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依存と幻想からの脱却/思想地図β Vol.2

貴重な地図であり羅針盤:思想地図


東浩紀氏編集の思想地図は、発売以来欠かさず読んで来た。それは広く一般の人が読むことができるほど平易ではなく、参入するためには一定のハードルを越えなければならない。現代日本ではすっかり衰退してばらばらになってしまった『思想』の断片を拾い集める根気と、自分の頭を使って考えることを最低限要求される。人々がすっかりその習慣を無くしてしまった今、そのハードルは限りなく高く見える。だが、ひとたびある程度準備ができてその世界に参入してみると、身近にありながら気づくことのなかったものがいかに沢山あったかを知って驚くことになる。そして、思想地図が今の日本では希有の『地図』であることに気づくだろう。ここに時代がそっくり写し取られ、地図として一覧できる。もしかしたら、地図というより『羅針盤』と言ったほうがいいかもしれない。日本の思想シーンを知るための地図であり当代有数の羅針盤、それが思想地図だ。



過去を全否定する東浩紀


ところが大変驚いたことに、東日本大震災を経て、東浩紀氏は、過去の著作黒歴史のようなもの』とまで言い切る。震災以後、すべてが変わったということだ。最近では、心ある思想家、ジャーナリスト、評論家が異口同音に語るところでもある。しかしながら、震災以後かなり早いタイミングで、言い訳もせず、自分の過去を切って捨てることができるほど偏見やしがらみなく神経が研ぎすまされているこの人の本なら、震災後の日本の精度の高い写し鏡になっているに違いない。そう感じたこともあって、この震災以後を取り扱った、『思想地図β Vol.2』の発売を早くから楽しみにしていた。

思想地図β vol.2 震災以後

思想地図β vol.2 震災以後



ここで提示された問題に答えられるか


いざ読んでみると、予想通り、震災以後の錯綜した状況を読み解くのに非常に有用な一冊になっている。賛同できるかどうかは別として、ここで提示される主張はそれぞれに含蓄があり、大変示唆に富んだ提案や疑問点が目白押しだ。私などこれらに一つ一つ答えて行くことでしか、もはや本当の日本の再生はないのではないかとさえ思った。震災前までの時点で、すでに日本はあらゆる局面で行き詰まり、出口のない迷路をさまよっていた。ただ、それでも最後の薄皮ともいえる虚構の皮をかぶっていた。それが震災で完全に破れ、本当の姿があらわになった。薄々わかっていたことではあるが、あまりの惨状に声を無くしてしまう思いだ。それを非常にリアルに実感させられる。



自分なりの理解


ただ、思想地図は、多くの論者の投稿、インタビュー、座談会等で構成されており、東氏の編集方針のラインははっきりしているとはいえ、何らかの結論や仮説に一本化をはかろうとしているわけではない。当然それは読者の側の判断にゆだねられる。個性的な論者が提供してくれる論点を解読し、自分なりの仮説を構築することが求められているということになる。私も、まだ断片的でまとまりがないながらも、ここで示された日本の問題点の解読/解釈くらいは自分なりに行っておきたいと思った。それは書評と呼べるものではないが、逐語的な感想文は他の人におまかせして、今回は自分の理解を披露してみようと思う。



