21世紀の『自助論』が必要かもしれないこと

新聞の社説


一昔前はやたらに読んでいたのに、最近すっかり読まなくなったものに、新聞の社説がある。ところが、最近たまたま『社説リーダー』*1というiPhoneアプリを見つけて使ってみるようになって、久々に新聞各紙の社説を大量に読み比べてみる機会に恵まれることになった。確かに社説がこれほど集中的にまとめてあると、新聞各社がどのような視点を持っているのか、あるいはどういう違いがあるのか等を大変効率的に知ることができる。このアプリを使っている人の評価をざっと見ても、概ね好評と言ってよさそうだ。


新聞購読の下落はもう歯止めがかかる気配もなく、Yahoo!のようなインターネットのまとめサイトにピックアップされた単体の記事を読むことはあっても、パッケージとしての新聞を読む機会は減る一方だ。新聞記事というのは、新聞全体構成のどこにどのような順序で配列されるかで、新聞社の考える記事の重要性が明確に示され、中でも重要なトピックは社説として取り上げられて、各社個別に意見表明をする。当然そこには、新聞社の意図があり、それを読む読者も知らぬ間に影響を受けて来た。かく言う私も、情報を伝えてくれる媒体がマスコミに限られていたころは、テレビや新聞、雑誌等から発信される情報にできるだけ沢山触れることが大事とか思っていたから、いつの間にかマスコミの『洗脳』を受入れて来たというべきだろう。



愕然としてしまう


しかしながら、ここ数年、実際のニーズを感じなくなったこともあって、新聞の定期購読はやめてしまった。同時に、社説もほとんど読む機会がなくなっていた。だから、この『社説リーダー』で沢山の社説を読み比べることは案外楽しかった。論調や文章の書き方の癖等にノスタルジーを感じさえした。だが、すぐに愕然としてしまった。背景にある世界観、社会の把握の仕方、使命感、立ち位置等、どれをとってもあまりに旧態依然で、現在世界的に起きている空前絶後の変化について、ほとんど理解が及んでいない。少なくともそう思わずにはいられないのだ。このような現代のマスコミの問題点を語る識者は増えて来ているので、問題の所在自体は知ってはいた。だが、今回は、とても小さなきっかけではあったが、非常に大きなインパクトを持って実感することになった。



しぶとい共同幻想


新聞が相手にしているのは、「日本人」「日本国」であり、自らを「典型的な良識ある日本人」と位置づけ、世界経済を語り、日本国の現状を憂い、大所高所から法を説く。だが、かつて日本全体がマスコミの強い影響下にあって、誰もがほぼ同じようなライフスタイルを受け入れ、考え方も大同小異という時代ならともかく、これほどすべてが多様化し、情報源が増え、価値観もバラバラになった今に至っても、まだ大時代的な抽象概念で日本人や日本全体を語ることができるというのは、いったいどういうセンスなのだろう。いまだにムラ的な共同幻想から覚めていないということなのか。確かに、どの世界でもまだ旧来の共同幻想はなかなかしぶとく生き残り、構成員が次々覚醒して騒ぎだしても、覚醒が遅れたオールドタイプが膨れ上がる不安感やプライドを大量に吸い取り、共同幻想の亡霊はむしろ膨張して居座り、時に非常に凶暴に暴れ回る。断末魔ではあろうが何とも始末が悪い。



ターニングポイント


だが、時代はそろそろターニングポイントを迎えている兆しはある。例えば、かつて日本のスター的存在であった、エレクトロニクス、電気メーカーが今まさに断末魔の様相を呈している。ソニーパナソニック、シャープ、日本電気・・・その全盛期を知る者にとっては、とても信じられないものを見る思いだろう。だが、この数年、今日の惨状に至る可能性はさんざん取りざたされていた。合理的に考えれば壊滅の憂き目を見ると唱える論者の議論は冷静に見れば皆的を得ていた。だが、もしあなたにはそれがマイナーで非現実的な論に感じられたのなら、歪んだ共同幻想の中にいたのはあなたのほうだったということだ。そして、今も共同幻想の中にいる可能性が高いことを警戒したほうがいい。



『大停滞』が暗示する未来


2011年非常に話題になった本に、経済学者のタイラー・コーエン氏の『大停滞』*2がある。そして、ここで主張される内容には大変多くの賛否双方の意見が飛び交った。タイラー・コーエン氏の主張を簡単に言えば、こんな感じになる。

現代の我々を非常に豊かにしてきたイノベーション(自動車、テレビ、飛行機等)ほど本質的な技術革新はもうインターネット以外には何もない。容易に収穫できる果実はすでに食べ尽くしてしまったということだ。だから先進国ではこれからは経済は非常に緩やかにしか成長しない。唯一の例外のインターネットも先進国ではほとんど雇用を創出しない。むしろ従来型の中間業者を駆逐したりコストの安い新興国に追いやって、先進国内での雇用は減らす可能性さえある。ゆえに、インターネットを創造的に利用する起業が立ち上がったり、企業業績が回復してもさほど雇用は増えない可能性が高い。


私個人的に言えば、最初にこれを読んだ時にもさほど違和感はなかった。当たり前とさえ感じた。同時に、まだこれでは『先進国』という括りが制約になって、全世界的なビジネスプラットフォームの再構築という観点が語られていないとも感じた。いずれにしても、日本を含む先進国では、競争は益々厳しいものになり、付加価値の無い部分を担当する個人への報酬は中国やインド等でそれを行う人たちのレベルに揃って行くことになるだろうことを再確認した気がした。だが、古い共同幻想の中にいる人は、けして見たくない未来を見せられている恐怖感や不安感を強く煽られたようだ。およそ見当違いな反応も少なくなかった。


