企業における『組織』から『個人』へのシフトの意味と重要性

 



スティーブ・ジョブズ氏 アップルCEO辞任


先週飛び込んできた最もインパクトのあるニュースと言えば、何といっても『アップルのスティーブ・ジョブズ氏のCEO辞任』だ。当代随一のカリスマであり名経営者であるジョブズ氏の辞任ともなると、その関連の記事も半端ではなく、とても読み切れないほどの量が溢れ出てきている。(それはもう私がここで今更何かを書くことが気恥ずかしくなるほどだ。)


膨大な記事の山といっても、大方どの記事にも共通するのは、ジョブズ氏のカリスマとしての偉大さと、ジョブズ氏というカリスマがいなくなるアップルに対する今後の懸念である。


もちろん、ジョブズ氏の後継者に決まったティム・クック氏や製品デザイン責任者を務めるジョナサン・アイブ氏等、近年、優秀な人材が徐々に表に出て来ていて、後継体制を意識した準備は進んでいるように傍目にも見えていたし、ここまで盤石なビジョンと実績の裏付けのあるアップルがいくら何でも急に崩壊していくとは考えにくい。実際、株式市場もジョブズ氏辞任の報道に一時は急落したものの、その後ある程度値を戻して落ち着いてきており、これは当面それほどの心配は無いとの市場の声の反映と言っていいだろう。ただ、それでも、おそらく誰もがどうしても懸念として払拭できないのが、中長期的なアップルの行く末だ。やはりジョブズ氏の存在は大きい。

http://news.goo.ne.jp/article/wired/world/wired-935.html



起業組織より個人


ジョブズ氏ほどのカリスマとはいかないまでも、昨今、企業のパワーは個人の力量に負うところが非常に大きくなってきている。ブランドも企業名としてのブランドより、ブランドを引っ張る個人のほうが注目度も影響力も大きくなってきている印象がある。不況に喘ぐ日本でも『ソフトバンク』、『楽天』、『ユニクロ』と言えば、数少ない元気な企業だが、それぞれ孫氏、三木谷氏、柳井氏というコアがいなくなるとどうなるだろうとの懸念を持つ人は多いのではないだろうか。多少意味は違うが、最近比較的流通するようになってきた有料メルマガも、企業名を冠にしたものは部数はさっぱりで、人気があるのは堀江貴文氏であったり、上杉隆氏であったり、個人名がリードしているものばかりだという。



カリスマの功罪


かつて、経営学者の故ピーター・ドラッカー氏は、経営者に必要な資質は学んで身につけることができるもので、カリスマ性は不要と断言していたものだ。その事自体は今でも企業経営における一面の真実だと思うし、実際、企業の継続性という点では、カリスマが引退したらその会社が終わりというのでは株主も従業員もたまったものではない。また、如何に優秀なカリスマであっても、個人であるが故の弱点は企業経営が長くなればなるほど露呈するもので、市場の変化にカリスマのビジョンが追いつかなくなって、会社を破綻に追い込むような事例は枚挙にいとまがないダイエー王国を築き上げた中内功氏も晩年は時代の変化を読み切れなかったし、ヤオハンを一度は世界規模の小売チェーンに押し上げた和田一夫氏などもカリスマの功罪の罪の事例として日本の経営史に名を残している。



潮流は変化している?


となると、今『カリスマ』『個人』の存在が企業経営にとっても重要になっているように見えるのはどういうことだろうか。何らかの潮流の変化があると見るべきなのだろうか。


私の答えは『Yes』だこれから先さらに一層、この『個人』の重要性が(経営の分野だけではなくビジネスのあらゆる局面で)増して行くと考える。もちろんこの反面として、企業の安定性は多かれ少なかれ犠牲にならざるをえないだろう。カリスマがいなくなって企業としての先行きが危ぶまれるアップルのような会社はまだいいほうで、カリスマの個人的な栄枯盛衰に企業が引きずられる事例は今より多くなるかもしれない。だが、製品やサービスが成熟して高付加価値化が望めなくなってコモディ化し、イノベーションが活性化することも期待薄というような企業であれば特に、リスクをおかしてでも『個人』が生み出す価値に賭けて行かざるを得なくなるはずだ。本来、成熟商品で典型的なコモディティであるパソコンにあれほどの価値を吹き込む魔術を演じて見せたのがスティーブ・ジョブズ氏という『個人』であったことがそのいい例だ。



