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自分自身を明確な言葉で語ることが日本を変えるためには絶対に必要だ


TPP狂想曲第二幕


予想通りTPPの騒動は簡単には終わらなさそうだ。APECでの野田首相の発言は早々、『二枚舌』との誹りを受け、新たな混乱の第二幕が開いた感がある。農業関係者はじめ、反対派も簡単に矛先をおさめるとは考え難く、国論を二分するあらたな大論争が続くことになりそうだ。



見えてくるのは日本の構造問題


しかし、原発推進/反対の論争もそうだが、TPPに関わる論争も、踏み込めば踏み込むほど誰と誰が、何と何を争っているのか分からなくなってくる。しかも、議論と議論を噛み合わせて解決を探るという了解がまったくないままに、互いが互いに作り上げた虚像と虚像がぶつかり合っているように思える。基本的には非常に重要な問題であることは言うまでもないのだが、どうしてこうも報いのない疲労感ばかり残るのか。どうやらこれは個別の論争の具体的な内容が問題なのではなく、このような論争を通して浮かび上がってくる、現代の日本の構造問題と認識すべきではないか。では、それは一体どのような構造問題なのだろうか。



日本のTPP参加に否定的な米国議会筋


その本題に入る前に、最近のTPPをめぐるニュースの中で、少々目から鱗が落ちた思いがしたニュースがあるので、そちらの話からしよう思う。これは、ビデオジャーナリストの神保哲生氏の『マル激オンデマンド』(11月11日付け)を拝聴していた時に話題として出て来たのだが、米国の議会筋では、日本をTPPに安易に参加させないほうがよいという意見が結構あるという。日米の貿易に関して強硬論を唱えて来た人達(特にデトロイト等の自動車関連議員やその周辺)は、日本をTPPに入れるなら、今度こそ非関税障壁を撤廃して市場を開放することを確約させろ、と主張しているという。今回のTPP狂想曲では、「米国陰謀論」さえ出るくらいに、米国は自国の製品や農産物、サービス等を日本に売ることで自国の雇用を拡大したいという強い願望があり、出来るだけ日本を引き込もうとしていると躍起になっている、というのが前提としての日本側の一般的な了解事項だったはずだ。であればこそ、そのような陰謀に易々とだまされようとしている政府に対して強い拒否反応が出て来ているというのが、一般に流布している認識といって間違いないと思う。だから、大抵の人はこの米国の世論は全くの寝耳に水ということになるだろう。


ここで言う、米国人による日本のTPP参加反対論者の言い分は、日米双方(実際にはTPP加盟国すべて)の関税が下がれば米国側の日本からの輸入は文字通り上がると思われるが、米国から日本への輸入は増えない。なぜなら、日本は『非関税障壁』というアンフェアで狡猾な防壁をいまだに巧妙に巡らしているからだ、というわけだ。



非関税障壁撤廃をめぐる苦闘の歴史


この『非関税障壁』の撤廃を表看板に掲げて1989年から始まったのが、日米構造構造協議だ。それ以前にも日米二国間での貿易交渉は度々行われてきたが、いずれも個別の品目や制度に範囲を限定したもので、商習慣や流通構造などの国のあり方や文化にまで範囲を広げたのはこれが初めてだった。日米構造協議自体は、1990年で一旦終了するが、1993年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994年以降は「年次改革要望書」という形で、米国から見た日本の『非関税障壁』を構成する商習慣や法制度、流通構造等の変革について執拗に要望が出続け、結局自民党民主党政権交代が行われるまで、連綿と続くことになった。あらためて振り返ると、その後の日本社会に与えた影響は実に大きいことがわかる。また、米国との良好な関係維持を絶対としてきた結果とはいえ、日本側もよくぞこれほどの大施策を次々と実行してきたものだとも思う。以下Wikipedia掲載情報をもとに引用/列記してみた。今更ながら唖然としてしまう。

1997年 独占禁止法改正・持株会社の解禁
1998年 大規模小売店舗法廃止、大規模小売店舗立地法成立(平成12年(2000年)施行)、建築基準法改正
1999年 労働者派遣法の改正、人材派遣の自由化
2002年 健康保険において本人3割負担を導入
2003年 郵政事業庁廃止、日本郵政公社成立
2004年 法科大学院の設置と司法試験制度変更、労働者派遣法改正(製造業への派遣を解禁)
2005年 日本道路公団解散、分割民営化、新会社法成立
2007年 新会社法の中の三角合併制度が施行


