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『中国化する日本』は日本の真の姿を見せてくれる

エイプリルフール


いよいよ新年度に入ったが、初っ端の4月1日はいわずと知れたエイプリルフールだ。この日だけは嘘が許される。インターネットのおかげで誰でも自由に発信ができるようになった昨今、さまざまな『エイプリルフールの嘘』が溢れてちょっとしたお祭り騒ぎである。これ自体は、罪のない、インターネット時代の春の風物詩と言っていいかもしれない。



事実は小説より奇なり


だが、様々な『エイプリルフールの嘘』を拾って読んでいるうちに、情け無いというか、不思議なというか、何とも言えない気持ちが抑えられなくなって来た。最近では現実のほうがよほど『エイプリルフールの嘘』と感じるようなことが多いことを再確認してしまうのである。事実は小説より奇なり、ではないが、特に東日本大震災後、とても本当の出来事とは思えない、嘘ではないか、と思うことが頓に増えた(震災自体、とても現実とは思えない凄まじさだった)。それは震災とか事故というような劇的な出来事に限らない。普通のビジネスの現場でも、以前の常識ではとても信じられないことが頻繁に起きる。まさに何が起きても不思議ではない、という感じだ。



歴史の重要性と限界


このような目先の混乱に振り回されず、未来を見渡す洞察力を得ることはできないものか。その答えの一つとして、私は先達のアドバイスに従い、歴史をそれなりに沢山読んで来た。それは本当に得難い智慧を自分にもたらしてくれたと思うし、大変多くのことを学ぶことができたことは間違いない。もちろん私のキャパシティの問題もあるから、あくまで「自分にとって」ではあるが、それでも自信を持って後輩達には歴史を勉強してみることをアドバイスするようにもなった。


だが、そんな自分も今の日本の状況を分析し、将来を見渡すにあたっては、自分の歴史知識ではもはや太刀打ちできないと感じるようになってきていた。産業革命をしのぐ変革期と言われる現代では、もはや過去の出来事やその知識から得られる智慧など役にたたないのではないか。自分にとっても『歴史の終わり』がとうとうやってきたのか。内心そのように考えるようになってきていた。



奥深い歴史研究


だが、與那覇潤という若手の歴史家の『中国化する日本』*1という一見非常に奇異に見えるタイトルの本を読んで久々に心から驚いた。同時に、如何に自分の歴史の読み方が浅薄で、素人芸で、全くなっていなかったことを悟った。そして、この程度のレベルでわかったつもりになっていたことを知り、恥じ入ると同時に猛省した。與那覇氏の歴史の読み方なら、近世から近代、そして現代に至る日本の実像が実に鮮やかに見えてくる。いつもよくわからずに行き詰まってしまったことに、非常に有力な仮説が提示される気がする。しかも、ここで語られる歴史認識/史観は與那覇氏の独創とか異端の論なのではなく、現代の歴史研究の標準的な見解なのだという。いやはや、やはり歴史研究は奥深い。



誤解されやすいタイトル?


この本のタイトル、『中国化する日本』というのだが、一見何のことやらさっぱりわからないというのがごく普通の人の反応だろう。

『昨年、世界第二のGDP大国という地位こそ譲ったとは言え、まだまだアジアで最初の近代化を成し遂げた日本は今でも中国より先にいるはずだし、事実、民主化という点ではずっと日本のほうが先進的だ。如何に経済的没落が取り沙汰される日本とはいえ、国民の大多数が嫌いと言っている国(中国)のシステムに自分から変えていくことも考えられない。日本化する中国ならまだしも、その逆はありない。』

みな即座にこのように思ったのではないだろうか。確かにある程度の説明がないとタイトルから内容を推し量ることはよほどの歴史通でもなければ難しかろうと思う。



近世宋朝中国の画期的な大転換


まず、中国化の『中国』だが、これは近世宋朝中国のことで、この時期、現代のグローバル化社会の先駆けともいえる画期的な大転換が起きていて、基本的な仕組みは現在に至るまで変わっていないという。一文で要約すると次のようになる。

可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会 
同掲書 P48 

 

