任)の掛け声に煽られて、各社が借り物のように掲げるミッションだの、社是だのを読むことほど苦痛で、辟易することはない。日本企業の文化や思想の空洞化の実態がこれほどはっきりとわかる事例は他にはないからだ。


例えば、『ものづくりを通じて豊かな社会に貢献する』という類いのミッションステートメントはメーカーの定番とも言えるものだが、『地球的な資源や環境の制約がこれほど強くなっている中、環境に負担をかけるものづくりこそ諸悪の根源ではないのか』とか、『ものが溢れるほどある時代に、さらにものをつくることがどうして豊かな社会に貢献すると言えるのか』等々、当然予想される反論にまったく答えることができない会社がほとんどではないのか。



困ったメンタリティー


思想/フィロソフィーといっても、古くさい道徳律のことをっているわけではない。社会の空気を読むべきなどというつもりも毛頭ない。そもそも日本の理想的なサラリーマン像は、人と変わったことをしないこと、何も意見や発言をしないことだったりする。それはそうだろう。新しいことは、旧勢力から見ればしばし『反動』そのものだ。だが、これこそ、世界で最もイノベーションから遠く、コモディティばかり量産する大変困ったメンタリティーだ。



野太さと熱量


そういう意味では、むしろ、一時は社会から受入れられなくて孤立することも恐れないくらいの野太い思想/フィロソフィーを持つことこそが、これからの企業の競争力を分ける重要な鍵になると考える。思想/フィロソフィーがリアルに競争力の原泉となる時代が来つつある、ということだ。『そんなものはお飾り』と考えている会社は、この急激な変化の時代を生き残ることは難しいと断言したい。仮に今は『反動』で、場合によっては現行法に抵触するとしても、強く人の心を惹き付けることができるフィロソフィーで、法律そのものを変えて行こうとする熱量のない会社でないといよいよ生き残れなくなる。



『狂』と『法』のバランス


上記6社の中では、最近、ニコニコ超会議を成功のうちに終えた(赤字だから当事者は成功と考えていないかもしれない)ドワンゴに最もポテンシャルを感じる。昔と違ってすっかり社会的に認知されたと言っても、まだまだ社会全体から認知されたとは言い難い、オタクカルチャーのエネルギーを日本の新しい競争力に昇華していこうという強い意志と理想の高さを感じる。それはまさに『狂』と『法』を高いバランスで再構築しようとしているようにさえ見える『狂』でなければ突出することはできない。だが、『法(ノリ)』がともなわなければ生き残ることはできないドワンゴを率いる川上会長は、ドワンゴの会長でありながら、突然スタジオジブリの社員になるなど、最近、哲学する経営者然としてきた印象がある。


このタイプの経営者、人材は、実のところ日本でも次第にその姿を見せつつある。ただ、正しい理解者を周囲に得る前につぶれてしまうケースが多いように思う。特に、今回のコンプガチャのケースのようなことが立ち現れると、味噌クソの批判の嵐になることは容易に想像される。だから、悪いものは悪いし変えるべきは変える必要はあるが、本当に大事な、暗闇に灯る光まで消してしまわないで欲しいと強く訴えておきたいと思う。