まあ、それも無理は無い。タイラー・コーエン氏が示唆し、暗示しているのは日本にとってもかなり手厳しい未来像だ。(但し、日本版の序文で『日本人は経済の停滞と共存する方法を見つけている。この点は、かつての高度成長に匹敵する偉業と言えるかもしれない』と書かれてあるが、私にはブラックユーモアにしか読めない。)


あられもない言い方をしてしまえば以下のようなことになる(多少拡大解釈気味かもしれないが・・)。

・日本企業の垂直統合体制は解体に向かう
・終身雇用体制も解体に向かう
・国内の所得格差は今よりもっと大きくなる
デジタルデバイドももっと大きくなる
・経済成長はほとんどできなくなる

自分がどうするかが大事


これまで幻想の中で見ないふりをしていたのがそろそろ限界に来ている。いやでもこれから続々と『当たり前』の結果が出てくるようになるだろう。『幻想からリアルへ』がキーワードになるとさえ言っていいのではないか。だが、どの問題も、先の新聞社説で語られるような、『日本』『日本全体』に国家のレベルで一律に対処することは極めて難しい。というよりそのようなアプローチ自体に意味がない。だから、このままではどんな有能な政治家であっても頭を抱えてしまうだろう。まして、今の日本の政治家のレベルを考えると、政治的な対応が適切に行われる可能性は極めて低いことを前提としておくのが賢明だ。そして、日本の政治が酷いだの、企業トップが無能だの、いくら批判したり、くだを巻いても大方時間の無駄で、無い物ねだりでしかないと考えておくべきだろう。結局のところ、『自分がどうするか』が何より重要になる。


ジャーナリストの佐々木俊尚氏はきっぱりとこう述べる。

佐々木: いや、それは事実なんですよ(笑)。身も蓋もない言い方ですが。僕はこの時代を格差社会だと思っています。かつてはこういう議論になると必ずどうすれば日本人全員が幸せになれるかという話になって、なぜかみんなが政治家のような意見を言いたがって、「いや、このままじゃ日本はダメだよ」みたいな話になるんです。しかし、ここまで分断が進んで温度差が広がって個人個人の住んでいる圏域が細分化されている状況のなかでは、政治家でもない限り個人が日本を背負うことはできなくなっていると思います。


 だから、「自分は」こういうことができるからこういう選択肢を選びましたという話はできるけれど、それができない人だったら別の道を考えればいいじゃないですか、ということです。私はあなたの生き方まで背負う義務も権利もありません、という身も蓋もない話じゃないかと思います。


佐々木俊尚が5人の若者に迫る『21世紀の生き方』第3回「『日本は』『日本人は』なんて大きな主語の議論をやめて、個人をベースにものを考えよう」 | 佐々木俊尚「ブレイクスルーな人たち」 | 現代ビジネス+[講談社]

自助/自立が社会を救う


この大変動の時代にあっては、自分個人が生き抜いていけるよう皆覚悟を決めて頑張るしかない、というメッセージだ。そして、がんばれば『縛りの強い会社共同体からの自由』や『新しい時代における充実感』という今までにない大きな報酬もある。私も、まったくその通りだと思うし大変真っ当なご意見だと思う。まずは、自分自身を救う、『Self Help』の重要性こそ、特に日本ではもっと皆が意識すべきだと思うからだ国家単位/企業単位でできることはこれから益々限られてくるし、場合によっては国家や企業と個人の利害対立さえ増えてくる可能性もある。明治時代初頭に、福沢諭吉先生の『学問のすゝめ』とともに当時の青年達を奮い立たせた、サミュエル・スマイルズの『自助論』(『西国立志論』)*3の立場ということになるかもしれない。いかに企業を救っても国家を救っても個人が救われるとは限らない世の中になろうとしている。個人として自助できてはじめて社会に貢献もできる。個人が自立すれば、企業や国家への忠誠というようなタイプのモラルは弱体化していくだろうが、自分の周囲のコミュニティとそれを集合した意味での社会に対する道徳心やモラルはむしろしっかりしてくることも期待できる。



本物志向の『評判』


というのも、評論家の岡田斗司夫氏が、自著『評価経済社会*4で述べるように、今後社会は急速に『貨幣』よりインターネットを活用したコミュニケーションを通じて集めることができる『評価』が重要になっていくことは確実だ。(すでにその兆候は社会の各所に濃厚に見られる。)言わば、他人の認知/評判を競って得ようとする社会が到来するというイメージだ。まだ議論が未成熟な段階にあるせいか、『評判』の内容が、『認知が広がりさえすればいい』というようなレベルで議論されているように見える。もちろん最初は何でもいいから自分の名前が知れ渡ることも大事かもしれない。だが、情報や評価の機会が増えれば、評判でさえコモディティ化していくことが予想される。そうなると今度は評判の内容が重視され、いわば評判の『本物志向』が生まれてくるに違いない。評判も量から質に転化していくということだ。そのためには、あてにならない国家や会社ではなく、自らのことは自分できちんと律して(自助して)、自分がつくりあげる、コミュニケーション・ルートやコミュニティを大事にする姿勢が何より重要になっていくと思う。まあ、このあたりの問題は、まさにこれから繰り返し取り上げ、議論して行きたいと考えている。

*1:社説リーダー | Androindアプリ | スマホで仕事効率化!ビジネスアプリのお仕事アプリ.com

*2:

大停滞

大停滞

*3:

自助論

自助論

*4:

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている