第一級の『希望論』/オタクを理解できるかどうかが鍵?

東日本大震災から一年


先週は東日本大震災から一年が経過したということで、様々な特別番組が組まれ、討論からエッセイに至るまで数多くの記事が出てきた。私も自分なりにこの一年を振り返り、識者だけではなく、一般の人たちの声も拾って見た。一番の目的は、ズバリ、『日本に希望はあるのか?』という問いを立ててそれを検証して見ることである。震災直後は、古今未曾有の災害だったにもかかわらず皆冷静で、パニックに陥る事も無く、お互いに助け合う日本人の姿に素直に感動した。これを機会に何かが変わるに違いないと感じたものだった。だが、一年経った今はどうだろう。あれほどの事件が起きて尚、以前と変わらない『日常』が再び、悲惨も感動もすべてを飲み込みつつあるのではないか。もちろん、以前とまったく同じではあり得ない。何かが根本的に変わったことは間違いないと思うのだが、『そうではない、何も変わらない』という、奇妙な、すべてをなかったとにして安楽に誘うような空気がゆっくりと流れ込んで来ている。



『日常』の誘惑


ふと、映画『マトリックス*1を思い出した。人類は機械がつくった『繭』の中で安楽な夢を見ていて、それに気づいた少数のメンバーがレジスタンスとして機械と闘う。だが、それは大変な苦難を引き受けることでもあり、中には『繭』の中に帰りたいという者も出てくる。震災は、ある意味日本人の現実のありのままの姿をいやになるほど見せつけてくれた。思い込みやバイアスを一瞬とはいえ吹飛ばし、押し流してくれた。だからこそ、『心底開き直った明るさ』も輝き出てきて、それが希望になるとの可能性も垣間見えた。だが、ふたたび『日常』という気怠い、希望はないが安楽を出来るだけ引き延ばそうとでもいうような『誘惑』が日本全体を、少なくとも首都圏にいる私達を覆いつつあるのではないか。



やはり希望はない?


では、この状況で、日本に希望はあるのかと言えば、大抵の人は否定的にならざるを得ないというのが偽らざる心情ではないだろうか。日本が旧来の意味で復活する可能性があるとすれば、何らかの方向に皆の意志が結集し、強い変革意欲が醸成されることが不可欠だが、震災ほどの『大きな物語』があっても、結局意志も意欲も欲望でさえもバラバラで、お互いの意見もまとまらないのに、どう成功の道筋を描けばいいのか。しかも、中には現実を見ずに『幻想の繭』に逃避しようとしている人もいる始末。なまじマクロ経済学に精通していたり、経済成長の時代に成功体験を持っていたり、市民民主主義の理想にとらわれていたりしている人達ほど、もはや手の打ちようがないと感じているのではないか。



いや希望はある


ところが、そんな絶望こそ、実は『幻想』だったのではないかと思わせてくれる、希有の本が出た。気鋭の若手思想家、濱野智史氏とこれも若手の注目株といっていい、評論家の宇野常寛氏の対談本である、『希望論 2010年代の文化と社会』*2がそれだ。正直、昨今これほど秀逸な『希望論』を私は読んだことがない。現代の希望に言及した本と言えば、昨年、『絶望の国』日本に暮らす20代以下の若者の約70%は実は生活に満足しているという統計を示して、皆を驚かせた、東京大学の大学院に所属する古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者たち』*3が話題になったが、古市氏とて、日本の今後の経済や政治の展望は暗いと見ていることはかわりなく、これを旧来の意味で良くするための代案があるわけでもない。だが、『希望論』は堂々と『日本には希望がある』と断言し、その根拠を示し、将来に向けてどのような策が必要であるかに至るまで骨太な提案を行っている。



オタクが理解できないとダメ?