何が画期的かと言えば、何より皇帝以外の身分制や世襲制が撤廃され、移動の自由・営業の自由・職業選択の自由が行き渡り、科挙という形で官吏(支配者層)になり上がる門戸が開放された(男女間の差別は残る)ことだ。結果、世界で最初に「自由」と「機会の平等」が達成された。


但し、苛烈な競争社会が出来上がり、振り落とされる者が大量に出てくるから、その保険として、「宗族」という父兄血縁のネットワーク( 同族間の相互扶助の仕組み)が宋代に完成することになる。


また、経済的には自由化が実現されるが、皇帝に権力が集中し、さらにその皇帝が権威を儒教思想=普遍主義的なイデオロギーによって正当化したため、政治的な正しさと道徳的な正しさが同一視される。その皇帝が行う科挙で選抜された官僚は、政治権力・知性・人間性ともすべておいて正しいことが建前になる。


すなわち、現代のアメリカン・スタンダードのグローバル化とは別種のチャイナ・スタンダードのグローバル化が完成し、この時期、中国は経済的・文化的に世界一の大国になり、韓国を含む周囲の国も「中国化」する。



チャイナ・スタンダードを拒否した日本


ところが、このチャイナ・スタンダードによる世界観を拒否し、やがて江戸時代という独自の近世の仕組みを作り上げたのが日本で、チャイナ・スタンダードを完全に裏返しにした特徴を持つ(江戸時代に完成したこの仕組みを著者は中国化に対する江戸化と呼ぶ)。チャイナ・スタンダードが自由主義的なグローバル化に道を開いたのとはまさに正反対に、江戸時代は一種の社会主義の完成形ともいえる特徴を持つことになる。


今年のNHK大河ドラマ平清盛を扱っているが、まさに平氏は宋との自由貿易を通じて、日本の中国化を志向していた。これに対して、源氏に代表される反中国化勢力がこれを阻止し、江戸時代に至って仕組みとしても完成を見る。



明治維新は中国化


実に興味深い説だが、もっと興味深いのはこの延長にある明治維新と太平洋戦争への道程だ。


江戸時代は平和で安定的で、変化に乏しいが日本人の気質にも合っていた。しかし、江戸時代も末期になると経済的な窮乏はいかんともし難く、耐用年数が切れ、我慢に我慢を重ねても堪忍袋の尾が切れる寸前の人々を大量に生むことになる。そこに松平定信寛政の改革のように、部分的に中国式の処方箋として朱子学を公的な学問に指定し、科挙的な試験を導入すると、これが完全に裏目にでて、『徳さえ身についていれば身分は関係ない』『腐り切った日本は根本的に(革命的に)変えなくては国が滅びる』というような過激な思想を吹き込むことになる。その結果、中国化が濁流のように日本独自の近世(江戸時代)を押し流したのが明治維新ということになる。欧米化に目を奪われて見えにくくなっているが、天皇に政治権力を集中し、道徳的なイデオロギーに基づく正統性を強化する等、確かにこれは西洋的な民主化立憲君主制というよりは、明らかに中国化だ。日本近代史や日本思想史のプロの議論では、明治期の改革は西洋化以上に中国化としての性格のほうが強いという見方が主流だという。



失敗した明治維新と成功した昭和維新


中国化を志向する明治維新によって、日本は非常に過酷な競争社会になる。ところが、この明治維新の厳しい社会は平均的な日本人にとって極めて苦手で生きづらい社会であり、日本人には本音のところで明治維新による社会の変革を素直には喜んでいないふしがあるという。確かに明治国家の中枢を真に担っていた大久保利通より、明治政府に反旗を翻した西郷隆盛のほうは日本人には人気がある。『社会主義は江戸時代に似ている』と日本の社会主義者の草分けである幸徳秋水が明治末期に指摘していたというが、宋朝中国と比較すると江戸時代は確かに社会主義的だ。一方、昭和の軍隊は、明治維新がもたらした厳しい競争社会で敗れた敗者にシンパシーを持ち、軍国主義とは軍隊による社会主義であった。著者は、いわゆる社会主義のうち江戸時代の伝統にそわない部分は徹底的に排除されたが、江戸時代と適合的な部分は全面的に採用されたと指摘する。そして、こう結論づける。明治維新は結局失敗し、昭和維新が成功した。あの戦争(太平洋戦争)を通じて日本は世界に冠たる史上最高の社会主義国家をつくった』(だが戦争には負けた)。



