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『父親/理想の男性像』『父性』不在の日本の諸問題

『断絶』がサブテーマ


ここしばらく自分自身が書いて来たエントリーを振り返ると、メインテーマの背後にあるサブテーマとして繰り返し意識していたのは『断絶』だった気がする。経済成長する日本を知る世代と知らない世代、インターネットに物心がついた頃から親しんでいる世代と大人になってからインターネットを利用するようになった世代、同じくソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)を子供の頃から使いこなして来た世代と全く使ったことのない世代等々、世代間の価値意識がかなり違っていて、「断絶」と言えるほど溝は深い。しかも世界は非常に速いスピードで変化し、相応に新しい世代も変化している。それに対して、変化に疎い古い世代が、すでに通用しなくなった価値観や制度に固執することで改革が進まなかったり、インターネットやSNSのことを理解できないため日本が世界の競争から取り残されてしまう原因となったりしている。


この断絶に気づいていないのであれば、早くそれに気づき、虚心坦懐に自らのあり方を反省する人が少しでも増えれば、古い世代が支配する制度の箍が緩み、システムの自由度があがり、若い意欲のある世代が動きやすくなる、少なくともその可能性が高まるに違いない、というのが私の発したメッセージの一つだった。



父性の消滅


ただ、その文脈で分析を進めるにあたり、もう一つどうしても留意しておくべきことがあるのではないかと最近特に感じるようになった。それは、少々いい方が難しいが、父親像(=日本文化の中核にある理想の男性像)の消滅』だ。『父性の消滅』と言い換えてもいいかもしれない。そしてこれはもうひとつの『溝』を構成しているように見える。この仮説、現代日本を理解する補助線として結構機能するのではないかと思えるし、バラバラに見える現象を繋ぐリングの役割を果たすのではないかとも思われるので、まだ未成熟な仮説には違いないが、ここに提起しておこうと思う。



戦争に負けて入れ替わる父親(男性)像


太平洋戦争後、日本の父性的な権威は地に落ちた。(日本の「父性」が西洋的な「父性」と同じかどうかというような微妙な問題はここでは一旦置いておく。)主として明治期以降の日本人の父親像(=男性像)、父親の権威のロールモデルの中から、軍人等戦争に関係するものがごっそりと抜け落ちてしまうことになる。それどころか、大多数の日本人にとっては、かつての尊敬の対象は、戦後は尊敬の対象どころか、嫌悪し、忌避するべきものになってしまった。そして、誤解を恐れずに言えば、日本人の父親の理想像のイメージとして多少なりとも拠り所とされたのは、戦争で日本を焦土にした米国人であった。



米国こそ父親


無謀な戦争に日本を巻き込み、拙劣な戦略で大量の国民を犠牲にしたとされる旧帝国陸海軍は当時の日本人の父親像と共に忌避されるべき対象となり、代わりに戦争には圧勝したのに寛容な米国人は解放軍として親しみと尊敬の対象として日本人に受け入れられる。(その象徴が占領軍のトップとして日本に乗り込んできたマッカーサー元帥ということになる。)多分に米国の意図的なイメージ戦略があっとことは今ではかなり明らかになってきているが、少なくとも日本人の大多数が受け入れた物語であることは確かで、その後大量に入ってくる米国のテレビドラマ等を通じた米国人男性の理想像(ジョン・ウェイン等)を日本人なりに消化できる形で受け入れつつ、戦後の父親像、家族像が出来上がっていく父親的な権威の源泉が多くの日本人にとっては米国にあるから、以後、日本は米国に依存し、甘え、時に反抗するが、圧倒的で力強い父親に対して、子供が成長して父親を乗り越えて行くという物語は日本では成立が極めて困難になる。日本の国家としても、日本人全体としても、『子供化』が顕著になる遠因の一つがここにある(と考える)。



自信を取り戻した企業戦士


戦後の日本は、政治は二流だったとしても、少なくとも経済は一流への階段を駆け上り、その先兵となった企業戦士はまがりなりにも自信を取り戻した。松下幸之助本田宗一郎といった世界に誇れる企業人も出て来て、自動車や電化製品では米国企業さえ圧倒した。そして、もしかすると経済では米国を追い越して、長い『父親コンプレックス』をとうとう払拭できるのではないかとの淡い夢さえ見ることになる。



成長路線に固執する企業戦士


その後バブルは崩壊して、日本は長い低迷期を迎えることになるが、日本経済の頂点を経験した企業戦士に代表される人たちは、自分たちが実現した成功フォーミュラを時代の変化にあわせて修正して行くことで、夢よもう一度、再び日本が経済成長路線に戻れるはず、いや、戻らなければいけないとの信念を捨てずに、弱体化して見える若年層を叱咤激励してきた。