しかしながら、この本を読んで納得できる人、そこまでいかずとも、せめて多少なりとも理解できる人は、残念なことに極めて少ないと言わざるをえない。何故か。それは彼らの視点が、一貫してディープなインターネットユーザー、オタクの立ち位置に据えられているからだ。だから語られる事例や分析対象が、『2ちゃんねる』『ニコニコ動画』『初音ミク』『ピクシブ』『MAD動画』『n次創作』『ゲーミフィケーション』、そして『AKB48』というように相当に濃い。情報収集は日経新聞NHK、雑誌は日経ビジネスとTIMEというタイプには決して入ってこない情報のオンパレードだ。それどころか、多少インターネットによる情報収集に通じているくらいでは太刀打ちできないレベルのディープさだ。さすがにAKB48のことは今や知らない人は少ないだろうが、それでも、どれだけの人が『エケペディア』*4を隅々まで読み、握手会に実際に出かけているだろうか。前に、インターネットの世界に比較的詳しい友人に、AKB48を通じて社会論を語る濱野氏の話をニコニコ動画で聞かせてみたが、『いい年して、AKB48にすっかりはまったオタク兄さん』という印象を語っていた。



最初は皆怪しい


だが、この本はそんな偏見と先入観で切り捨ててしまうには、あまりに勿体ない知恵と可能性の宝庫だと私は思う。好き嫌いはあるにせよ、90年代に『終わりなき日常を生きろ』の名言で、時代の最先端に立っていた宮台信司氏もブルセラのフィールドワークを偏見をものともせずやっていた剛の者だし、その宮台氏より若い世代を代表する思想家である東浩紀氏は、ディープなオタクとしても有名だ。そもそも今やクールジャパンなどいう美しい名前をつけてもらって世界進出している日本のアニメやマンガも、昔は興味があること自体を表に出すことがはばかられるような存在だった。



鮮やかな切り返し


今の世間の常識に対して彼らがどのように切り返しているか、それがいかに鮮やかか、実際に本を手に取ってよく読んでみてもらいたい。その導線として、具体例を以下に書き出してみる。


失われた20年について


<一般論>

バブルが崩壊し景気は後退、消費や雇用はふるわず、日本の将来には『絶望』しかなくなってしまった。


<希望論>

だから、僕が本書で問いたいのはただひとつだ。果たして現在のこの世界はそこまで「絶望」的なのだろうか。
同掲書 P8


その意味で僕は「失われた20年」が獲得したこの「自由」を肯定したい。
同掲書 P10


地方に住んでいた僕がインディーズの雑誌を立ち上げることができたのは、インターネットで仲間を集め、ソーシャルメディアIP電話で進行と会議を行い、ブログサイトで宣伝して、ECサイトで販売できたからだ。だから僕は、終身雇用と正社員採用が前提で、インターネットもなく、携帯電話もない社会に生きたかったのかと問われれば、それは間違いなく「否」と答えるだろう。
同掲書 P10


僕らはー濱野さんはとくにインターネットに「希望」を見いだしているわけですね。「失われた20年」は、実はインターネットという希望をひそかに育んでいた、と。
同掲書 P75


日本のインターネットについて


<一般論>

梅田望夫氏が『日本のウェブは残念』と表現したように、日本のインターネットはアメリカのように政治やジャーナリズムや学問といった公的領域にインパクトが及ばない。誹謗中傷が渦巻き、趣味に耽溺する若者がなれ合い、公共性のかけらもない。


<希望論>

残念ながら僕は、梅田さんが考えるようなかたちでの「希望」というのものは、あくまでもアメリカだからこそ通用するものであって、それを単に輸入するだけではダメなんだと考えています。
同掲書 P76


「アメリカの技術を入れれば日本社会も変わる」という技術決定論の立場に立っている限り、いつまでもその夢が挫折しつづけることは目に見えているわけです。
同掲書 P77


日本のインターネット空間には、豊穣なコミュニケーションのインフラと多様な共同体が、それもきわめて強力に渦巻いている。濱野さんはそんな風景を紹介し、その発展史を体系立てて説明してきた。
同掲書 P75


ゼロ年代のネット環境をとらえる上で大事なのは、ネット上での創作行為が巨大に花開いたことです。(中略)明らかに日本のネット空間は豊穣で、あまりにも豊かな才能と資源が投入されているのが、日本のCGMの世界です。
同掲書 P106


(前略)「ニコニコ動画の生成力」論文や、3号の「アーキテクチャと思考の場所」で報告した内容というのは、要するに日本のネット空間ではほかの国に見られないようなガラパゴス的な進化が起こっていて、そこでは非常に自由な淘汰・競争があり、だからこそ異様な創造力が発揮されているんだ、ということでした。言うなればこの「ガラパゴスリバタリアニズム」ー日本特有のアーキテクチャで起こる活発な自由競争ーとでも呼べる状況をなんとかして日本社会の現在と未来を考えるために使えないか、ということだったんです。
同掲書 P128

