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過去に類がない徹底したマスコミ分析/『「当事者」の時代』

佐々木俊尚氏の新著


ジャーナリストの佐々木俊尚の『「当事者の」時代』*1を読了したので、読後の熱気がさめやらぬうちに感じたことをまとめておきたい。



情報発信行為を行う人は皆読んでみるべき


最近では佐々木氏の言説は、メールマガジン始め、インターネット記事からTwitterによるツイート、さらにはUstreamニコニコ動画等での議論に至までできるだけフォローするようにしているため、今回の著書における佐々木氏の問題意識や、現段階での結論等ある程度は予測できるつもりで読み始めたが、そんな私の甘い認識はあっさりと打ち砕かれた。今回も氏のポケットの多さと深さに舌を巻くことになったし、駆使される分析装置も、歴史的な探求の鋭さも、事前の予想をはるかに超えていた。そういう意味では、いつものように『心地よく打ちのめされた』のだが、同時にお気軽なブログを書いている私でさえ自分なりに『当事者』であるためにはどうすればいいのか、どうあるべきなのか、大変重い宿題をいただいたような気がした。狭義のジャーナリストだけではなく、何らかの形で『発信』行為を行う人すべてが読んでおくべき本であり、考えて見るべき論点だと思う。



センセーショナルなタイトル『2011年新聞・テレビ消滅』


佐々木氏が、2009年に出版した『2011年新聞・テレビ消滅』*2は、そのタイトルのインパクトもあってか、普段は佐々木氏の著作を読むような環境にいない人々まで手に取り話題にしているようだ。『この人が?』と思うような意外な人から『2011年新聞・テレビ消滅』に関わる意見や話題が出て来て驚くことは二度や三度ではない。逆にそのように読者層が広がったこともあってか、『2012年の現在も新聞もTVも消滅していないからもう佐々木氏は信用できない。もう本を読む価値がない。』というようなことを真顔で言ったり、Twiter等で心ない発言をしたりする人も案外多い気がする。だが、佐々木氏自身各所で暴露話として語っている通り、本来この本のタイトルは、『2011年マスメディア消滅』としようとしていたところを編集者からそれでは読者に理解できなくて売れないからと懇願されてこのようなセンセーショナルなタイトルになったのだという。



ミドルメディアに主流が移るのは自然な流れ


この本が出版されたのは2009年夏だが、この時点ですでに私には既存のマスメディアが役割を終えるであろうことを指摘する佐々木氏の予測がそれほど不自然なものには思えなかった。少なくとも自分たちのいる業界(IT業界)では情報源としてのインターネットの優位はもはや揺るがないというしかなかった。何故なら、本当に欲しい情報は、特定の業界/分野/趣味等を対象にして、内容的にも深く、場合によってはマニアックなくらいな情報だ。ビジネスで食うか食われるかの競争環境にあれば尚の事、本当に必要な情報は『マス』で流れるような角の取れた一般情報などではない。インターネットによって情報の送り手と受け手が流動化して誰でも情報を発信できるようになると、どの業界より先にIT業界のエンジニアがまず積極的な発信を始めるようになる。勢い、IT業界にいるとこのようなインターネットを通じて発信される情報にキャッチアップしなければ真に重要な情報を収集できなくなる。


それから時を置かずして、ITエンジニアに限らず、あらゆる業界、業種に『発信行為』が広がっていった。このインターネット情報は情報の範囲が細分化され、ことの初めからマスメディア的ではなくミドルメディア的だし、だからこそその情報が有用で貴重だったりする。だから、旧来のマスメディアの機能が衰退して、細分化されたミドルメディアに置き換えられていくであろうことは、ごく自然な流れに感じられたものだ。



大震災が決定的にした


そして、佐々木氏自身が別の場所でも言及してきたように、東日本大震災がこの流れを決定的にした。有用な情報はすべからくミドルメディア的であり、中間的な情報で結ばれる中間共同体的な存在が主役になり、マスメディアがもはや主流ではありえないことは決定的になった。だから、今本来問われるべきは、これほど旧来のマスメディア的なあり方が事実上崩壊しているのに、何故日本では大手のメディア(TV、新聞等)がどこも経営的に破綻せず生き残っているか、ということだろう。(これはこれでまたあらためて取り扱ってみたいと思う。)