年次改革要望書 - Wikipedia

しかし結果は・・


善し悪しはともかく、間違いなく言えることは、日本の旧来の制度はその思想の部分にまで影響を受け、変質することになったということだ。少なくともそのきっかけとなった。だが、結果として日本の市場は開放的になっただろうか。非関税障壁が撤廃されて希望通り輸出入は拡大しただろうか。米国側にとって日本は参入し易い良い市場になっただろうか。これが始まった当時と比較すると、中国の台頭、日本の衰退、米国一国支配から多極化の流れ等、環境がドラスティックに変わり過ぎて、一概に比較しにくいものの、少なくとも私には、日米双方にとって当初意図したような結果が得られたとはとうてい思えない。今回の米国議会の日本の見方は、かなりの部分あたっているように私には感じられる。米国は単に日本に製品の輸出を拡大するだけではなく、米国企業を日本の市場に進出させて、本来の競争力を日本市場でも発揮したいと考えていたはずだ。では、そうなったのか。その点についても極めて疑わしい。米国企業のみならず、日本の新興企業、ベンチャー企業にとっても今の日本の制度、慣習は信じられないほど閉鎖的で柔軟性を欠く。既得権益者が幾重にも『非関税障壁』『法規制』『政官財の癒着』の網を張り巡らしている。米国企業に言われるまでもなく、日本のITベンチャー起業家にとっても、アンフェアで身動きが取れない、それが今の日本市場だ。



誰もが幸福にならない改革


だが、一方、普通の日本の消費者/市民の感覚からすればどうだろう。グローバル化、市場開放の名の下に行われて来た制度改革は、得たものより失ったものの方が圧倒的に多いと感じている人が多いのではないか。繰り返すが、制度改革の意図するところは理解できる。だが、結果はあまり芳しくないと言わざるをえない。改革は必要だったし、今でも(今こそ)必要だろう。世界に開かれた日本を目指すしか道はない。だが、この決定的なボタンの掛け違えの構造に対処しないと、これからも『誰もが幸福にならない改革』を延々と繰り返すことになりかねない。今、TPPをめぐる何とも展望が開けない不安感、成功イメージが描けないもどかしさを多くの人が感じているのは当然とも言える。このままではTPPに賛成だろうが反対だろうが、日本に対する世界の評価はますます厳しいものとなり、改革も進まないだろう。



換骨奪胎が得意な日本


米国から気の進まない制度改革を押し付けられて、時の政府はやむなくそれを受入れて来たわけだが、結局日本という国は世界一『換骨奪胎』に長けた国であることを今度も証明したということではないのか。どんな制度でも、宗教でさえ、形式は借用するが、いつの間にか自分たちの都合の良いように独自のものに仕立て上げてしまう技は、世界のどの国よりも日本が長じている。仏教が大々的に入って来ても神道と共存し、あまつさえ『神仏混淆』などというサーカスのようなことを軽々とやってしまうイスラム教徒から見ると、キリスト暦を使用して、クリスマスを祝う日本人はどこからみてもキリスト教徒に見えるというが、当の日本人にそのような意識はまったくない。かといって、宗教心がないかと言えば、決してそんなことはない。他国であれば宗教心と呼ぶしかない心的態度が日本人の無意識にしっかりと根をおろしている。その『無意識的な核』にさえ影響が及ばなければ、他国の制度、思想、宗教など、形式だけ使わせてもらえばいいじゃないか、というのが典型的な日本人だ。グローバル化も市場開放も、本当のところそうやって自分なりのものにしつつあると言えるのではないか。(もっとも、グローバル化の日本仕様というのは語義矛盾のような気がしないでもないが・・)野田首相も日本人的には腹芸の達者な大人ということなのだろう。『神仏混淆』こそその戦略とお見受けした。



過剰防衛の問題


現象的な問題はあまりに錯綜し過ぎて、快刀乱麻を断つ、というな妙策はない。そのようなことを安易に口にする人がいたら、それこそ大いに疑ってみたほうがいい。過去の歴史は、こういう時には大改革を唱えて立つ小悪が人々の不安感や不満を一杯に吸い込んで醜悪なまでに巨大に膨らんで、その国や社会を二度と立ち直れないほどに破壊してしまうことが大変多いことを教えている。特に日本人は、考える以上にムードに流されてしまう傾向があることはずっと昔から指摘されてきたことだ。このようなリスクを潜在的にはいつも抱えていると言っても過言ではない。