『個』を重視するインテリ


インターネットにある程度理解ある人でも、日本のインータネットの現状に希望を見ている人は多くない。特にテクノロジーの主要な部分が米国発で、それを受容することで始まったインターネットは、まぶしいほどの米国の思想と理想を共々日本にも持ち込んだ。確かにそれは日本のインテリ、特に日本の古い既得権益にがんじがらめで変化を強固に拒む体質に辟易している意識の高いインテリ達の『個』の力を拡大し、活動を広げ、希望を垣間見せる役割を果たした。(そしてあらためて日本のインターネットの現状に絶望することになった。) 



繋がりの社会性


だが、かつて社会学者の北田暁大氏が『繋がりの社会性』*5という用語で日本の若者のインターネットや携帯電話の普及を前提としたコミュニケーションのあり方、すなわち、意味の伝達を最重視して誤解の伝達を回避することを優先するのではなく、誤解を回避する努力を犠牲にしてでも円滑に、場の空気を破壊しないように伝達行為が接続していくことそのものを重視する作法にこそ、日本のインターネットの本質がある。それは現象として『炎上』や『祭り』を数多く発生させ、ゆえにまた旧来のインテリの嫌悪の対象にもなってきた。


しかしながら、2011年に起きた、中東の民主化革命、ロンドンでの暴動、ニューヨークにおけるウォール街選挙デモ等、いずれも日本の『繋がりの社会性』と同質のエッセンスが世界を揺さぶる原動力となっていた現実があきらかになるにつけ、世界の主流はむしろこちら側にあることが感じられるようになった。この状態を素直に認めれば、『繋がりの社会性』を活用し、インターネットを通じたソーシャルメディアを地域を超えた共同体形成の活性化の主役と位置づけることをもっと真剣に考えるべき、ということになる。



希望はあるが活かせていない


インターネットに支援された『個』が力を持ってリーダーシップを発揮して、政治や社会、企業を切り盛りするというあり方が米国的だとすると、個々は匿名性の背後に隠れているが、『繋がりの社会性』がニコニコ動画ピクシブのようにプラスに働くとn次創作が無限にマッシュアップしていく日本では、そのパワーと可能性を最大限生かすことをもっと志向すべきで、そういう意味では、希望自体は満ちあふれているのに、それをシステムとして活かせていないのが今の日本ということになる。これが『希望論』の核となる主張の一つだ。



ゲーム/アーキテクチャーが鍵


そして、そういう日本のコンテクスト(文脈)では、政治/社会改革でもビジネスでも、一人の人格のカリスマ性と物語ではなく、ゲーム、それも大きなゲーム/アーキテクチャーを仕掛けていくことが鍵になる。その成功事例の一端は『M-1グランプリ』や『AKB48』に現れて出てきている。これはゲーミフィケーションの提唱者の中心にいるジェイン・マクゴニガル氏が、ゲームを通じて社会を良い方向に変えて行こうと語るように、ポジティブな社会運動に繋がって行く可能性がある。もちろん、同時にこの仕組みを悪用する輩も沢山出てくることも予想されるわけで、だからこそ抵抗力という意味でのリテラシーを社会的に高めておくことが必要、と語る。



やるべきことがわかってきた


この本のエッセンス、本質は、是非あらゆる年齢層、特に日本の実権を握る中高齢インテリ層にも届くことを期待したい。難しいことはわかっているが、本当にそれが可能になれば、日本の活力やエネルギーの原泉に言語化と秩序を与え、必要な社会改革に流れをつくり、世界への発信も十分に期待できる。だが、現実的に言えば、やはり既存の組織、企業、団体の変革をベースとしていくことの難しさをあらためて感じてしまう。それよりは、個々人がソーシャルメディアの利用に熟達し、自ら発信しつつ、インターネット内で起きていることを熟知し、その本質に理解を深めて行くことが重要だと思う。少なくとも、既存の企業や団体の変革自体も、インターネットの側から、コンテキストを洗い変えてしまうようなアプローチが必要だろう。そう考えれば、今すぐただちに、今ここでできることは沢山あるはずだ。久々に大変元気をもらう事ができた本だ。文句なく、『おすすめ』である。

*1:

*2:

希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)

希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)

*3:

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

*4:http://www23.atpages.jp/akb49/

*5:つながりの社会性 - Wikipedia