『マスメディア vs ミドルメディア』の機能差以上の問題


今回の著書、『「当事者」の時代』は佐々木氏の従来の議論をさらに先に進め深めているわけだが、特に日本におけるマスメディアの特性と特殊な歴史を明らかにして、単なる『マスメディア vs ミドルメディア』の機能差以上の問題があることを明らかにしたところなど、他に類を見ない徹底した分析になっていると思う。



表だけではわからない


自民党から民主党への政権交代時に最も期待されたことの一つに、『記者会見のオープン化』があった。日本では公的機関の記者会見が、全国紙や一部の業界紙、キーテレビ局や通信社などのごく一部のマスメディアで組織される『記者クラブ』によって主催されている。『記者クラブ』に所属しない記者は質問すらできず取材を制限されている。これをオープンにすべきという議論だ。政権交代が起きた2009年秋から2年半を経過した今でも、フルオープン化はほど遠いとは言え、多少なりともオープン化の方向に動いてきていることは確かだ。オープン化されればテレビ中継や、最近ではニコニコ動画のようなメディアが入ることも少なくないから記者クラブメディアと政権の癒着も解体の方向にいくと期待する向きも少なくない。しかしながら、これだけでは日本のメディアと権力の本当の関係を知ることはできないと佐々木氏は力説する。



夜回り共同体


大手新聞の事件記者だった佐々木氏が実際に経験した『夜回り』、すなわち警察幹部や刑事に夜の時間に記者が個別に取材に出かけることだが、幹部の本音を表情やちょっとした言葉の節々に読み取ったり、貸し借りの関係を作ったり、警察のほうも情報を欲しがる記者を守秘義務に抵触しないよう気をつけながら巧妙に情報を選別しつつ流して部下の情報漏洩の有無を探ったりする。一人一人の記者と警察関係者は、個別の緊張関係と認識しているかもしれないが、全体としてみると、ある特定のコンテキストを共有する大きな共同体の中にいつの間にか所属して、メディアと権力の特殊な関係を維持している。いわば、『夜回り共同体』が出来上がっているという。そしてそれは結果としてこの構図の外にある者が入れないという意味で、この『夜回り共同体』の所属者によってある種の『権力』が占有されることになる。


この〈記者会見共同体〉を建前としてマスコミ業界人はメディアと権力の関係性を語る。しかし実はその裏側にある二重化された〈夜回り共同体〉のなかにどっぷりと参加し、そこでフィード型のハイコンテキストな情報流通共同体を権力との間に構築しているのである。これこそが、メディアと権力の基本的構造である。この共同体関係が構築されているのは、記者と警察との間だけではない。検察を含めて官界、政界、財界などすべての権力装置との間でメディアがつくり上げてきているのだ。

同掲書 P117

虚構ドラマ


この種の二重構造は日本社会の中ならどこにでも見つけることができる。もちろん私自身も随所にそれを見てきた。佐々木氏が指摘するように、政治世界における二重構造、すなわち戦後長い間続いた自民党社会党の対立も(いわば公然の秘密だと思うが)虚構ドラマの典型例だ。表は対立、ウラではがっちりと手を握っている。安定した右肩上がりの時代には、政治にもメディアにもシリアスな期待はされず、エンターテイメントとして楽しければそれでOKということになってしまっていたと佐々木氏は手厳しい。



マイノリティ憑依


しかもその上に、日本のマスコミは物言わぬマイノリティ/弱者に成り代わって彼らの意見を代弁し、代弁者は自分がいかなる立ち位置にいようと、マイノリティの意見を代弁することで加害者を自由に糾弾できる神の視点を手に入れ、いつの間にかそれにすっかりはまってしまった。佐々木氏はこの現象を〈マイノリティ憑依〉という概念を使って説明する。この新たな神話は、1970年代以降に市民運動やメディア論の世界に広範囲に浸透し、拡散していき、今日もまだ生き延びている。ここのところの経緯、どのようにしてこの神話が生まれ不動の存在になったのか、非常にダイナミックかつドラマティックに語られている。本書最大の読みどころと言ってもいいパートで、私も一気に読んでしまった。



