不可避のパラドクスにどう対処するのか


日本にとって喫緊の問題とは


最近、非常にホットな話題と言えば、皆何を筆頭に上げるのだろうか。今年は地震津波原発事故等歴史に残る重大災害や事件が相次ぎ、海外に目を転じても、中東やアフリカでは続々と独裁体制が覆り、欧州も米国も世界恐慌の引き金をひきかねない逼迫した状況の中にある。これではどれほど重大な事件でも霞んでしまいそうだ。だが、実質的に日本人の生活に直結する非常にシリアスな話題として、私はTPPへの参加問題と大阪の橋本元知事の大阪の改革案をめぐる問題から今目が離せないでいる。しかしながら、本件についてはずっと発言することが出来ずにきた。言いたいことは沢山ある気がするのに、うまく言葉にならない。そして、何を言っても誤解を受けてしまいそうな気がする。ただ、巷の議論や意見の応酬を見るとストレスが溜まってしまう。既存の陳腐化した枠組みを出ることなく、非常に矮小化された議論がいかにも多いと感じてしまう。そうしているうちに、私がここで何かを書くことが、このものすごく混乱した状況に一石を投じることになるとはとても思えないにせよ、それでも、一度自分の頭を整理し、今問題に向き合うことなくして、今後自分が何かを書くことは出来なくなるかもしれないとの危機感に似た思いを抑えることができなくなってきた。



どこでも見られる共通の構図


もしかすると、TPPの問題と橋本元知事の改革案の問題(というより大阪市長選の問題というべきか)をここで同列に扱おうとすることに違和感を感じる人もいるかもしれない。だが、両者をめぐって交わされる議論をよく読んでみると、はっきりと同じ構図が見えてくる。市場原理派/グローバル化推進派とその反対派(理由は様々だが・・)の対立構図だ。しかも、従来のこの手の議論より一歩前に進んでいる。本件が、狭義の経済分野に限定した制度の変更という枠を越えて、日本の商習慣/社会制度等に至るまで変更を迫っている、ということだ。もっとも、この対立構図はよく注意していると様々なところに見つけることができる。ある意味、原発事故をめぐる対立軸にもこの構図が潜在していることを見て取る事は可能だ。



古くて新しい問題


グローバル化の旗頭として世界に君臨してきた米国も、イラク・アフガン介入失敗、リーマンショック等続き、すっかりその威光がかげってしまったが、それでも、他に適当な代替者が見つからないという意味でも、今でもほぼ『グローバル化=米国化』といっても大方間違いなかろう。今回も米国の商習慣/社会制度にできるだけ合わせていくことがイメージされていると言える。かつて日本の輸出産業が絶好調で、米国に集中豪雨のような輸出攻勢をかけていた時分に、『日米構造協議』というのが行われていて、日本の国内市場にある『非関税障壁=日本の独特の商習慣等』に阻まれて日本市場に米国企業が参入することができないから、日本の社会制度や商習慣を変えるようにしきりに米国が迫ってきたものだが、結局そのころの構図は今に至るまで変わっていないということになる。



商習慣や社会制度でさえ


一方で、あのころ(1980年代後半)と比べると、世界と日本との関係は驚くほど変わった。かつて日本の最大の貿易国は米国だったが、今は中国だ。無類の強さを誇り世界中の製造業をすべてに日本企業で塗り替えてしまいかねなかった日本の製造業も、電気産業はもはや当時の面影はなく、最後の牙城といえる自動車産業とて忍び寄る背後の影に怯えている有様だ。当時は、日本の内需を拡大し、他国からの輸入の増加をはかることが切迫した日本自身の国益という認識が一般的だった。今はそのような認識は持ちようがなくなってしまった。


輸出産業以外の業種(サービス業、流通業等)は当時も今も競争力がなく、非効率的であることは変わりない。(もちろん、ユニクロのような例外もある。)そして、GoogleAppleAmazonのような巨大プラットフォーマーはすでに日本の製造業/サービス業を根こそぎひっくり返しかねない勢いだ。放っておいても米国企業の独壇場になるだろう。だが、それでも尚、日本が強く握って離さず聖域としてきた分野もいくつか残っている。今回はそれがやり玉に上がっている(農業、医療、保険、食料自給、知的財産権、各種安全基準、司法等)。米国企業が進出するにあたって障害になりそうな規制を次々に撤廃し、商習慣や社会制度をあらためさせようということになるのだろう。かつて起きた狂牛病の騒動を思い出して、同じことが仮にもう一度起きたら、日本が独自の基準で輸入制限を課すことが難しくなるというような予想がなされていたが、同様のことはあらゆる分野で起きてくるだろう。



