日本はもう変わらないのか?/『あたりまえ』への挑戦

両親の教え


子供の頃、父親に、『理屈を言うな!』と怒られたことが何度かある。ずっと忘れていたのだが、最近になってふと思い出して以来、気になってしかたがない。今でもこんな怒り方、しかり方をする人はいるのだろうか。私の父親世代だけではなく、私が学生時代には少なくとも大学の体育会系のサークルではこの種の物言いは少なくなかったと記憶するが、最近ではどうなんだろう。かたや母親は、『議論で相手を論破するようなことは決してやってはいけない』と何度も私を諭したことを覚えている。理屈で勝っても、こちらが正しければ正しいほど相手に遺恨が残る。そんなやり方では相手は納得して自分の理屈に従ってくれるようにはならないというのだ。



刷り込まれる日本の常識


まがりなりにも学校では科学を学び、近代社会のルールに則った議論やそれに基づく民主主義についても学んでいる最中だった。日本でも個人と個人がどんどん意見を戦わせて、悪いところは改善していく時代が来るという幻想が社会を覆っていた。私もそのような世相や周囲の熱気にほだされて理屈を語り、友人ともとことん議論することを良しとするようになっていた。だが、そういう私を見て、両親はそれでは世間を渡って行くことは難しいと懸念し、私を諭していたわけだ。ちなみに、両親とも当時高校の教師をしていた。建前では民主主義を礼賛し、公正な議論を奨励する立場だったのだから、今こうして思い出して見ても実に興味深い状況だったと言える。学校教育の精神とは裏腹に、日本社会には『本音』と『建前』があり、使い分ける必要があるということや、みんなが『あたりまえ』と受入れていることは、いかに理屈では正しくても議論すること自体空気を読まないみっともないこととされる、というような『常識』を、それこそ理屈抜きに刷り込まれていたわけだ。



日本社会の恐るべき一面


それにしても、何故今頃そんなことをしきりに思い出してしまうのか。おそらく、東日本大震災以降の日本であちこちで露呈してきている『日本の社会の恐るべき一面』が、長く忘れていたこの社会で生きることの『やりきれなさ』を思い出させてくれるからではないかと思う。その『やりきれなさ』は何から来るかと言えば、社会の中にいつの間にか出来上がっている『あたりまえ』を疑ったり、変えようとしたり、たてついたりすることは日本社会で無難に生きて行こうと思えば決してやってはいけないこと、そしてそれはいつまでたっても変わらないという諦念から、である。



『あたりまえ』はあたりまえではない


学生時分、あまり勉強したとも言えない私でも、社会科学系の学問にはそれなりに熱中して取組んだ。専攻は経済学なのだが、当時は就職に有利ではないとレッテルを貼られてマイナーな扱いを受けていた比較社会学とか、文化人類学、哲学/思想というような領域に何より魅力を感じていた。理由ははっきりしていて、こういう学問を修めれば『あたりまえ』が実はあたりまえではないことが解明できるように思えたからだ。後年、社会学者の見田宗介氏の著書『社会学入門』*1を読んだとき、比較社会学は、自明性の罠からの解放であり、物事を外部から客観的に見て、自明性の罠の外部に出てみることが重要だ、という主旨の指摘を見つけて、漠然と感じていたことをはっきりと説明されたような気がして大変感動したことを覚えている。『あたりまえ』に潜む問題点を発見し、その問題は解決できるかもしれないと感じた時に湧いてくる改革意欲、そういう気づきを共有できる仲間との強い連帯感など、かつてない興奮を感じていた。そして、それは『勉強すること=記憶すること=退屈なこと』、だったのが、初めて『勉強すること=わからなかったことがわかること=感動的なこと』に自分の中で置き換わった瞬間だったとも言える。