日本的社会主義


小説家の司馬遼太郎氏が、昭和初期の日本に絶望し、日本の歴史にも素晴らしい、世界に誇れる日本人がいることを自ら再確認するために歴史小説を書き始めたというエピソードは有名だが、このため、明治初期に活躍した人物が大変美化して取り上げられる(そして終生小説の題材として昭和初期の日本人を取り上げることはなかった)。そして、結局、輝ける明治期から昭和期の変化を『断絶』として語るしかなく、この司馬史観には歴史の連続性や昭和期の軍人の正義を語る向きからは評判が芳しくない。だが、明治から昭和に続く歴史を、中国化と江戸化の相克と見ると、断絶ではなく連続性が見えてくる。昭和期の軍隊はしばし悪の枢軸として発狂していたかのように語られることも珍しくないが、むしろ江戸化=日本的社会主義化の行き詰まりと問題点の噴出と考えたほうがわかりやすい。


のみならず、昭和期の軍部の行動様式や枢要な人物を冷静に分析すると、現代の日本人と比べてほとんどそのエッセンスは変わっていないことがわかってしばし驚くが、経済学者の野口悠紀雄氏が指摘するように、護送船団方式と言われた戦後の日本の政治経済運営の型が戦争中の国家総動員体制に起源を持つがごとく、江戸時代 ー 昭和維新 ー 昭和高度成長期〜現在に至る一本の筋が見えてくる。すなわち、昭和の軍部の問題は、現代の日本の問題と通底していて、機会があるごとによみがえってくるということだ。もう終わった問題として無視することはできないということだ。



現代の『中国化』


そして、いよいよ著者の言う現代の『中国化』だが、長く『江戸時代』を引きずって来た日本もいよいよ行き詰まりどうしようもなくなってきている。このままでは明治維新がそうであったように、日本は否が応でも、『グローバル化』(但し、チャイナ・スタンダードのグローバル化)の方向に押し流されて行く可能性は高い。これが与那覇氏の本のタイトルの意味する『中国化』である。



日本の真の問題が見えてくる


この中国化と江戸化が日本近代史の相克の歴史だと仮定すると、西洋化という観点だけでは見えてこないものが沢山見えてくる。例えば、東日本大震災であらわになったことの一つに、いかに日本に民主主義の理念が根付いていなかったかがはっきりした、ということがある。西欧的な視点では、日本人の不合理さばかりが目につく。だが、中国化/江戸化の二軸で見れば、合理的とまではいかずとも、はるかにわかりやすい説明ができそうだ。実際、グローバル化という観点でも、米国化する日本はどうみても想像しにくいが、中国化する日本という点ではすでにその兆候を随所に見つけることができる。とすると、中国化のもたらす問題点をはっきり認知し、危険な問題が現実化する前に対処することが喫緊の重要課題になる。私もそれを本書を読んだ後強く意識するようになった。



日本のリアルな姿


ないものねだりの西欧的な民主化の幻影にとらわれる前に、日本のリアルな姿を認識して社会が決定的に崩壊してしまわないよう気を配ることは重要だ。特に企業がセフティネットとして機能しない今、中国化の結果、裸の個人が窮乏して放り出されるようになると、日本には中国のような宗族はないし、これを民主的に解決しようという仕組みもうまく機能しないから、『皇帝化』する日本の地方の首長のもとに 独裁の混乱と悪弊が現出しないか真面目に心配になってくる。賛否は別としてこの種の議論がもっと盛り上がることは絶対に必要だと思う。当然、中国化に反発する江戸化勢力の反抗(アンチ・グローバリズム)も厳しくなってくるだろう。このような問題を無意識の領域に押し込めてしまうと、エネルギーが膨張して暴走しかねない。ちゃんと意識化して、合理的な対応策を考える知恵をそろそろ日本人も持つべきときなのだと思う。

*1:

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

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