社会を壊わしてしまわないためにこそ/『自助論』再考

複雑な心境になる『MOTTAINAI


昨年、残念ながら亡くなってしまったが、ケニア出身の環境保護活動家であり環境分野での初めてのノーベル平和賞受賞者でもある、ワンガリ・マータイ氏が日本の『もったいない』という言葉を知って、これを環境問題を考えるにあたって重要な概念として世界に広めようとしていたことは忘れることができない。これを聞いて、異国の女性が日本の言葉に興味を持ってくれたことも、それを世界に広めようとしてくれていることも、日本人として素直に嬉しい気持ちになった人は多いはずだ。マスコミも大いにこの人のことを取り上げた。だが、少なからざる日本人は、一方で何ともきまりの悪い気持ちになったはずだ。何故なら次のような考えが湧いて来たに違いないからだ。

『もったいないなどと言っていては、経済はまわらず、科学も発展しないだろう。』

浪費は善?


日本でも戦争を経験した世代にとっては極端な物不足を経験していることもあって、『もったいない』は誰もがあたりまえに受入れていたコンセプトだったろう。だが、バブル世代等にとっては、まだまだ使えるような物でもどんどん廃棄して新しい物を買うことは、経済を活性化し、労働者に仕事を与え、所得を増やし、経済を拡大する、という意味で、誰からも後ろ指をさされない『善行』だったわけだ。


そのような価値観を持つ層が日本人の中で予想外に大きな比率を占めていたことは、東日本大震災の時にあらためて明らかになった。被害のあまりの大きさに皆が花見や外食を自粛しようというムードだったときにも、経済がまわらなくなることを懸念して『こんな時ほど消費をすべき』という意見を表明する識者はちゃんといたし、原子力発電所の事故のあれほど衝撃的なシーンを目の当たりにしても尚、電力消費が減ること=経済が回らなくなることを懸念する人は大変多かった。


比較的最近まで(いや今でも)かなり数の人が、経済が成長し、科学が発展すること、そのために賢明に働くことが自分と自分たちの家族を豊かにし、日本社会全体を豊かにすると信じていた。新しい家電が出るとすぐに買って、車も2年で買い替えるような消費は、個人的な満足はもちろん、自分のコミュニティ(会社コミュニティ等)にも認められ、経済活性化に寄与すると単純に信じていられた。



混乱の極み


だが、今では、そんな人達であっても、地球環境問題が大変シリアスであること、今後新興国の経済規模が大きくなり、消費がさらに拡大すれば急速なペースでこの問題がもっとシリアスになるであろうことは知っている。思地球温暖化という現象だけが問題なのではない。地球という絶対的な制約で『モノ』が決定的に不足し、『モノ』を生産し、消費することは必然的に環境を汚染する。だが、経済を回すためには『モノ』の消費は必須だ。大変なジレンマを抱えてしまったものだという認識は濃淡はあってもある程度浸透して来たと言っていい。モノの浪費をしていると、心のどこかに罪悪感を感じるようになってしまった人は(私を含めて)多くなったし、そんな消費を誉めてくれるコミュニティなどなくなってしまった。「科学」も「経済」も「生産」も「消費」も信じるに足る価値ではないし、幸福を保証してくれない。ふと気づくと若い世代はとっくにそのことを察知していて、モノの消費に執着しなくなっている。いつかそんなことになるのでは、という予感はあったが、とうとう本当にそうなった。それどころか、大抵の人の予想をはるかに越えて、現実はさらに過剰なスピードで変化を続けている。これからどうやって生きて行けばいいのか。皆混乱し、不安になってしまうのも無理は無い。生計を立てて行く方法だけではなく、ライフスタイル、道徳観、人生観、宗教観、信念等、価値意識に関わる部分も混乱の極みと言わざるをえない。



驚くべきデータ


ここに、心胆を寒からしめるデータがある。


2007年に行われた調査(出典:「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project)によると、『自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない』と考える人の割合が日本が世界でダントツに高いというのだ。(38%) 自由と自己責任を原則とするアメリカ(2位)でさえ、28%と日本が10%も上回っている。この数値にはさすがに慄然としてしまう。

日米以外の国におけるこの値は、どこも8%〜10%くらいである。イギリスでもフランスでもドイツでも、中国でもインドでもブラジルでも同様で、洋の東西、南北を問わない。経済水準が高かろうが低かろうが、文化や宗教や政治体制がいかようであろうが、大きな差はない。つまり“人”が社会を営む中で、自分の力だけでは生活することすらできない人を見捨てるべきではない、助けてあげなければならないと感じる人が9割くらいいるのが“人間社会の相場”なのである。