『あたりまえ』を疑ってはいけない


だが、一旦社会に出て、しかも大きな会社に入ってみると、『あたりまえ』を疑ってはいけないという暗黙の了解こそが第一テーゼというか絶対善であることを知り愕然とすることになる。しかも、それは一企業だけの問題ではなく、政官財すべてに共通する日本の常識であることにもすぐに気づくことになる。では、そんな日本社会に合理性がまったくないのかと言えば、そうではない。『あたりまえ』の範囲内で、それを精緻に展開するため、あるいはそれを低コストで能率的にすすめるために合理性を発揮することは大いに奨励される。だから、工場の仕事を最大限合理的に改善することは誰もが誉めてくれるが、その工場の周辺に与える環境問題とか、過度な労働を強いることの問題の探求とか、『あたりまえ』にたてつくようなことについては、いかに合理的で、どこからみても社会正義を体現していようが、ものすごいバックラッシュがある。会社共同体に居続けたければ、そんなことに関心は持ってはいけないというプレッシャーも大変なものだった。一方で、会社共同体にいることのメリットは、世間体、経済的な安定性等と直結していて、しかもはじめに乗ったコースから降りると二度と復帰できず、且つ、生涯年収が歴然と下がることが確実なのだから、あえて『あたりまえ』の聖域を侵害することは愚策だ。すべてを飲み込んで自分の期待されている役割だけをこなすようになること=大人になること、であった。



窮屈で苦痛


まあ、性格の問題もあったと思うが、私にはこれは大変苦痛だった。今のようにインターネットなどない時代である。本音の部分はFacebookで他社の誰かと共有して、というようなわけにはいかない。問題があって、自分なら解決できるかもしれないのに、あえてそれを押さえ込んで役割として期待されていること意外はやらない、というのは、当初思った以上に窮屈で、苦痛なことだった。経済的には安定していて、世間体もいいのに、そこにいることを素直に楽しむことはできなかった(周囲にも心から馴染んでいる人はあまりいなかったように思う)。それでも、会社も、社会もある程度まわっていれば、だれもこの聖域に手を付ける必要がなかった。そのうち本当にやっていけなくなったら、自然にこの『あたりまえ』も崩れて行くだろう。そう思うしかなかった。



『あたりまえ』への執着


だが、どうやらとうとう、昔どこかでつくられた『あたりまえ』だけを前提にするのはどう考えても難しい状況になってきた。ところが、どれほど状況が変わっても、自動的に『あたりまえ』から脱出し、転換していくようにはならない。国際的な常識が変わろうが、理屈ではまちがっていようがそんなことはおかまいなしだ。どうして変わらないのかって?何故ならそれが『あたりまえ』だからだ。日本人なのにそんなこともわからないのか、と言わんばかりだ。『このままでは本当に沈没してしまう。決定的な破局がやってくる。何とかできる内に改革に手をつけよう。もういいだろう。』それが理屈で正しくても、相変わらずそんな意見を封じるような力学が働く。そして、『あたりまえ』の範囲内で知恵をつかって状況を改善してくれ、というようなことになってしまう。一体いつになったら、『あたりまえ』自体が疑わしいということを皆が本気で受入れるようになるのか。



大事故でも大災害でも変わらない?


そして、それは本当の破局(戦争、大災害、大事故、会社なら倒産)が来てさえ無理なのではないか、と感じさせられたのが、まさに東日本大震災、中でも福島原発事故以降日本で起きている状況だ。世間では、原発事故は『危機的な状況は去って、もう落ち着いてきている』という空気になって来ている。そして、事故原因の究明もそこそこに、各所で原発の再稼働がさもあたりまえのように語られるている。だが、本当に危機的な状況は去っているのか? 落ち着いているというのは本当なのか? 少し突っ込んで情報をあたってみると、とてもではないが、安易にそのようなことを言える状況ではないことはすぐにわかる。しかも、原因を含め、現状の全体像はわかっていないことのほうが多いというのが本当だろう。だから、今後どのようにすればいいか、展望があるともとても言えない。そんなことは科学に疎い私でもわかることだ。合理的な議論が行われているようにはどう考えても思えない。ただ、これは今日本ではありとあらゆるところに見られる現象だ。原発事故はそれを象徴として見せてくれているだけで、特殊な事例というわけではない。いったいいつまで『あたりまえ=すでに陳腐化してしまた枠組み』を変えないで、都合の悪いことはなかった/見えないことにする、という一種の集団催眠状態を続けるのか。



他人ごとではない


ここで留意すべきは、この状況を単純に政官財の特定既得権益者の悪行として、自分達とは関係ないとしてしまおうとする私たちのほうの性向だ。従来は『難しいことは優秀な官僚にお任せしておけばそこそこ上手くやってくれるのだから、自分達で考える必要はないし、あまりそんな政治活動をやっていると、企業ムラの中で生きづらくなってしまう。』そんな風に考えていた人が大半だろう。ところが、その構図はもう続けて行けないことがはっきりした。優秀でモラルも高いはずだった官僚も実態はかなりひどいことがわかった。