若年層に見えていた現実


だが、その若年層に見えていた現実は、すっかり古びて機能しなくなってしまった成功フォーミュラにしがみつき、インターネットによって劇的に変化しつつある世界の潮流には取り残され、第二の敗戦を迎えてしまったリアルな日本の姿だ。若年層にとっては、戦後日本が経済的な成功と共に意識し醸成しつつあった父親的な権威も尊敬ももうすっかりゼロリセットされてしまっているのではないか。その象徴が経団連だ。かつては土光敏夫のような戦後日本の経済人の土性骨を体現する人物がトップに座り、尊敬と信頼を集めていたことがあったことは、今の経団連しか知らない若年層にはおよそ想像すらできないだろう。



米国も・・


加えて、911以降カウボーイ的な男性的な勇ましさを全面に押し出してアフガンからイラクへと戦火を拡大し、軍費も、人命も、戦意もすっかり蕩尽してしまったかのような米国は、一部識者からはずっと指摘されていたように、まさにベトナム戦争の二の舞を演じつつあるように見える。さすがにベトナム戦争後と今が全く同じではないにせよ、当時見られたような米国の伝統的な価値観への懐疑はすでに起きている現実だ。米国内での影響も当然甚大だが、精神的な依存関係が強い日本人のマインドに及ぶ影響も意味は違うが非常に大きいと考えられる。もっとも、若年層のマインドには米国に対する依存心やアンビバレントな感情自体、もともとないと考えるべきか。いずれにしても、米国も日本人に父親像を提供してくれる源泉にはなりえなくなって来ている。



ベトナム戦争後の米国の変化


具体例なしにはわかりにくい概念を語ってしまったかもしれないので、ベトナム戦争後の米国の変化に関する以下の文章を引用しておく。米国の精神医学を専門とする大学教授(当時)のロバート・リフトン氏の談話である。

(前略)そのとき私はベトナム戦争に参加した多くの米兵にインタビューしました。彼らはなんらかの形でベトナム戦争に志願したのですが、実際に戦争とはなんであるかを知った後では、戦争を憎悪するようになりました。あらゆる手だてを使ってそこから抜けでようとし、事実そうしたのですが、もう一歩突っ込んで調べてみると、彼らが「ジョン・ウェイン型」と呼んでいるものによってつちかってきた男らしさの感覚を問い直さなければならないと分かったのです。ジョン・ウェイン型とは、頑丈で無口、女々しさなどひとかけらもなく、忠誠を誓うものをかばうためには、突然暴力をふるうこともある。「それは危険です。ぼくたちを戦争に引き入れたのもそれなんです」と若者たちは語り始めました。戦争を非常に誇張された形で、狭く男らしさと結びつけていました。この点を疑い始めると、彼らは自己の中にあるもっとも柔軟な部分、情緒を感じとる側面、アメリカ社会では女には許されていても男には恥ずべきこととされていた人前で涙を見せる、そういう側面を探しもとめました。これは、抑圧されていた母性原理の再発見になります。


河合隼雄 全対話』*1 P153

若年層に顕著な現象


今の若年男性について様々に語られるようになった、下記のような現象の背後に、父親/理想の男性像』『父性』の影がすっかり薄くなってしまったばかりか、場合によっては嫌悪の対象にさえなっている現実の影響が色濃くあるのではないか。



草食化

車離れ(車嫌い)

セックスレスの広がり

友達のような親子

一億総若者化

生命原理重視


通過儀礼もなくなる日本


昨今の若者が酒を好まず、ゴルフはやらず、会社で先輩諸氏が飲みに誘っても簡単に断る、というのがよく話題になるが、これも昔は日本人の男性サラリーマンの一種の通過儀礼のようなもので、一人前の男性サラリーマンとして自他ともに認められる機会となっていたように思う。私などこういうのは嫌いだったが、それでも、この種の通過儀礼によって、学生気分が抜けなかった新社会人が、ぐっと大人びて見えるということは現実にあったと思う。



大事な概念ツール


このような現象自体の善し悪しを語ることには本来意味はないが、理解の齟齬が混乱の原因となってしまう事例は枚挙にいとまがないし、これからの社会のありたいイメージをつくって行くにあたっては大事な概念ツールになっていくのではないかと思う。特に政策を仕掛ける側や若年マーケットを対象とする分析を行う人にとっては一層重要性を帯びてくるに違いないと見る。私自身、今後はもう少し具体例も入れながら、自分なりに分析して書いてみたいテーマだ。