解体に向かわざるをえない日本の大企業


この、『組織』から『個人』への流れは、長期安定的な垂直統合を前提に組成された日本の大企業をますます解体の方に追いやると考えられる。個人の不安定性を極力排除し、コンスタントに標準化された高品質な製品やサービスを提供できることを旨として成立している大企業は、不安定ではあるが高い付加価値を生む可能性のある個人の能力を最大限生かすことが重要な競争条件となった時、その構造自体が弱点ということになる。従来はそれでも従業員としての優秀な個人を如何に高度に管理された企業組織に取り組むのかを考えておけばよかったのだが、とうとうそれが個人としての経営トップにまで及ぶに至って、いよいよ逃げ場はなくなって来ている。



経済合理性が突出する資本主義の本質


資本主義は、本来『交換』という行為の持つ、贈与等の、文化的/社会的な意味や価値をすべて捨象し、貨幣というすべてを等価交換できる価値に一元化して、その結果、極限の効率化/経済性を実現した。のみならず、それは教育、アイデア、生命に関わる遺伝子、臓器等、それまで市場交換の埒外にあったものに至るまで飲み込み、経済合理性/計算可能な数量換算化重視という価値を人間/社会活動の全域に行き渡らせて来た。経済合理性という価値に一元的に統合された世界では非合理で非能率的な人間の無意識や感情は極力排除し、合理的な思考のみで世界を構成することが最も望ましい。そして人間的な不確実性を究極まで排除した機械的な労働や組織や、機械そのものに置き換えて行くことが一層『合理的』ということになる。だから近代の合理化された会社組織は、個人のゆらぎや非合理を極力管理により排除し、組織を強力な管理の元に統制し、高賃金労働より低賃金労働、コストの安い機械設備等へ置き換えて行く。だから、付加価値のなくなったパソコンのような製品は、資本主義の合理性で言えば、賃金と貨幣価値の高い日本のような国より低賃金の国に速やかに移すことだけが正しい選択となる。



管理された『組織』から自由発想できる『個人』へ


だが、皮肉な事に、成熟した商品やサービスに高付加価値を付与する、あるいは、従来にない高付加価値商品を生み出すことは、この経済合理性が全域に行き渡れば行き渡るほど困難になり、競争の次元が合理的でわかりやすいほど他社との競争に勝つことが非常に難しいということになってしまった。今や、新たな高付加価値や意味、アイデア、新たなイメージ等が生まれてくる土壌は、すべて非合理な人間の無意識にあると言っても過言ではない。少なくともこの無意識の領域を探求せざるを得なくなった。『夢』『芸術』『創造性』『美意識』『ビジョン』『世界観』『物語』『思想』『感性』等々、付加価値、創造性の源泉とされる要素は、いずれも合理性の埒外というより対局にあると言っていい。これは管理化され、合理化された組織からはまず出てこない。高付加価値、創造性、そしてそれを基礎としたイノベーションを実現したければ、管理された『組織』から自由発想できる『個人』に軸足を移さざるをえないのである。極論すれば、組織がおよそ意味があるとすれば、そのような個人と個人が切磋琢磨して、無意識を意識化することができる場を提供できる場合のみ、ということになる。



個人重視の経営


このイメージから想像できる近未来のビジネス像は、最終的には、個人/フリーランスがプロジェクト毎に集合離散していく様態だし、過渡期的には優秀な個人がいたくなるような組織と環境をつくり、自由度をできるだけ与えて行くという経営スタイルは不可欠ということになる。これは今のGoogleの経営にその典型を見ることができるが、まさにジョブズ氏というカリスマがいなければ、Googleのような経営が次善の策ということになる。



ソーシャルが可視化する『無意識』


このような文脈で語ってみると、もう一つどうしても留意すべきだと思うのは、かつては個人や社会の裏面に隠れて見ることができなかった『無意識』がインターネットというアーキテクチャー、特にソーシャル・ネットーワーク、ソーシャル・メディアによって見えるようになってきているという現実だ。よって、今の時代の、というよりこれからの企業の経営にとってこの可視化された社会の無意識と対峙すること、社会の無意識から付加価値を引き出してくる事が競争に勝ち残りたければ不可避ということになる。だが、長くなったので、この点は今回はあまり深入りしないでおこう。



日本企業の衰退


インターネットの企業経営における利活用という点では日本は先進国の中でも遅れが顕著とと言われて久しい。そして、今でも管理組織優先の大企業に個人として優秀な人材が死蔵されている。これでは日本の競争力が落ちて行くのも当前だ。日本の大企業のトップはこのことの意味を今一度よく考えてみて欲しいものだ。



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