私が始めて歴史を学校で学び始めたころは、日米の戦争は、頭がおかしくなった軍部が暴走したせいで起こったと習った。何でも軍隊が悪い、というステレオタイプで一本調子な説明を何の違和感もなく飲み込んでいた。だが、自分で歴史を探求するようになってみると、そんなに簡単に説明がつくような状況ではなかったということが嫌でもわかってくる。そして今まさにそういう歴史の「捏造」の場面に立ち会っているのではないかと慄然としてしまう。歴史は繰り返しているのではないか。



情勢は厳しい


では、今度こそお任せにせずに自分達で対処するのかと言えば、そんなに簡単にはいかない。そもそもどうすればいいかわからない。そうこうしているうちに、原発問題でもそうだが、見たくないこと、いやなことは見ないようにしようという普通の人の無意識が働きだす。そして見たくないと皆が感じていればマスコミも取り上げることは少なくなってしまう。しかも、マスコミに頼らず、ネット系の情報を広く見ていればいいのかと言えば、こちらもそう楽観できる状況にはない。


2009年12月以降、Googleの検索はパーソナライズ化されて、返ってくる検索結果は検索した当人にぴったりだとGoogleアルゴリズムが推測したものになっている。他の人とはまったく違った結果になっているから、見たくない物はどんどん見る機会が減る、という傾向に、静かに拍車がかかっている。Facebookのニュースフィードも、もはや友人の行動をすべて表示しているわけではない。2010年11月に導入されたエッジランク*2 *3は独自のアルゴリズムでその人にとって一番重要と考えられる友人の投稿を自動的に判定して表示する仕組みである。これもこれもいわば、『見たくないものに自動的に蓋をする仕組み』になりかねない。見識が高くて自分が見たくなくても、見るべきものはちゃんと見ていると自負している人も中にはいるかもしれない。だが、その人が見る事実は見たくない人とはどんどん共有されなくなっていく。


『見たくないものでも大事なものはちゃんと見て自ら解決をはかるために行動/コミットする』という姿勢を今取り戻さないと、本当に取り返しがつかないことになりかねないというのに、客観情勢は大変厳しい。



政治メディア立ち上げの挑戦


そんな中、政治がかつてないほど混乱しているのに、あまり意味があるとは思えない政局ばかり報道するマスコミに業を煮やして、自らメディアを立ち上げることを敢然と宣言している若手がいる。ジャーナリスト/メディア・アクティビストの津田大介氏だ。 

津田大介氏「政治メディアを立ち上げる」 (3/3)


ただ、本人自身認めている通り、このメディアがビジネスとして立ち上がるためのハードルは低くはない。ソーシャル系サービスのうち広告モデルを基盤にしているところは、それこそ広告価値を上げるためにパーソナライズ化を進め、ユーザーが見たいものに集中していく傾向がある。それが現在ビジネスとして成立しているスタンダードだ。見たくないものを見せて、しかもお金を払ってもらうというのは大変なことである。では、津田氏が期待しているような『寄付』カルチャーは日本では根付くのか。これこそ期待はしたいところだが現段階では未知数としかいいようがない。



評価経済が追い風?


だが、何度も引用しているように、評論家の岡田斗司夫氏が主張する、貨幣経済社会から評価経済社会への転換、というのはうまくすると追い風になる可能性がある。貨幣ばかりに行動の動機が集中してしまう時代から、評価経済社会に転換すれば、経済的な価値とは別に、クールでかっこいい行動、社会的に意義のある活動、陳腐化した『あたりまえ/自明性』の枠の外に出る行動、およびそれを実行している人に高い評価が集まり、社会の中での力を得ていくことが多少なりとも期待できそうだ。『あたりまえ』の範囲内での経済合理性の競争に長けた人だけが高い評価を受け続けるというのは、むしろ現実味がないように思える。それこそ未知数ではあるが、その可能性を信じて、私も少しでもこうやってブログ等で語ることを含めて協力していきたいものだと思う。

「僕らは評価経済の高度成長期に入った」 週刊東洋経済インタビュー ノーカット版掲載! - FREEexなう。