だが、一方で今は若年層を中心に政治や宗教には無関心を決め込み、そのような話をする人に嫌悪さえ感じる人も少なくない。これなど、今の危機的な状況に対する日本人の無意識的な拒否反応、あるいは自己防衛反応ではないかと思えることがある(オーム真理教の事件の後、宗教と聞いただけで遮二無二耳を塞いでしまう人が増えたが、ここではそのような反応のことを言う)。ただ、確かにそれは一定の防衛機能を果たす可能性はあるにせよ、痛みを伴ってでも改革せざるをえないのが今の日本なのに、痛みに対する潜在的な強固な拒否反応が鎮座して、現状をまったく変えることができなくなる恐れもまた大きい。国際的にも日本はますます理解されないことになるだろう。そして、日本人の投票行動を変えるために、この自己防衛的な無意識をそれでも揺り動かす一層強い感情や感覚の刺激と、頭は空でもそいうエンターテイメント性に長けたムードメーカーを持って来ようなんて言う方向に流れて行くなら、今度こそ本当に国も社会も破壊され尽くしてしまうことは間違いない。



提案


快刀乱麻を断つ妙策はないと言ったが、日本が変わることができて世界からも受入れられるために非常に効果的な方法ならここに提案することはできる。それは、こうだ。

『自分自身のことを明確な言葉で語り、お互いのコミュニケーションはきちんと言葉で完結すること』

言葉でのコミュニケーションが大事


長く鎖国が続き、同質性が高い日本人は、つい最近まで自分自身のことを言葉で語る必要はなかった。何故なら日本人同士では『阿吽の呼吸』が通じたからだ。経済力をつけて海外に進出したとき、相手国は自分たちにも利がある限り、自分を語らずコミュニケーションが満足にできない日本人をそれでも放っておいてくれたとも言える。だが、利害が衝突し始めるとそうはいかない。異質な文化や伝統を持つ異質な国の人とコミュニケーションしたければ、言葉できちんと語るしかないなによりまず、自分自身のことをきちんと言葉で説明できなければ、コミュニケーションが成立するはずがない。日米構造協議以降の経緯を追っていると、この問題が非常に鮮明な形で表出したことがわかる。この時の日本人が一番困ったのが、相手のこと以上に自分自身のことを言葉で表現できなかったことだろう。『稲作は日本人の心』と決まり文句を唱えて、後は察してくれと言っても、砂漠に住むイスラム教徒とコミュニケーションが可能だろうか。日本人の『心』を相手にあわせて変えることより、まず、相手が分かるようにその『心』を言葉で語ることが何より大事で、それが本当の国際化の第一歩と言うべきだ。だが、残念ながらこの問題に日本は国家として真剣に取組んで来たとは言えない。個人としてもそうだろう。未だに日本人にとっては自分自身が一番の謎、というところは何ら変わっていない。



日本人同士でも


昨今では、日本人も皆同じとは言えなくなって来た。マスコミの力が弱くなり、格差は広がり、興味や関心も千差万別、伝統的なコミュニティも壊れて日本人同士もお互いがお互いにわからなくなって、孤立化/島宇宙化が進んで来ていると言われている。そうだとすればますます、日本人同士であれ、自分が何者であるのか、言葉できちんと説明して、言葉でコミュニケーションすることが必要なはずだ。感情的には一致しない相手であれ、言葉で合理的に話あって、言葉による理解をすすめることができれば、政治的な利害調整も今より円滑になるはずだ。深い断絶を感じてしまう世代間のコミュニケーションでもそうだろう。もう同質性を当てにして『阿吽の呼吸』、『貴様と俺の関係』、というわけにはいかないのだ。もはや日本人にとって選択の余地はないように私には思える。そして、その必要性、その認識が高まれば、インターネット、特にソーシャル系のツールが他者とのコミュニケーションにおける強力な武器であることに気づくはずだ。もっと自分から積極的に利用しようとする人も増えるだろう。感情や興味/関心等が一致しなくても、言葉で合理的に理解していくことができるようにすること、何より先ずそれを一番の課題と心得て取組むべきだと信じる。