老朽化した現状の日本のイメージ


思想地図に参集している論者の言説から構築できる(自分の解釈は多分に混ざるが)、老朽化した現状の日本イメージは、ざっと次のようなものだろう。


戦争に負けた日本は、それまでの日本の歴史観からの決別をはかり、同時に過去の歴史に刻まれた災害とともに生きる島国の宿命を忘却するに至る。また、防衛や生命や命に関わることを米国等他国に委ね、一方でその存在を(意図的に)隠蔽する。そのようにしてつくりあげた安心/安全の幻想の元でしか成立しない虚構の日常を確固とした存在と見なす『空気』を醸成し、いつしかそれは『自明なもの』となり、国民は自ら考えることを放棄し依存するようになる。しかも、戦前から続く言霊信仰は生きながらえて、『日常の自明性』に異を唱えるものを意識的/無意識的に排除する。面倒なことは『米国』『国家』『政府』に丸投げして依存し、自立を放棄する。国家の言うことは無条件に正しく、検察は無謬で、官僚は優秀で責任感が強いという神話が生まれる。自ら政治に関わることは良い結果を生むどころか、『空気』の制裁を受ける。安定して自明な無菌空間で、経済活動に関することだけに専念すればいい。いつしか日本は『ディズニーランド化(猪瀬直樹氏)』することになった。大人はいなくなり年を取った大人子供で溢れることになる。そうして出来上がった体制の中で経済的な利益追求に専念しディズニーランド(あるいはオタク世界)を楽しむことが最善の生き方で、体制やシステム自体を疑う行為は何であれ(政治、思想、宗教等)ネガティブなものとして排除され、固執すれば村八分になる。『右肩上がりの経済成長』『科学は万能でいつでも正しく正しい解を与えてくれる』『お上に任せておけば何とかしてくれる』というような少し考えれば誰でもわかりそうな『都市伝説』を疑うことさえ許さない。誰もが思考停止し、政治も思想もファッションとしてしか生き残れず、自明性を疑って切り込むとダサイしモテない。



陣営論争と誹謗中傷


だが、震災前から、もうそんな日本はどこから見ても崩壊寸前だった。甘い夢から覚めることを強要されていた。だが、それでもなお、『大人子供たち』は幻想にしがみつこうとしていた。だが、震災、特に原発事故は最後の抵抗を無化し、幻想が振り払われようとしている。震災以降の言説を追っていると(マスコミ、インターネットどちらでも)、原発vs反原発のような陣営論争に分かれた誹謗中傷の応酬がほとんどで、多くは理屈も合理性もない。合意に至ろうとする努力も見られない。非常に強い調子で陣営の向こう側と見なす相手を攻撃するのは、恐らく自己の所属の安心や自我の安定を保とうとするのが一番の目的で、またそれを危うくされることの恐怖心に駆動されているから、現実を正しく認識するより、現実を自己の都合のいいように解釈し、現実の認識を無意識に歪めることになる。しかもさらに深刻なのは、従来はエリートと呼ばれて来た、官僚、学者、経営者、マスコミ等の中の多くの人たちが先頭に立ってこの陣営論争/誹謗中傷合戦を煽る。そこには、大衆とエリートの差などみじんもなく、むしろエリートと呼ばれる人達のほうが、『科学幻想』を巧妙に利用し、『国家の無謬幻想』にうまく乗るだけに始末が悪いとさえいえる。



戦後日本に弓をひいた者たち


かつてこんな戦後日本に弓を引いた者たちもいた。例えば、小説家の三島由紀夫氏。国家も防衛の問題も覆い隠した『戦後の日常』は『虚偽の日常』と糾弾して、割腹自殺まで遂げたが後に誰も続かなかった。また、オーム真理教。竹熊健太郎氏が指摘するように、豊かな日常はいつしか堪え難い閉塞感に反転する

経済的に成功した「先進国」に住む人間は、豊かさを享受する日常を送りながらも、同時に「退屈」を感じている。退屈はいつしか息苦しい閉塞感となって、人々は文明社会が滅亡する夢想にふけることを閉塞感のはけ口としている。 
同掲書P155


オーム真理教に参集した若者が起こした事件の数々は、マンガ/アニメ的なハルマゲドン願望を基盤にしたオタク世代の願望の最も歪んだ出口だったと言えるだろう。だが、いずれも日本型安心安全システムはこれらの問題を解決することなく飲み込み、問題を後送りしてきた。



裏面の真実


いかに表側はディズニーランド化して永遠の子供の世界を創り上げても裏側の人生の現実まで全て覆い尽くせるわけではない。釈迦の四門出遊ではないが、お城の中は楽園でも、一歩外に出れば、死も老も病も満ち溢れている。生もけして楽ばかりではない。さらには日本がいかにディズニーランド国家や非武装中立を望もうが、一歩国を出ればそこは国家エゴが激突する阿修羅の世界である