転換点


上記の二重構造と同様、このマイノリティ瓢依は、社会が右肩上がりで成長していて、政治のテーマは富の分配だけというような時代には、エンターテイメントとしてなんとか成立していたものの、1990年代後半、ついに転換点に到達する。

そもそもフィード共同体の背景要因にあった「富の分配」ができなくなってしまったのだから、当然のことだ。いま政治に求められているのは増え続ける富の分配ではなく、ゼロサムになってしまった富をどう維持し、増やし、「これからも富はありますよ」ということを国民に向かって提示できるかどうかということだ。
 そして同時に、五十五年体制の崩壊、終身雇用制の消滅とグローバリゼーションの波の中で〈マイノリティ憑依〉によるエンターテインメントはまったく意味を持たなくなった。冷戦の終結によって、もはや革新勢力やマルクス主義への清らかな幻想さえ維持できなくなってしまったのだ。

同掲書 P425


とうとう本当に行き詰まってしまったわけだ。



遠い日本の『チェンジ』


佐々木氏の言う、『ハイコンテキストな想像の共同体』日本は、時に明らかに合理的な事実を眼前に示されても、非合理だがより強力な『空気』の指し示す方向に押し流されていくことがあまりに多い。日本人に合理的な判断力がないとまで言うつもりはないし、個人の判断は十分に合理的だが、これが集団や組織になるとどうにもいけない。これに慣らされるとだんだん自分で論理的に思考しなくなり、いかに空気を読むかに注力するようになる。日本のマスコミがこのマイノリティ瓢依に取り憑かれているとしても、中にいる記者がおかしいと感じても、大抵の人は空気に逆らって自ら変えていこうとは思わず、組織内部から自発的に変化していくことは考えにくい。余程経営が危機的になるか、突然変異的な経営者が運良く経営の中枢に立つか、はたまた組織を飛び出たメンバーが個々の自覚のレベルで変化していくか、そのような形でないと日本の『チェンジ』は期待できそうもない。



当事者性の重要性


しかも、個々が長く放置していた『当事者性』を取り戻して行くことも並大抵のことではない。マイノリティ瓢依とまではいかないまでも、言論において自ら当事者であることを追い求めることをあまりにやってこなかったため、それが一体どういうことなのか、想像すらできないという人がほとんどだと思われるからだ。これはマスコミではない他の企業人も同様だ。分析というターム自体、分析しようとしている対象から自分を切り離すことを含意しており、本来分離が難しい自分自身、自分の本当に感じるところを率直に自己認識したり表現するなどということは誰しも経験がないはずだ。だが、逆にそれができて初めて、他者とは一味違う創造性が発揮される可能性も高まるし、実は真の共感が生まれる可能性も秘めていると考えられる。当事者性を失った言説は、いかに客観中立という意味では間違っていなくても、けして人の胸を真に撃つ迫真力はないと思う。



希望はソーシャルメディア


だが、それでも希望がないわけではない。ソーシャルメディアの存在だ。

しかし一方で、インターネットのソーシャルメディアは人々を否応なく当事者化していく。参加する者を第三者の立場に居座らせることを許さず、すべての人々を言及の対象にしてしまい、あらゆる存在をメディア空間の中へと巻き込んでいってしまうからだ。
 そのようなソーシャルメディアの当事者性は、〈マイノリティ瓢依〉のパラダイムをどこかで突破する可能性も秘めている。なぜなら〈マイノリティ瓢依〉をしている人たちは第三者の視点を獲得しているように見えても、しかし決して第三者にはなれないという事実をソーシャルメディアは可視化するからだ。

同掲書 P461

是非チャレンジを


ここで踏ん張っておくことがもしかすると本当に希望に繋がる可能性がある。残された問題はいやになるほど多いが、少なくとも佐々木氏の新著から自分の今後の方向を示された気になる人は多いのではないか。新書にしては大変分厚い本だが、是非チャレンジしてみることをおすすめする。それだけの価値をきっと感じていただけるはずだ。

*1:

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

*2:

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)