誰が日本人の面倒を見るのか


ここに至ると、『国家の役割』、『国家主権』とは何なのかという根本的な疑問がわいてくる。グローバル企業は自分が参入することで起きる市場の社会問題まで解決してくれるわけではない。(以前、Amazonが日本で税金を納めていない事が発覚して問題になったことがあったが、このようなこともこれから増えて行く可能性がある。)日本で起きる問題であれば日本国が、米国であれば米国がその構成員としての国民を守り、インフラを整備し、国民の教育のレベルを高く維持できるようにはからい、司法制度を整え、有事があれば国防にあたることに当面変わりない(変わりようがない)。『世界政府』など存在しないし、あったところで当面有効に機能するとは考えられない。



不可避のパラドクス


資本移動が自由になれば、当然所得移転も同時に進む。製造業のように日本で物をつくるより新興国でつくるほうが安ければ当然そちらに仕事は移り、所得も移る。インドや中国の中間層が相対的に豊かになり、米国や日本のような国の中間層は相対的に窮乏化する。それをアンフェアと言うのは、国際的な観点から見ればそれ自体がアンフェア、というのは論理的には納得せざるをえない。だが、現実問題として、窮乏化が進む中間層に噴出するであろう問題に対処するのは、国家であり、地方政府だ。今でも猛烈なスピードで変化しているのに、さらにそれを加速させようというのだから、国家や地方政府が後手に回ることは確実だ。税収が目減りすれば社会インフラ整備も追いつかなくなるだろう。教育にも適切な処置を取る事は難しくなる。グローバル化を進めることに覚悟して取組むのなら、徹底して意識改革を行うことも不可欠だと思うが、このままでは現実に職を失い、窮乏化する中間層は急速に『反グローバル化』『ナショナリズム』に傾倒し、取り込まれて行くであろう事は想像に難くない政治的には予定調和どころか、急速に反対者を増加させることになりかねない。そのようなパラドクスと安定阻害要因を各国とも抱えることになる。そこは市場の調整能力のような自動的な調整機能が働く事を期待できる領域ではない。



市場が解決できない問題


断っておくが、私は、80年代のレーガンサッチャー革命のころから、『市場に任せるべきは任せて競争する』という基本原則は一貫して支持してきたし、それは基本的には今も変わらない。それどころか、マーガレット・サッチャー英国元首相の自伝を読み、その『自助努力』の精神や確固たる信念は尊敬さえしてきた。官僚的怠惰と退廃が国全体を覆っていたあの頃のイギリスは、間違いなく彼女のような政治家を必要としていた。そして当時は今より素朴に市場には神の見えざる手が働くことを信じることができた。


だが、その後、テクニカルな意味での金融技術の過剰な発展に伴い、市場は神の手から金融ギャンブラーの手に落ちてしまった感がある。当時から言われていた『環境の限界』の問題も『市場の外部』の問題として適切に取組めきれなかったこともあり、結局地球環境の悪化を防ぐことはできなかったと言わざるをえない。そしてこれからもっと現実的になるであろう、地球の人口過剰の問題を解決できるとはとても考えられない。すぐに、資源、食料、環境問題をさらに深刻にするであろうことがわかりきっているはずの問題なのに、対処できなければ一体どういうことになるのか。市場の外部で起きている問題があまりに多く、重くなっている。少なくとも市場に任せておけば何とかなるという類いの意見にはあまりに現実味が無いし、無責任と言われてもしかたがないのではないか。



視野を広く持つべき


フランスの経済思想家で政治家でもある、ジャック・アタリ氏の『21世紀の歴史』*1を最初に読んだときは、やや荒唐無稽で悲観的に過ぎると感じたものだが、現実のほうがどんどんその予言通りに動いて行くように思えて恐ろしい。帝国を超える『超帝国』は出現しつつあるし、このままでは戦争・紛争を超える『超戦争』も起きてしまうのではないかと最近感じるようになった


もちろん、今でも市場に任せた方が有効と間違いなく考えられる領域は沢山ある。だが、今回のTPP騒動でさんざん言われたように、古典的なモデルがそのまま成立するほど市場の条件が揃っているとは言えない。一例を挙げれば、リカードの唱えた比較生産費説をそのまま持ち出して、自由貿易を単純に礼賛するようなナイーブ議論には要注意だ。(リカードモデルでは、失業者の存在を考慮しておらず、「価格優位国は完全雇用になり、価格劣位国は失業が大幅に増加する」という指摘は結構重い。)今は、どんな理論でも、その前提条件をきちんと踏まえた上でなければ、簡単に採用することはできないはずだ。市場を最大限機能させたければ、資本主義を本当の意味で守りたければ、時に市場だけに任せるのは『贔屓のひき倒し』になりかねないことを胸に刻んでおくべきだと思う。

*1:

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界

21世紀の歴史――未来の人類から見た世界