仏教の教え-四門出遊



幻想の科学の問題


また、その日本を理論的に支配していたのは、『楽観的にデフォルメされ、万能という幻想にとらわれた科学』だったわけだが、そもそも科学自体は仮説と統計の集合体で、今日正しいとされる説が明日にはただの迷妄となる可能性は誰も否定出来ない。しかも、科学が取り扱うことの出来る事象も本来極めて限定的だ(全体を通じて私個人はこの問題に一番感じるところがあった)。例えば、八代嘉美氏が例にあげているように、96年3月には、それまで人にとっては安全だとされてきたBSE(牛海面状脳症)が人にも感染する可能性があることを英国政府が認め、科学や専門家、政府に対する英国民や欧州市民の信頼は大きく損なわれた。同種の過去事例では、恐怖映画さながらのロボトミー手術の事例がある。ロボトミー手術というのは、前頭葉を切除するという乱暴な手術だが、かつて重度の鬱病統合失調症等に治癒効果があるとして多くの手術が行われ、あろうことか手術を考案した外科医にはノーベール賞さえ授与された。この手術は、大きな副作用があることが認められるまで日本でも数多く行われていた。そもそも、瀬名英明氏や東浩紀氏が指摘するように、手法として科学だけではうまく対応できない問題群が存在する。震災によって我々はそれを見せつけられた。それは、本来思想、宗教、言論、そして共同体が補うべきものなのに、日本ではそれらが震災という非常時を迎えても機能しなかったことが明らかになりつつある。

ロボトミー手術


本書は本来そんな科学の言説の架け橋になるべき思想の側を取り扱う人達が集まっているだけあって、反省の弁も含めて、いくつも重要な発言が見られる。

東浩紀

そもそも今回の震災、というか原発事故は、情報が全部オープンであとは自己決定でっていうモデルがそう単純にいかないことを明らかにしたと思います。まず第一に、事故そのものに対してあまりに情報がない。あったとしても被害は統計上の問題で、因果関係が個別には特定できない。子どもにはがんが出るかもしれないし、出ないかもしれない。合理的に考えれば正しい答えが出るというのは、こういう場合には無理なんですよ。(中略)


今回、僕たちの社会は実務家的な合理性を超えている存在を扱っていることもまた明らかになった。そこは謙虚になるべきです。要は人間の合理性の範囲を超えた災厄がこの世界にはあるということです。だから、そういう意味でいうと、ゼロ年代に強くなった実務家的な知というのを僕は決して否定しないんだけれど、今回の災厄がその限界を画するものだっということもまた明らかだと思う。
同掲書P101

鈴木謙介

合理的な議論の「弱さ」、合理的に設計できる範囲を越える事態が起こっているときに、「合理的に判断しろ」という滑稽さに気づかない、合理性のなかにいる人たちという話だったわけですけど、合理性の外部って何が担っていたかというと、本来は宗教だったわけです。(中略)
同掲書P101


合理性の外部について、あるいは宗教的な『信仰』についての言葉を、宗教以外で届けられるはずの文芸とか思想の言葉が扱かおうとしてこなかったというところが問われてくる状況があるなあと思います。 P102
同掲書P102

瀬名秀明

なぜなら対話には「真理へと至る対話」『合意へと至る対話」「終わらない対話」という三つの段階があるからだと。科学は「真理へと至る対話」は扱うことができるが、「終わらない対話」のことはいえない。科学的知見は三つのフェーズすべての基礎になるものですが、科学だけではうまく対話できないときもある。社会的立場が異なる人たちが集まってなにか合意しなければならないときや、もっと思想的な問題を議論するときです。

同掲書P112

依存および幻想からの脱去が不可欠


実際に現出した問題は、それぞれ上記のような潜在する問題群に由来するものが多い。だから、経済的な復旧というような単一で安易な解決策は万能薬にはなりえない。だが、少なくとも解決策の根幹には、あらゆる依存および幻想からの脱却があることははっきりしている。そしてこれは、国家や官僚、会社といったような組織の問題という以前に、個々人の自覚の問題だ。個々人が依存と幻想から抜け出る決意をどれだけ持つことができるのか。日本が立ち直れるとすればほとんどすべてがその決意にかかっている。私は今回の思想地図からそのようなメッセージを受取った。皆さんも是非、自分で読んで皆さんなりの解答にたどり着いてみて欲しい。本当にそうする人が一人でも増えること、これがすべての出発点なのだから。