 にもかかわらず日本では、助けてあげる必要はないと判断する人の割合が約4割にも達している。日本は、“人の心”か“社会の仕組み”かのどちらかが明らかに健全/正常ではないと言わざるを得ない。この場合、政治の制度や仕組みと比べて人の心はずっと普遍的であるはずなので、問題は日本の政治の仕組みや政策にあると考えるのが妥当である。言い換えるなら、人の心をここまで荒んだものにしてしまうほどに、現行の日本の政策や制度は正しくないということになる。


「成長論」から「分配論」を巡る2つの危機感:日経ビジネスオンライン

それでも『自助』をすすめる


この記事では『問題は日本の政治の仕組みや政策にあると考えるのが妥当である』とあって、これは必ずしも間違ってはいないし、今後成長論に偏った施策を分配論の視点で見直していくことも必要だろうと思う。だがそれ以上に問題は日本の政治が上記でも述べたような世界の劇的な変化に対する理解があまりに欠けていることにあると思う。だから、前回のエントリーでも述べた通り、日本の政治がすぐに変化し改善されることを前提にすることはあまりにリスクが大きい。よって、個人個人がまず自分と自分の周囲のコミュニティを守る『自助』のすすめについて書いた。ただ、事前に予想はしたことだが、『これ以上日本で格差が広がったら社会が壊れてしまうから格差や貧困に対する国単位での施策の優先度は高いはず』、というようなお叱りに近いご意見も頂戴した。もっともなご意見だと思う。だが、それでもあえて再度、今の日本/日本人には、『自分と自分の近く(距離/心理的 両方の意味で)のコミュニティを守る自助の精神』がどうしても必要だと主張したい。それがなくて、道徳観や宗教観まで混乱してしまっている人に物的/経済的な援助だけ与え続けても、人間社会の相場をも踏み越えるほど荒んでしまった日本人の心を癒すことはできないと考える。


21世紀の『自助論』が必要かもしれないこと - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る



先に進める人には進んでもらうべき


21世紀の『自助論』はもちろん19世紀のそれとは同じではない。前回引用した岡田斗司夫氏の『評価経済社会*1を再び援用すると、産業革命以降200年間を支配したパラダイムのベースである、『モノ余り・時間不足』の状況は終焉を迎え、『モノ不足・情報余り』、さらに加えれば『インターネット・ソーシャル』の高度利用社会の到来と共に、パラダイムやライフスタイル、社会や個人の価値観の組み替えが起きていく。いや起こしていかなければならない。モノ余りを前提としたライフスタイルや価値観は上記に見る通り、どの世代にとっても破綻しつつある。否が応でも21世紀のパラダイム、ライフスタイル、価値観を再構築せざるをえない。それは先ず情報/コミュニティー強者の手によってなされることになるだろう。そのために必要とされる要素は、テクニカルなものだけではなく、極めて思想的なものになるだろうし、新しいコミュニティー・レイヤーを社会や個人生活に上手にインテグレートしていく知恵も必要だ。何より、それを進めて行こうという意欲と気概が必要になる。そして、そういう彼らの行動は後に続く人達にとって、自らのライフスタイルや価値観を見直して、『自分の生き方』を再構築して行く上での貴重な参考とされていくだろう。その意味で先頭を切り開ける人にはどんどん先に進んでもらう方がいいということになる。


今の日本の最大の問題は、何をやってもどうにもならないという『閉塞感』にあるから、新しい時代のコンセプトを切り開けるかもしれないという期待感やそれに対する意欲は出来る限り大事にするべきだ。その期待感、意欲、気概こそ今の日本では一番大事にすべきものと考える。



善意の増幅装置として


そんな能力はないと思わず諦めてしまいそうになる人にとっても、ソーシャル・メディアが進化した世の中のメリットは小さくない。ソーシャル・メディアは悪意も増幅するが善意もまた増幅していく力があるからだ。そして、自分がして欲しいことを自分からすれば必ず自分に帰ってくる、ブーメランのような力もある。情報が欲しければ自分から情報を発信する、援助が欲しければまず自分から援助を申し出る、励ましが欲しければ励ましてあげる。それがリアルであることは、今では多くの人が賛同してくれるだろうし、私自身何度も体験した事実でもある。待っていないで前に出る。その気持ちがあれば、それはソーシャル・メディアを通じて同じ種類の気持ちを増幅することができる。だからこそ、自助の精神とそれを支える意欲を尊重していくことが、社会の再構築にも繋がると考える次第である。

*1:

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

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