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日本のインターネットの『ネットワーク』生成にあたって

馴染んできたIT業界の常識


普段、インターネットの最新事情、それによって劇的に変化を遂げる市場の状況等について、比較的しっかりとした見解を持っている人のブログやTwitterを読み、セミナー等に出席し、そういう人たちと意見交換をすることを心がけていくと、時に自分が『門前の小僧習わぬ経を読む』状態になっていることに気づく。最先端の深い知識が人より豊富になったわけでもなければ、理解が他の人より優れているとはまだとても言えないことは自覚しているが、多少なりともIT業界なりの『常識』、『市場感』あるいは、テクニカルタームの使い方等には慣れてきたように思う。



普通の人との間の大きな差異


そうしているうちに、時々同窓会で昔の同級生に会ったり、以前いた業界の友人や先輩/後輩等に会うと、あまりの違いに愕然としてしまう事が本当に多くなった。意見や見解が違う事自体は当然の事だし、そうあってしかるべきだと思うが、いまだにインターネット有害論、不要論、なかでもソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)の有害論、軽視、蔑視がこれほど多いとは、と驚いてしまう。もちろん、本質的な部分での善し悪し、評価についてはまだ軽々に結論づけることはできないとは思うが、少なくとも私がこの業界にいてそれなりに感じている常識では、少なくともインターネット、中でもSNSやソーシャル・メディアの浸透については、もはやこの流れは不可逆で、社会のあらゆる部分にもっと浸透して、活動の意味や人の価値観を変えてしまうインパクトを持つことに何ら疑いを抱いてはいない。中にはネガティブなものもあるが、明らかにポジティブな影響も多いし、これからも自分たちが意図して取組んで行く事でさらに良い方向に進めて行けると思うことができる。



ステレオタイプ?


何より最近とても気になるのは、インターネットやSNS等にネガティブな彼らの反応や見解がすごく似ていることだ。一人一人、聡明で学識もあり、一家言ある優秀な人で、他人と安易に同調するなどとんでもないと言わんばかりの人たちが、インターネットやSNS等に関してはものすごくステレオタイプな発言を繰り返し、『またか』と思う事がものすごく多いのはどういうことだろう。具体的に言えば、こんな感じだ。

『ブログやTwitterなどの情報は、情報源も怪しいし、デマの可能性も高い。NHK日経新聞朝日新聞のような権威の裏付けのある情報ソースのほうが信用できる。』


『インターネットには新奇な情報が溢れていることはわかるが、本当に大事なのは古典をちゃんと読む事なので、インターネットに時間をさくのは時間がもったいない』


SNSと言っても、中で沢山発言しているのはまだほんの一部の変わり者ばかりで、社会全体に影響などというのはおこがましい。』

簡単に切り返せる


いちいちもっともな意見であり、それなりに理解できないわけではない。それどころか今でも当たっている部分はかなりあるとさえ言える。だが、インターネット、なかでもSNSが革命的なのは、この従来の常識を覆しつつある事実が現実に起きてきているところにある。そして、その現実は日を追うごとに大きく、リアルになってきている。今ではインターネットに造詣が深い人なら上記の意見を切り返すのは雑作も無いはずだ。例えばこんな感じだ。

『ネット情報には間違いやあやしいものが多いのは確かだが、中には驚くほど現場に密着した、先入観のベールを脱いだ、しかも新しい情報に出会えることが最近はすごく多くなってきている。一方、既存のマスメディアは広告宣伝費の額の多い企業の影響を受けたり、過剰なコンプライアンス規制のために無難な記事しか出なくなったり、記者の異動が多すぎて専門性が不足していたりということが多くて、本当に欲しい情報を見つけることがしばし難しくなっている。』


『古典を読む事の大事さは今も変わらない。だが、どの古典を読めばよいか、古典をどのように読むとよいか、新しい解釈をする人をどこでみつければよいか等、古典にさらに深く親しむきっかけはネットのほうが得やすくなってきている。』


SNSの利用はまだ始まったばかり。だが、それでも人の購買行動を変え、ライフスタイルを変え、ビジネスの型を変えつつある。SNSに子供のころから親しむ若年層が本格的に参画するようになるのももう間近。5年もすれば企業も大きく変貌し始めるだろう。』

根本的な違いの理由


両者にはあきらかに根本的な理解の違いがある。いったい、何が両者の違いを決めているのだろうか。これには様々な意見があるだろうが、私の場合いつも『ネットワーク』の理解の違いに行き着く。インターネット以前を知る私たちの世代の意識の中には、インターネットがもたらす『ネットワーク』の革命的な意味をどうしても受入れ難い『常識』がこびりついているようだ。『大衆=衆愚』という理解が覆される事態がありうることをどうしても信じられない。それに、個々人が他の個人と結びついたり離れたりしながら成果を上げるというのもイメージしにくいように思う。個人の力は何らかの組織に委託するものであって、社会は強く固まった組織単位で運営される、という思い込みもなかなかに根強い。いずれも20世紀の日本を支えた信念に係ると言っても過言ではない。



若いからといって・・


若年層は確かに子供のころからSNSに親しんで、自然にこれを利用することに慣れていることは確かだ。だが、その若年層を私自身が見ていて思うのは、確かに上の世代と比べてモバイルを含むインターネット利用に非常に熟達していて、大変自然に使いこなすことは間違いないが、だからといって『ネットワーク』、あるいは、『ネットワーク」と親密な関係にあるコミュニティの深い理解や自らコミュニティをつくり、あるいはコミュニティに参入してこれをうまくビジネスや社会生活に生かして行くことに熟達しているかというと、必ずしもそうは思えない。



日本の『ネットワーク』の生成


今生成しつつある『ネットワーク』インフラは、『ソサイエティ』の伝統のある米国で最も使いやすいように出来上がってきている。Facebookなどその典型ともいえるが、そもそも個と個を基盤とする伝統のある米国のような社会にはインターネットのコンセプトはいかにも馴染みやすい。そのような伝統がない日本でどのような『ネットワーク』をつくりあげていくのか、いわばまだ実験は始まったばかりだし、単純に米国の作法を真似れば済むような問題でもない。


戦後民主主義日本の文化的伝統やなじみある思想/行動様式の中からいくつかを掘り起こしてうまくつかうことが成功したが故に、ある面非常に成功したが、西欧の民主主義とはまったくコンセプトを異にする日本版ハイブリッドができあがった(それ故の問題も沢山出てきた)。日本のインターネットを通じた『ネットワーク』の生成過程でも、これから同様のことが起きて行くのではないか。そしてそれは無意識に行われるよりは、もっと自覚的かつ意識的に取組むことで、米国や他国とは違うことを言語化して明示し、場合によっては世界の他国に持ち出していけるものになる可能性もありうる。



中高齢層にもやれることはある


このように考えれば、若年層にまかせるばかりが日本の『ネットワーク』を形成し熟成する唯一の手段とはいえない。むしろ、上の世代が戦後に独特の日本なりの民主主義やビジネスの様態をつくりあげた自らを反省し、分析し、そのエッセンスを言語化することができれば、日本のインターネット上の新しい『ネットワーク』づくりに参画し、貢献していくことはできるはずだ。日本の社会インフラの熟成のために有意義に働くことは可能なはずだ。もちろん、これが簡単なことだというつもりは毛頭ない。むしろ、中高齢層にとっては、このような切り替え自体が難しいことは言うまでもない。だが、一念発起、自らを変える覚悟があれば、やるべきことは沢山あると私は思うし、一人でも多くの人がそういう変身を果たして、自信を取り戻し、社会にも貢献していっていただきたいものだと思う。